帰宅し玄関の置物の違いに気づく。
ふだんは言われるまで気付かないことが多いのだが。
もう、そういう時期になったのかと、若干疲れた余裕のない体で。
多分(違うかも知れぬが)年に一回の行事のために取り出してくるのって、やはり、偉いと思う。
私にのようないい加減な者にはできないことだ。
この乖離が不即不離(つかずはなれず)の微妙なバランス感を保っているのだと自分で納得している。
今日もなにやかやと忙しなく過ごした。
昼から出かけたのだが、午前中の中途半端な時間はいかんともしがたい。
通院しておけば良かったと気づくのが遅かった。
今日も昨日同様、日中は天候が予報通りでなく通り雨があったようだ。
雨に降られれば仕方がない、と諦めもつこう。
たかだかその日の天気予報ですらこの程度なのだから。
そう思うのだから活火山であっても火山の噴火予知なんて出来ると思う方が期待し過ぎなのかも知れぬ。
ましてや地震予知なんて。
そういう地球の上に住んでいることを認識し、わが身に降りかかってからあたふたしても仕方がないと観念しても大差ないように思う。
あらゆることに備えるなんて所詮無理難題なこと。
明日はわが身の地球上の一住人なんだ。
自転車で一人旅をしているときは、ある程度のアクシデントに備えてはいるが、それを超えたらお手上げも仕方がない、と出かける。
その吉凶の結果はわからない。
それでも出かけての不運は甘んじるよりほかにないのだと思う。
それが嫌なら近寄らないことだ。
今思うに自分にはそういうアクシデントには遭わないという「不確かな」確信のもとに私は毎日を過ごしているのだと。
杞憂という故事がある。
杞憂の人が無事の人とは限らないと思う。
災難はどういう形で降りかかるかは誰も予想できないのだから。
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