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江戸時代の文学

2017-05-10 | 『新世界史頻出年代暗記』

おっ母雨期じゃ郷人暦。

伽草子(おとぎぞうし)・名草子(かなぞうし))(世草子(うきよぞうし)・表紙(きびょうし)・落本(しゃれぼん))(合巻(ごうかん)・情本(にんじょうほん))(稽本(こっけいぼん)・本(よみほん))


〈2015早大・社会科学:「
 江戸時代後期においては、交通の整備が進み、人の移動が盛んになり、地域問の交流も活発に行われた。江戸の繁栄は経済面に止まらなかった。特に文化・文政時代の前後には、町人文化が開花し、近世文化が爛熟期を迎えた。文化年間には、600軒を超える貸本屋があり、人びとの1文学への欲求を満足させた。2文学作品の作者のなかには、江戸町人や浮き世絵師もおり、彼らは当時の社会や庶民の生活を描き、独特な感覚と手法を武器に多くの読者を獲得した。

問1 下線部1文学に関連して、文化・文政時代前後の文学に関する記述として、適切なものはどれか。1つ選べ。

 イ 17世紀後半以来衰えていた浮世草子は全盛期を迎えた。
 ロ 江戸の遊里の生活を描いた黄表紙が流行した。
 ハ 江戸の風俗をうがち、風刺した洒落本が流行した。
 ニ 恋愛ものを扱った読本が流行した。
 ホ 庶民の生活を描いた滑稽本が盛んになった。

問2 下線部2文学作品に関連して、著者と作品の組み合わせとして、不適切なものはどれか。1つ選べ。

 イ 式亭三馬『浮世風呂』
 ロ 十返舎一九『東海道中膝栗毛』
 ハ 山東京伝『江戸生艶気樺焼』
 ニ 曲亭馬琴『雨月物語』
 ホ 為永春水『春色梅児誉美』」

(答:問1ホ〇、※イ・ロ・ハは×で浮世草子、洒落本、黄表紙は化政期以前、ニ×読本は恋愛物ではない、問2ニ×『雨月物語』は上田秋成)〉

 

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1789年〈司馬江漢、『不忍池図』〉★

2017-05-09 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

 

●江戸時代(天明3

 1783年〈司馬江漢、『不忍池図』〉

Shiba Kōkan makes his first copperplate etching.

非難ヤーさん どうしばこ。

     1783           銅版画 『不忍池図』 司馬江漢

 

司馬江漢は浮世絵の鈴木春信に学んで錦絵の版下を描いた。次いで平賀源内と交わって遠近法・陰影法を取り入れた洋風画を描き、大槻玄沢らの協力を得て腐蝕銅版画技法を修得して1789年日本最初の銅版画を創始した。さらに西洋画法による風景画も描く。代表作に『不忍池図』がある。

 

 Portrait of Shiba Kokan.JPG

高橋由一筆「司馬江漢」


[ポイント]

1.司馬江漢の代表作は、『不忍池図』。

[解説]

1.西洋画は、近世の初めに南蛮人がもたらしたのち途絶えていたが、蘭学の隆盛につれて油絵の具などとともに絵画の技法が長崎を通して伝えられ、18世紀後半に伝えられた西洋画では、司馬江漢(しばこうかん)(1747~1818)や亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)(1748~1822)らが活躍した。

2.江漢は、江戸の町人の生まれ。はじめ狩野派、ついで浮世絵の鈴木春信、ついで平賀源内に学ぶ。腐蝕銅版画技法を修得して日本最初の銅版画を創始した。さらに西洋画法による、主に風景画も描く。

2016法大・文(哲史)営(営)人間:「
問6 下線部f歌川広重が制作した作品として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア『富嶽三十六景』 イ『不忍池図』

 ウ『十便十宜図』  エ『名所江戸百景』」

(答:エ)〉


2015関西大・済文社会2/1実施

(E)幕末期、長崎通詞のひとりである(9)【ア)本木昌造 イ)高橋景保 ウ)亜欧堂田善】は鉛活宇を試作し、その後、鋳造鉛活字を完成させた。」

(答:ア)〉


2014立大・文:「

問3.これ町人文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.伊藤若沖は、尾形光琳の装飾性に写実性をくわえた画風をうみだした

 b.小田野直武は、日本初の腐食銅版画を創製した
 c.平賀源内は、文人画と呼ばれる画風を大成した
 d.松村月渓は、錦絵と呼ばれる多色刷の画法を完成させた」

(答:a ※b×小田野直武→司馬江漢、c×文人画→西洋画、d×松村月溪→鈴木春信)


2013法大・法国際文化キャリアデザイン:「

問6 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選べ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dを選べ。

 近世においては、異国の知識や文化の流入経路が限られるなか、かえって人々の間では異国的なものへの関心が高まった。絵画の分野では、a呉春が西洋画や中国画に触発されて独自に写生の技法を確立し、その後の絵画史に多くの影響を与えた。また、b司馬江漢や亜欧堂田善による、風景を写実的に捉えた西洋風銅版画が人気を博し、c池大雅や谷文晁らの文人画は中国的な風景や人物を描いて知識人たちに好まれた。」


(答:c×※池大雅は日本各地を旅行し中国とは違う日本の風景を描く)


2012京大・前期:「

 18世紀半ば以降、日本の画壇に西洋画の影響を受けた動きが見られるようになった。円山応挙は遠近法や陰影法を取り入れ[ ケ ]を確立させ、[ コ ]は日本で初めて腐食液を用いた銅版画の作品を発表した。」

(答:ケ写生画、コ司馬江漢)〉


2012同志社・神商心理:「

問e.前野良沢や平賀源内らと交流し、遠近法・陰影法を取り入れた洋風画を描き、1783年に日本銅版画を創製した人物名を記せ。」

(答:司馬江漢)〉

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藤原北家の内部争い

2017-05-08 | 『新世界史頻出年代暗記』

けんつケンカの/道ナイシュ

兼通兼家)(道長伊周

[句意]兄弟、叔父甥が剣突ケンカをする道は(北家にとって)ナイスだった、という句。「剣突(けんつく)」とは邪険にあつかうこと。「兼通(かねみち)」「兼家(かねいえ)」「伊周(これちか)」はそれぞれ音読みして「兼通(けんつう)」「兼家(けんか)」「伊周(いしゆう)」と読ませているので注意してください。

[point]
1.藤原北家内部では、摂政・関白の地位をめぐって兼通兼家の兄弟が、道長伊周の叔父・甥が争った。

[解説]
1.摂政とは「政治を摂(と)り行う」の意味。古くは推古朝の厩戸皇子(聖徳太子?)のように、摂政は天皇が女性、幼少などの時、その天皇に代わって政務をとったとされる例はあるが、皇族に限られていた。

2 関白とは「政治に関り白(もう)す」の意味。天皇をたすけて政治を行う職務で、奏上文のすべてを天皇が見る前に内覧する。その点政治を専(もっぱ)ら行う摂政とはちがう令外官であった。しかし両者は仕事の内容にそれほど違いはなく、11世紀の道長が就いた「内覧(ないらん)」も実質的には同じ。

3 藤原兼通(兄)は、972年、権中納言から一挙に、大納言兼家を越えて関白となる。

4 藤原兼家(弟)は、兄兼通より出世が早かったが、関白となった兼通に憎まれ出世を妨げられた。しかし兄兼通の死後の986年、一条天皇が即位した結果、外祖父の兼家は摂政ついで関白に就任。以後、兼家の系統が摂関を独占した。

5 995年、内大臣伊周(甥)と権大納言道長(叔父)が争い、道長が内覧に就任し覇権を握った。

6 伊周は翌996年、大宰権師に左遷される。その弟隆家は出雲権守に左遷されたが、のち大宰権師となり、任中の1019年に起こった刀伊の入寇を撃退することになる。皮肉なことに道長政府の無策を救うことになった。

2013早大・文:「
藤原兼通と[ E ]は実の兄弟でありながら、権力争いを繰り広げ、道長が甥の[ F ]との権力争いに勝利したのち、摂関時代の黄金期を築きあげたことはよく知られている。」

問 空欄Eと空欄Fの組み合わせとして正しいものはどれか。

 アE道隆―F道兼
 イE道兼―F道隆
 ウE伊周―F道隆
 エE道隆―F兼家
 オE兼家―F伊周

(答:オ)〉

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文人画

2017-05-07 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]頼む文 火山よさ。


池大雅(いけのたいが))(田能村竹田(たのむらちくでん)・谷文晁(たにぶんちょう)・渡辺崋山(わたなべかざん))(蕪村(よさぶそん))


[ポイント]

1.著名な文人画家は、池大雅与謝蕪村谷文晁田能村竹田渡辺崋山の5人。

[解説]

1.宝暦・天明期(宝暦・明和・安永・天明)(1751~1789)には、明や清の影響を受けた画風も起こり、文人画とも呼ばれて一部の知識人に好まれた。18世紀後半の池大雅(1723~76)や与謝蕪村(1716~83)がこの画風を大成した。

2.文人画(南画)とは専門の画家でない文人・学者が描いた絵のことで、中国の南画が文人・学者によって描かれることが多かったので、我が国でも同じ意味に用いられた。池大雅与謝蕪村の合作である『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』はとくに有名である。

3.文人画(ぶんじんが)は、化政期(1804-1830)に豊後の田能村竹田(1877~1835)、江戸の谷文晁(1763~1840)とその門人渡辺華山(1793~1841)らの出現によって全盛期を迎えた。

4.崋山(「蛮社の獄」で蟄居中自殺)の代表作には、写実にすぐれた肖像画の『鷹見泉石像(たかみせんせきぞう)』、また当時の市井風俗を活写した『一掃百態図(いっそうひゃくたいず)』がある。


5.美濃の江馬細香(えまさいこう)の(1787~1861)のような女性の文人画家も生まれた。

2013同志社大学・文経済
 芭蕉の没後、俳諧は徐々に卑俗化していくが、18世紀半ばには、蕉風への復古を目指した与謝蕪村らの活躍がみられた。蕪村は自然描写に長けた叙情的・絵画的な句をよみ。俳諧に新風を吹き込んでいる。彼は俳画に加えて高雅な文人画でも知られ、( i )との合作になる『十便十宜図』は著名である。

【設問i】空欄( i )に入る人物名を次のうちから1つ選べ。


 1.田能村竹田 2.谷文晃
 3.呉春 4.池大雅


(答:4)〉


2013法大・法国際文化キャリアデザイン:「

問6 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選べ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dを選べ。

 近世においては、異国の知識や文化の流入経路が限られるなか、かえって人々の間では異国的なものへの関心が高まった。絵画の分野では、a呉春が西洋画や中国画に触発されて独自に写生の技法を確立し、その後の絵画史に多くの影響を与えた。また、b司馬江漢や亜欧堂田善による、風景を写実的に捉えた西洋風銅版画が人気を博し、c池大雅や谷文晁らの文人画は中国的な風景や人物を描いて知識人たちに好まれた。」


(答:c×※池大雅は日本各地を旅行し中国とは違う日本の風景を描く)〉


2012明治大・政経:「

 18世紀半ば以降に、明・清の南宗画の影響を受けた(ク)文人画とよばれる画風がみられた。

問10 下線部(ク)文人画について、「鷹見泉石像」(東京国立博物館蔵)を描いたのは誰か。A~Eから一つ選べ。


 A池大雅 B浦上玉堂 C田能村竹田

 D谷文晁 E渡辺崋山」

(答:E)〉


2012同志社・神商心理

Ⅲ 次の文章を読み、該当する人物名を、漢字で記せ。また、文中の下線部e~fに関する設問の解答を漢字で、下線部キ~ケに関する設問の解答を番号で記せ。

 彼は三河国渥美郡にある田原藩士の長男として、寛政5年(1793)に江戸藩邸で生まれた。田原藩は1万2000石の小藩であり、父親が病身であったので貧窮のうちに育ち、家計を助けるために画を学び、のちにキ.谷文晁に師事した。文化8年(1811)に佐藤一斎に入門して儒学を学んだ。前年に家督を相統し、代々の藩主に仕え、天保3年(1832)に年寄役兼海防事務掛、同7年には江戸留守居役として小藩の藩務と改革に尽力した。

 画法においては、奔放な子供の様子を描いた寺子屋図を含む『一掃百態』などの風俗写生に才能を発揮し、民衆生活へ深い共感を寄せた。30歳頃からe写実的洋風画の技法を学び、独自の画風を確立した。佐藤―斎、松崎慊堂、鷹見泉石、市河米庵などの肖像画に人間洞察力と筆勢の鋭さをみせた。


 洋風画への傾倒はク蘭学の素地をつくり、天保年間になると洋学研究へと進んだ。多忙な藩務のかたわら、小関三英・高野長英らと尚歯会に参加して新知識の吸収に努め、主として海外事情を研究した。f.モリソン号事件に刺激されて日本の危機を告発する書を天保9年に執筆した。蘭学界で目立った存在となった彼の下へは、その学識をしたって幕臣や儒者などの知識人が集まるようになった。


 そのことが幕府の文教を掌る林一斎とその一門からなる反洋学派の忌むところとなり、翌10年に目付鳥居耀蔵(林家一門)の讒訴(ざんそ)によって、ケ幕政への批判誹謗の罪で投獄された。いわゆる蛮社の獄に遭ったのである。同11年に田原ヘの蟄居を命ぜられたが、藩主に迷惑のかかることを恐れて、同12年10月11日に田原で自刃した。享年49。

問キ.文晁とほとんど同時代人であり、『神奈川沖浪裏』などの作品を描いた浮世絵師の人物名を選べ。

 1.葛飾北斎  2.歌川広重 

 3.喜多川歌麿 4.東洲斎写楽

問e.前野良沢や平賀源内らと交流し、遠近法・陰影法を取り入れた洋風画を描き、1783年に日本銅版画を創製した人物名を記せ。


問ク.美作国津山藩医によって1793年に翻訳刊行が開始された著書名を選べ。


 1.『暦象新書』  2.『西説内科撰要』

 3.「ハルマ和解』 4.「解体新書』

問f.天保9年に執筆された、この書名を記せ。


問ケ.同じように幕政を批判誹膀した罪に問われて、1767年に死罪となった人物名を選べ。


 1.小関三英 2.生田万

 3.山県大弐 4.竹内式部

(答:彼→渡辺崋山、問キ1、問e司馬江漢、問ク2※著者は宇田川玄随、問f慎機論、問ケ3※田沼時代の明和事件)

 

●江戸時代(寛政5

 1793年〈宇田川玄随、『西説内科撰要』を完成〉

"Seisetsu Naika Senyo" (Western Internal Medicine Summary), the translation of the Johannes de Gorter's medical book by Genzui UDAGAWA, had as great influence as "Kaitai shinsho" had in that it extended interest in Ranpoigaku to the area other than surgery such as internal medicine.

人泣くさ歌 切ないか。

1793年 宇田川玄随西説内科撰要津山藩

江戸詰の美作国津山藩医であった宇田川玄随は、はじめ漢方医だったが、大槻玄沢に入門し洋学(蘭方医)に転じた。1793年、オランダの内科書の翻訳を完成、日本最初の西洋内科学書となる『西説内科撰要』 として刊行した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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風景画:円山応挙 ・呉春(松村月溪)

2017-05-06 | 『新世界史頻出年代暗記』

詩情ゴーシュが射精する。

四条派・呉春(ごしゅん)


[ポイント]

1.写生画では、円山応挙円山派)・呉春四条派)が知られる。

[解説]

1.18世紀半ば以降、従来からの日本の画壇に西洋画の影響を受けた動きが見られるようになった。

2.円山応挙(1733~1795)は、丹波国(京都府中部)に農家の次男として生まれる。10代で京都に出て画業に入る。はじめ眼鏡絵(めがねえ)の制作を通じて修行。眼鏡絵とは、風景などを凸レンズをはめた穴を通して立体的に見るという趣向の描法で、西洋画の遠近法の応用だった。やがて写生を重んじ、遠近法や陰影法をとり入れた立体感のある写生画を確立させた。応挙に始まり、写生を重んじる画風の系列を円山派という。代表作に『雪松図屛風(せっしょうずびょうぶ)』。

3.呉春松村月溪(まつむらげっけい))(1752~1811)は、京都出身。20代で与謝蕪村に入門し、俳諧や南画(文人画)を学ぶ。画号が呉春、俳号は月渓円山応挙の影響を受けて、独自の画風を確立。呉春の写生画は、温雅な筆致(ひっち)で風景を軽やかに描くことを特徴とする。円山派から分かれた彼に始まる流れを四条派(自宅が京都四条通にあった)と呼び、上方の豪商らに歓迎された。代表作に『群山露頂図』など。

2015早大・社会科学:「
問3 下線部3美術の発達に関連して、文化・文政時代前後の美術に関する記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。

 イ 明・清の南画の影響を受けた文人画は大きな発展を遂げた。

 ロ 円山派は写生を重んじ、立体感のある作品を描いた。
 ハ 四条派の風景画は上方の豪商に歓迎された。
 ニ 鈴木春信は浮世絵版画を創始した。
 ホ 錦絵の風景版画が人気を博した背景には、庶民の旅への関心があった。」

(答:ニ×※創始者は菱川師宣(モロ春の歌……)〉


2014立大・文

問3.これ町人文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.伊藤若沖は、尾形光琳の装飾性に写実性をくわえた画風をうみだした

 b.小田野直武は、日本初の腐食銅版画を創製した
 c.平賀源内は、文人画と呼ばれる画風を大成した
 d.松村月渓は、錦絵と呼ばれる多色刷の画法を完成させた

(答:a ※b×小田野直武→司馬江漢、c×文人画→西洋画、d×松村月溪→鈴木春信)


2013法大・法国際文化キャリアデザイン:「

問6 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選び、その記号を解答欄にマークせよ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dを選べ。

 近世においては、異国の知識や文化の流入経路が限られるなか、かえって人々の間では異国的なものへの関心が高まった。絵画の分野では、a呉春が西洋画や中国画に触発されて独自に写生の技法を確立し、その後の絵画史に多くの影響を与えた。また、b司馬江漢や亜欧堂田善による、風景を写実的に捉えた西洋風銅版画が人気を博し、c池大雅や谷文晁らの文人画は中国的な風景や人物を描いて知識人たちに好まれた。」


(答:c×※池大雅らは日本各地を旅行し中国とは違う日本の風景を描く)


2013同志社大学・文経済:「

 芭蕉の没後、俳諧は徐々に卑俗化していくが、18世紀半ばには、蕉風への復古を目指した与謝蕪村らの活躍がみられた。蕪村は自然描写に長けた叙情的・絵画的な句をよみ。俳諧に新風を吹き込んでいる。彼は俳画に加えて高雅な文人画でも知られ、( i )との合作になる『十便十宜図』は著名である。

【設問i】空欄( i )に入る人物名を次のうちから1つ選べ。


 1.田能村竹田 2.谷文晃
 3.呉春 4.池大雅」

(答:4)〉


2012京大・前期:「

問5 18世紀半ば以降、日本の画壇に西洋画の影響を受けた動きが見られるようになった。円山応挙は遠近法や陰影法を取り入れ[ ケ ]を確立させ、[ コ ]は日本で初めて腐食液を用いた銅版画の作品を発表した。」

(答:ケ写生画、コ司馬江漢)〉

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摂政・関白のはじめ

2017-05-05 | 『新世界史頻出年代暗記』

折檻乳房もっと抓って!

政・白)(良房基経

[ポイント]
1.摂政は藤原良房関白は藤原基経にはじまる。

[解説]
1.北家の藤原冬嗣嵯峨天皇のあつい信任を得て蔵人頭になり、皇室と姻戚関係を結び、北家台頭の基礎をつくった。

2.ついでその子の藤原良房は、842(承和9)年の承和の変で藤原氏の中での北家の優位を確立する一方、伴(大伴)健岑・橘逸勢ら他氏族の勢力をしりぞけた。858(天安2)年に幼少の清和天皇が即位すると、良房は天皇の外祖父として臣下ではじめて摂政の任をつとめ、866(貞観8)年の応天門の変では、伴・紀両氏を没落させた。

3.良房のあとを継いだ基経は、光孝天皇を即位させ、884(元慶8)年にその関白となった。さらに基経は、つぎの宇多天皇が即位にあたって出したその勅書に抗議して、これを撤回させ(888(仁和4)年、阿衡の紛議)、関白の政治的地位を確立した。こうして藤原氏北家の勢力は、急速に強大化した。

〈2012立教大・全学部:「

 藤原氏( ホ )の藤原冬嗣の子、藤原〈 き 〉は、858年、臣下として初めて摂政の任をつとめ」

(4択答:ホ北家・き良房)

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歴代天皇 摂関常置全盛期

2017-05-03 | 『新世界史頻出年代暗記』

□古代81.:連続5代)  ◇A

[ゴロ]霊園は/異常で/惨状

泉(れいぜい)・融(えんゆう))(山(かざん)・一条(いちじよう))(三条(さんじよう))


[句意]その霊園は園内の花の異常で惨状を呈している、という句。

[ポイント]
1.歴代天皇は、冷泉円融花山一条三条とつづく。

[解説]

1.冷泉天皇(位967~69)は、父村上天皇の死により18歳で即位したが、叔父藤原実頼が関白に就任して実権をにぎられる。以後、摂政関白常置となり、平安政治の転機となった。在位2年で譲位したが、その後42年上皇として生きた。

2.円融天皇(位969~84)は、村上天皇の第5皇子。安和の変の半年後に11歳で即位。16年間の在位中は藤原兼通兼家兄弟の政権争いがつづき、摂政、関白も実頼伊尹(これただ)、兼通頼忠とめまぐるしく交替した。26歳で花山天皇に譲位。円融の女御は兼家の娘詮子(せんし)。


3.花山天皇(位984~86)は、冷泉天皇の第1皇子で17歳で即位。外孫(のちの一条天皇)の即位をねらう藤原兼家父子(道隆・道兼・道長)に謀られ譲位することになった。


4.一条天皇(位986~1011)は、円融天皇の第1皇子、5歳で即位。25年間の在位は平安時代最長の醍醐天皇に次ぐ。外祖父の兼家が摂政になり、そのあと子の道隆道兼兄弟が摂関となったが二人ともに急死すると弟道長に権力がわたった。そこで道長は、1000年(長保2年)、中宮に兄道隆の娘定子がいたにもかかわらずこれをを皇后として事実上遠ざけ、娘の彰子中宮とし一帝二后という前例のない事態をつくった。これは有力な後ろ盾を失った定子を窮地に陥れる措置であった。この時期、定子、彰子にそれぞれ仕えた清少納言紫式部が出て王朝文学が花開いた時期でもある。

5.三条天皇(位1011~16)は、冷泉天皇の第2皇子。母は兼家の娘。ときに伯父道長の全盛時代で、道長から再三、外孫の皇子(のちの後一条天皇)への譲位を迫られた。その中宮妍子(けんし)は憤慨する天皇と父道長との間に立って苦悩した。

〈2015法大・経営A

問1 下線部、道長はb6人の娘を入内させ3代の天皇の外祖父となり権勢をほしいままにしたに関して、一条天皇の中宮となり、後一条・後朱雀天皇の母となった人物を、以下のア~オのなかから一人選べ。

 ア寛子 イ盛子
 ウ嬉子 エ彰子
 オ妍子


(答:エ)


問2 下線部bに関連して、一条天皇の中宮(彰子)に仕えた人物のうち、越前守藤原為時の娘を、以下のア~オのなかから一人選べ。


 ア小野小町 イ清少納言
 ウ和泉式部 エ赤染衛門
 オ紫式郎


(答:オ)


問3 下線部bに関連して、道長の娘(彰子)が一条天皇の中宮となったために、中宮から皇后にかわった人物(定子)の父を、以下のア~オのなかから一人選べ。


 ア道隆 イ道兼
 ウ兼家 エ兼通
 オ頼忠」


(答:ア)〉

 

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尾形光琳

2017-05-02 | 『新世界史頻出年代暗記』

●元禄文化(美術)

 〈尾形光琳、法橋となる〉

Ogata Kōrin achieves official recognition with the award of the honorary title hokkyō.

置(お)こうバイクや カキツバタ。

尾形光琳 『紅白梅図屏風』 「八橋蒔絵硯箱」 『燕子花図屏風』

 


[ポイント]

1.尾形光琳の代表絵画は『紅白梅図屏風』『燕子花図屏風』、蒔絵は『八橋蒔絵螺鈿硯箱』。

[解説]

1.尾形光琳(1658~1716)は、呉服商の次男。本阿弥光悦俵屋宗達に学ぶ。伝統的技法の上に新しい時代にふさわしい装飾的な画法の琳派(りんぱ)をおこした。代表作は『紅白梅図屏風』『燕子花図屏風』。また光琳はすぐれた意匠(いしよう)(デザイン)の蒔絵でも知られ、代表作は『八橋蒔絵螺鈿硯箱』。蒔絵は野々村仁清の影響を受ける。

2.尾形光琳の弟が陶磁器の名手尾形乾山(おがたけんざん)。

〈2015立命館大・全学部

問n 下線部4京都町衆に関連して、「かれ」の妻も「京都町衆」で、画家・工芸家を輩出した家の出身であった。その家の代表的人物の一人で、『紅白梅図屏風』『舟橋蒔絵硯箱』などの作者は誰か。その氏名を答えよ。」

(答:尾形光琳 ※「かれ」とは伊藤仁斎)


〈2013中大・法

問5 下線部4(綱吉の治世のころは)新しい文化が生まれてきた(時代)に関連する説明文として正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい。

 a 本阿弥光悦は尾形光琳の画風を発展させ装飾画を大成した。

 b 松尾芭蕉は旅を重ね、『笈の小文』や『奥の細道』などの作品を残した。
 c 宮崎友禅は権現造とよばれる新しい建築様式を考案した。」

(答:aロ二人は逆の関係、bイ、cロ宮崎友禅は染め物)〉


〈2012学習院大学・経済学部

問2 下線部2の美術に関して、代表作品のーつとされる「紅白梅図屏風」の作者は誰か記しなさい。」

(答:尾形光琳)〉


〈2012立大・文学部

問1.下線部1元禄文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.尾形光琳は京都の町衆の画風を学び、『洛中洛外図巻』を描いた

 b.熊沢蕃山は孔子・孟子の古典に直接たちかえろうとする古学派を創始した
 c.契沖は『万葉集』を研究し、『万葉代匠記』を著した
 d.関孝和は和算を発達させ、『塵劫記』を著した」

(答:c〇、※a×光琳作に『洛中洛外図』は知られていない、b×蕃山は中江藤樹門下の陽明学者、古学派は山鹿素行、伊藤仁斎・東涯父子ら、d×吉田光由の著作)

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意見封事十二箇条

2017-04-30 | 『新世界史頻出年代暗記』

□古代79.三善清行の意見封事十二箇条(914)の覚え方 ◇C

[ゴロ]醍醐(く)らいし三善(34し)の=12箇条


醍醐天皇・914年)(三善清行意見封事十二箇条


[句意]醍醐天皇が食ったのは三善清行の十二箇条の意見書だ、という句。3×4=12に着目して作った言葉遊びの句です。「食らう」はパンチを食らうと同用法です。


[ポイント]

1.三善清行914年醍醐天皇に「意見封事十二箇条」を提出し、地方政治の衰退を訴えた。

[解説]

1.後世、「延喜の治」と讃えられた醍醐朝も、国政の建て直しなど積極策のほとんどが、(右大臣菅原道真というより)左大臣藤原時平の指揮のもとで実施されていたと思われる。

2.しかし、時平の死後は、宇多上皇醍醐天皇ともに政治に関心を失い、律令体制の崩壊と変質が顕著となり、三善清行の「意見封事十二箇条」が出ることになった。

〈2013青山学院・文教育経済法経営など

B.10世紀初頭に書かれた「意見封事十二箇条」において、備中国の介として現地に赴任した[ ウ ]は、下道(しもつみち)郡邇磨郷の様子を次のように記し、公民の減少が著しいことを嘆いている。

  ここにかの国のc風土記を見るに、皇極天皇の六年(西暦660年)に、大唐の将軍蘇定方(そていほう)、
 [ エ ]の軍を率ゐ[ オ ]伐(う)つ。[ オ ]、使を遣して救はむんことを乞ふ。(中略)天皇詔(みことのり)を下し、試みにこの郷の軍士を徴(め)したまふ。即ち勝兵(しようへい)二万人を得たり。天皇、大に悦びて、この邑(むら)を名(なづ)けて二万(にま)郷と日(のたま)ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。

 これは、660年に[ オ ]が滅亡した際、朝廷から援軍を送ったときの記録であるが、それによると、一つの「郷」だけでたちどころに二万人の兵士が集まったというのである。

 しかし同じ史料によると、これ以降次第に公民の数は減少し、8世紀後半のd天平神護年間には1900余人、9世紀後半の[ カ ]年間には70人余りが大帳という帳簿に登録されているだけだったという。このように、地方の公民は有名無実のものとなり、律令別の国家支配は次第に危機に直面していった。

問5.空欄[ ウ ]に入る人名として正しいものを、次の1~4.の中から一つ選べ。

 1.菅野真道 2.三善清行
 3.在原業平 4.菅原道真

(答:2)

問6.空欄[ エ ][ オ ]に入る国名として正しいものを、次の1~4の中から一つ選べ。

 1.渤海 2.新羅 3.高句麗
 4.任那 5.倭 6.百済

(答:エ2、オ6)

問7.空欄[ カ ]に入る語句として正しいものを、次の1~4の中から一つ選べ。

 1.養老 2.弘仁
 3.貞観 4.延喜

(答:3)

問8.下線部c風土記について、『風土記』について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1.『古事記』が完成した翌年に、朝廷によって撰進が命じられた。
 2. 編纂の実務は、舎人親王や藤原不比等によって進められた。
 3. 地名の由来や地方の特産物などが記録された。
 4. 現存する風土記の一つとして「出雲国風土記」がある。

(答:2)

問9.下線部d天平神護年間について、この時期の前後の出来事Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に並べた組合せとして正しいものを、下のの1~6の中から一つ選べ。
 
 Ⅰ.僧道鏡が太政大臣禅師に任じられた。
 Ⅱ.皇位継承をめぐり、和気清麻呂が宇佐八幡宮に遣わされた。
 Ⅲ.淳仁天皇が廃位された。

 1.Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ
 2.Ⅰ-Ⅲ-Ⅱ
 3.Ⅱ-Ⅰ-Ⅲ
 4.Ⅱ-Ⅲ-Ⅰ
 5.Ⅲ-Ⅰ-Ⅱ
 6.Ⅲ-Ⅲ-I

(答:5)」

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江戸時代三貨

2017-04-29 | 『新世界史頻出年代暗記』

江戸よしよし

江戸金遣い(きんづかい))(4進法(よんしんほう)・銭4貫文(しかんもん))


[ポイント]

1.江戸は金遣い(きんづかい)で、金銀貨は4進法で、1両は銭4貫文だった

[解説]

1.全国的に通用する貨幣を安定して供給することは、幕府の重要な役割であった。同じ規格・品質の金・銀の貨幣は、徳川家康が1600(慶長5)年ころから金座・銀座で大量につくらせた慶長金銀が日本で初めとされる。金座江戸京都(のち江戸のみ)におかれ、後藤庄三郎(生没年不詳)(のち後藤家が世襲)のもとで小判一分金などの計数貨幣が鋳造された。また銀座はまず伏見・駿府におかれ、のちに京都・江戸に移されて、丁銀豆板銀などの秤量貨幣を鋳造した

2.三貨の換算率は江戸時代前半までは、金1両=銀50匁(1700年からは60匁)=銭4貫文。しかし、実際はその時の相場で動く変動制であった。金貨の単位は1=4=164進法。銭は10進法。


3.江戸では金貨が流通(金遣い)したが、上方(大坂)では主として銀貨が流通(銀遣い)した。この地域的違いに加え、金・銭は計数貨幣であるのに対し銀は重さを量る秤量(しょうりょう)貨幣であったため、日常的に三貨の間で両替(りょうがえ)商による両替が必要であった。たとえば江戸から大坂に行く場合、現代で日本からアメリカに行くような不便さがあった。そこで田沼意次は三貨を金に一本化して貨幣制度の安定をはかるために計数銀貨、南鐐二(弐)朱銀を発行。この銀貨は8枚で(2朱×8=16朱)1両とされた。

〈2015早大・文

問5 下線b金・銀・銭に関する記述として、誤っているものを1つ選べ。

 ア 金座は江戸と京都に置かれたが、のち江戸だけになった。

 イ 金座は代々後藤家が管轄した。
 ウ 金貨の単位は両・分・朱だが、天保一分銀は銀貨である。
 エ 江戸は主に金遣い、大坂は主に銀遣いであった。
 オ 当時は正金銀が流通していたので、紙幣を発行する藩はなかった。」

(答:オ× ※金銀産出量が不足し、それを藩札発行で補った)〉


〈2014文教大学・全学部

問4 下線部(c)江戸時代の貨幣制度は様々を問題点を抱えておりに関連して述べた文として最も適切なものはどれか。次の中から一つ選べ。

 1.大名にも紙幣発行権が認められており、藩札は藩の領域を越えて全国に流通した。

 2.江戸では主に銀貨が流通し、大坂では主に金貨が流通した。
 3.貨幣は都市では流通するが、自給自足の農村には浸透しなかった。
 4.金貨と銀貨の交換率に決まりはあったが、実際はその時の相場で取り引きされた。

問5 下線部(d)金貨・銀貨・銭貨の単位と特徴について述べた次の文中の空欄[ア~イ]に入る語句の組み合せとして最も適切なものはどれか。次の中から一つ選べ。

 金貨は両・分・朱を単位とする[ ア ]進法の貨幣であるが、銀貨は貫・匁などを単位とする[ イ ]貨幣、銭貨は貫・文を単位とする10進法の貨幣であった。

 1.ア-2、イ-計数

 2.ア-2、イ-秤量
 3.ア-4、イ-計数
 4.ア-4、イ-秤量」

(答:問4→4 ※1×藩内のみに流通、2×江戸金・大坂銀、3×農村にもじわじわ浸透)、問5→4)〉


〈2012明大・商学部

Ⅲ 以下の文章は近世前後の貨幣史とその関連事項について記したものである。文章内における(a~e)の【   】に入る最も適切な語句を1~5から選び、また[1~5]の空欄に入る最も適切な語句を漢字で記入しなさい。

 中世までの貨幣は中国からの輸入銭(宋銭・明銭)や粗悪な私鋳銭などが使用されており、そのために円滑な流通が阻害され、それぞれの交換比率に不具合が生じていたことはよく知られている。それゆえ織豊政権は全国規模の経済政策の実施に向けて金銀の採掘、精錬、鋳造を標準化する努力を払わなくてはならなかった。秀吉は、佐渡相川、但馬生野などの主要鉱山を直轄化したうえで、貨幣鋳造を試みた。京都の彫金家、
(a)【(1)後藤徳乗 (2)小堀遠州 (3)荒木田守武 (4)本阿弥光悦 (5)酒井田柿右衛門】(1550~1631)に命じて1588年に造らせたという天正大判などがそれである。ただし、この段階の貨幣は政権の交代もあり、全国市場を統一する貨幣としての地位を確立することはなく、実際に全国規模の貨幣制度が確立するのは織豊政権の基本的な貨幣政策を引き継いだ徳川氏の手によることとなる。

 全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣は、1601年に整備された金座・銀座で鋳造された。金座は江戸と京都におかれ、小判、1分金などを鋳造した。銀座は最初伏見、駿府におかれ、のち京都と江戸に移されて丁銀、豆板銀などを鋳造した。金貨は両、分、朱の単位でそれぞれが
(b)【(1)2 (2)3 (3)4 (4)8 (5)12】進法で数えられる計数貨幣であったが、銀貨は目方を計る[ 1 ]貨幣であった。銭は江戸や各地の民間請負の銭座などで寛永通宝の1文銭・4文銭などを銅や鉄で鋳造した。しかしながら、慶長大判などは流通貨幣というよりは、公儀の賜与や大名の贈答のための性格が強かったという。また、以上の金・銀・銭の三貨の交換は変動相場制によっていたため、はなはだ複雑であった。また、国際的には銀本位が規準となっていたうえ、東日本経済が金決済、西日本経済は銀決済という仕組みが定着してしまい、国内金融市場はつねに変動する価値に翻弄されていた。

 とくに元禄期の好況期にはその拡大された経済にみあった通貨の増発が必要となったため元禄の改鋳が行われたが、金銀の減産傾向と、銀の国外流出、両貨のアンバランスなどの要因から金銀貨は大幅に悪鋳されたものとなった。1695年、当時勘定吟味役であった[ 2 ](1658~1713)の上申を受けて綱吉によって発行された元禄小判は、慶長小判が金含有率84%であったのに対して同比率がわずか57%でしかなく、銀貨についても同様に銀含有率が80%から64%に関連している。このように貨幣価値が大きく下落すると庶民はインフレのさらなる激化に苦しむこととなった。また、両貨の改悪の度合いとしては金貨のほうが大きかったこともあり、元禄金をきらって銀貨に対する需要が高まり、銀貨が払底することで銀相場は高騰した。幕府は事態に対応するために金銀比価の改定を行い、さらに宝永期には定量を減じた乾字小判などを発行し、金銀比価および東西の相場安定を目指したが成功することはなかった。

 これに対して正徳~享保期の貨幣改鋳は悪貨にかえて良貨をつくることを目的としていた。幕府は新井白石の建策にもとづいて1714年、正徳貨幣の改鋳を開始し、同時に銀座の粛清を断行した。家康時代への復古の理念は貨幣政策にもおよび、享保期にかけて発行された小判は慶長小判とほぼ同様の定量と品位を回復した。しかしながら旧貨の通用禁止令によって物価が新貨により表示されるようになると景気は急激に後退した。茅場町に私塾を開き、聖人の道を明らかにした『弁道』という著書で経世論を説いた[ 3 ](1666~1728)などの学者もこの幣制改革による通貨縮小策が行き過ぎであって、貨幣の品位、定量を落としても貨幣数量を確保する必要があることを説き、幕府は再び悪貨の改鋳を通じた景気の安定策を繰り返していくこととなる。

 他方、この時期は領国通貨(藩札)が一般化したことでも知られている。幕府は1730年には1707年以来の札遣い停止令を解除し、藩札の再発行を許すこととなった。藩札はその後、貨幣流通量の不足を補い、領国経済の商品流通の結節点となっていった。そもそも藩札は1661年に
(c)【(1)福井 (2)郡山 (3)広島 (4)尼崎 (5)久留米】藩で最初に発行されたといわれている。江戸初期から経済の中心として栄えていった畿内、伊勢の有力商人の私札の流通に対応するため、藩が紙幣を発行したと解釈されている。

 田沼時代には、商工業者の組織化政策、あるいは専売制の実施など、各地で発展しつつあった商品生産・流通からもたらされる富を財政の補強のために使おうとする経済政策が展開した。貨幣政策でもそれまでの三貨を金に一本化して貨幣制度の安定をはかるために計数銀貨の発行を実施した。これは田沼意次が老中に就任する直前に発行された明和
(d)【(1)五分 (2)五貫 (3)五両 (4)五匁 (5)五朱】銀の政策意図を踏襲したもので、金銀の相場により変動する貨幣制度を強制的に安定させる目的をもっていた。ただ、この貨幣は鋳造数が少なかったうえ、取り扱いもかさばって使いにくかったため、1772年、97%の純度を持つ[ 4 ]銀を発行した。この銀貨
(e)【(1)2 (2)3 (3)4 (4)8 (5)12】枚で金1両に相当する計算になった。幕府は同貨幣の流通を公金貸付制度と一緒に実施することで成功に導き、天明期には流通の安定基盤が確保されたといわれている。

 しかしながら江戸後期にかけては、幕府の財政はさらなる逼迫状況に陥り、文政、天保期には貨幣の悪鋳に財政危機の打開という目的がこめられていくが、不安定な金融状況は続き、開国によってその状況はさらに悪化の一途をたどった。金の銀に対する相対価値の低さから、外国人が銀貨を日本に持ち込んで日本の金貨を安く外国に持ち帰る事態が進展したのである。これは、おもにスペイン系中南米諸国で鋳造されていたメキシコ銀などのいわゆる[ 5 ]銀を日本の天保1分銀と交換し、そしてさらにそれを日本の金貨と交換する手法によった。幕府は金貨の品位を大幅に引き下げた万延小判を鋳造してこの事態を回避しようとしたが、これにより物価高騰がおこり、下級武士や庶民の生活は著しく圧迫され、討幕のうねりの一つの底流となったといわれている。」

(答:a1、b3、c1、d4、e4、1秤量、2荻原重秀、3荻生徂徠、4南鐐二朱、5洋)〉

〈2012同志社大学・文経済

問ク.1600年から改鋳が開始され、1695年の元禄改鋳まで最も長期間使用された金銀貨幣を総称して何というか、その名称を記せ。

問ケ.江戸時代を通じて幕府はしばしば貨幣の改鋳を行った。次の1~4の金銀の改鋳を年代順に並べよ。

 1.正徳金銀 2.天保金銀
 3.元文金銀 4.安政金銀」

(答:ク慶長金銀、ケ1→3→2→4)

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灰吹法(神谷寿禎)

2017-04-28 | 『新世界史頻出年代暗記』


 神やジュテーム 銀配布


精錬)(灰吹法(はいふきほう)・神谷寿禎(かみやじゅてい))


[ポイント]

1.神谷寿禎が朝鮮から銀製錬技術「灰吹法」を伝えた。

[解説]

1.16世紀中頃、朝鮮(中国説も有り)から博多商人神谷寿禎(生没年不詳)が「灰吹法」という精錬技術を技術者を伴って伝えた。この技術は初め石見銀山に導入され、やがて各地に伝わり、銀の生産が飛躍的に高まった。

2.灰吹法酸化鉛に吸収させる精錬技法。まず細かく砕いた銀鉱石に鉛とマンガンなどを加えて溶かし、浮き上がる鉄などの不純物を取り除く。すると銀・鉛のまざった合金様のものができる。これを加熱すると鉛が空気中の酸素と反応して酸化鉛になる。この酸化鉛が溶けはじめ灰に吸収されていく。すると、灰の上に銀だけが残る。これを数回繰り返すごとに銀の純度が高まっていく、というもの。これまで明やヨーロッパが日本から大量に銅(粗銅)を買っていたのには理由があった。これらの国々は古くから灰吹法の技術を持っており、実はこの日本の銅にまだ含まれていた大量の金・銀を取り出していたのだ。つまり灰吹法の導入は日本の国富を守るうえでも大きな役割を果たしたことになる。

〈2016関西学院大学・全学部
問7.下線部g石見銀山遣跡の説明として、誤っているものを下記より選びなさい。

 ア.朝鮮から導入した灰吹法により銀の生産量は増大した。

 イ.石見産の銀は日本に来航したヨーロッパ人に知られていた。
 ウ.豊臣秀吉は石見大森・但馬生野などの鉱山からの収入を確保した。
 エ.石見産の銀は江戸時代を通じて日本の主力輸出品であった。」

(答:エ×※中期以降枯渇し、銅に変わった)〉

〈2012立大・全学部

 16世紀、朝鮮から、博多商人神谷寿禎によって純度の高い銀を精錬できる技法が伝えられたことが、日本における銀の生産を飛躍的に高めるきっかけになったと考えられる。この技法の名をしるせ」

(答:灰吹法)〉

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幕府以外が経営する鉱山

2017-04-26 | 『新世界史頻出年代暗記』

□近世415.(3鉱山) ◇C
別に住み兄いない秋。

子銅山・友家)(阿仁銅山)(秋田藩・院内銀山)

[句意]別に暮らしている兄とと父さんは、秋田にはいない(どこかほかの県にいる)、という句。


[ポイント]

1.別子銅山住友家阿仁銅山院内銀山秋田藩の経営である。

[解説]

1.別子銅山(愛媛)は、大坂商人の住友家の直営。17C末には各地の鉱山で金・銀が枯渇したため、別子の銅が輸出の中心になり、日本は世界有数の銅輸出国になった。別子は江戸時代最高の銅産額を示した。

2.阿仁銅山院内銀山は、秋田(佐竹)の直営。阿仁銅山は、14世紀初頭の発見。銅のほか金・銀も産す。院内銀山は、17世紀初頭の発見。


〈2016関西大学・全学部2/7:「

E 江戸幕府は、16世紀以来、採掘が進んでいた鉱山を引き続き開発して増産をはかり、( 9 )金山や佐渡金山を直轄領とした。但馬生野銀山や石見大森銀山、秋田藩の( 10 )銀山も有名である。しかし、17世紀中ごろには産出量が減少するところも出てきた。」

(答:9伊豆、10院内 ※原問では選択肢が30語ある)〉


〈2014文教大学・全学部:「

問2 江戸幕府が貨幣鋳造権を掘ることができたのは、重要な鉱山を直轄したからである。幕府の直轄とされなかった鉱山として最も適切なものはどれか。次の中から一つ選べ。

 1石見大森 2佐渡
 3但馬生野 4別子」


(答:4)〉


〈2012立大・文学部:「

1.戦国時代から金・銀を産出する鉱山の開発が進んだ。この時期に開発が進んだ鉱山に、現在の新潟県に位置する佐渡金山や現在の(  イ )県に位置する石見大森銀山などがある。豊臣政権は主要な金・銀山を直轄領としたが、これらは( ロ )地と呼ばれた。徳川幕府はこれを引き継いだが、元禄文化が花開いた17世紀後半になると金・銀の産出量が急減し、これに代わって銅の産出量が増大した。

 この時期に開発が進んだ銅山のひとつが別子銅山である。この銅山は大坂を本拠とし、後には両替商としても大きな力を持った住友家によって1691年に操業が開始されたが、19世紀に入ると鉱毒による多大な農業被害が発生したことが記録されている。これに対して幕府は現地調査を実施したものの積極的な防止策は講じず、被害は拡大した。」


(答:イ島根、ロ蔵入)〉

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江戸時代の幕府直轄代表的鉱山

2017-04-25 | 『新世界史頻出年代暗記』

伊豆佐渡金岩大急ぎ。

    伊豆佐渡     金山    石見    大森  生野  銀山


1.幕府直営の代表的鉱山は伊豆金山佐渡金山生野銀山石見銀山足尾銅山の5か所。

[解説]

1.幕府の財政収入は、400万石(17世紀末)にもおよぶ直轄領(幕領)からあがる年貢のほか、佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森など主要鉱山からの収入であった。

2.佐渡金山(新潟県)は、17C初に有望な金脈が発見されて以来、江戸幕府の重要な財源となった。当時としては世界最大級の金山であり、銀山としても日本有数のものだったが、17C末には産出額が減り衰える。島内数カ所ある鉱山のうち相川鉱山が、佐渡鉱山の中心だった。


3.伊豆金山(静岡県)は、伊豆市土肥(とい)にある金山で、国内第二の産出量だった。


4.石見銀山(島根)は、16世紀初頭の発見。生野と並ぶ大銀山で幕府直轄。銀山地区の中心町の名から大森銀山ともよばれる。


5.生野銀山(兵庫県)は、平安時代の発見。信長・秀吉・家康のいずれも直轄支配を行ったわが国有数の銀山。


6.足尾銅山(栃木県)は、17C初に発見された。寛永通宝鋳造の中心的大銅山として栄えるが、17C末に急速に衰える。明治になり払い下げを受けた古河市兵衛が機械化し再興、再び全国産銅の3分の1を占める大銅山に成長した。いっぽう深刻な鉱害をもたらしたことでも知られる。

〈2016関西大学・全学部2/7

E 江戸幕府は、16世紀以来、採掘が進んでいた鉱山を引き続き開発して増産をはかり、( 9 )金山や佐渡金山を直轄領とした。但馬生野銀山や石見大森銀山、秋田藩の( 10 )銀山も有名である。しかし、17世紀中ごろには産出量が減少するところも出てきた。

(答:9伊豆、10院内 ※原問題には選択肢が30語あり)


〈2012学習院大学・経済学部


 16世紀末から17世紀にかけて、日本列島は世界有数の金・銀・銅産出地域となる。この時代を開くきっかけは、新しい精錬法と、坑道掘削技術にあった。

 博多の商人(9)〔イ島井宗室 ロ今井宗久 ハ小西隆佐 ニ神谷寿禎 ホ津田宗及〕は1526年に石見大森銀山を開き、朝鮮半島から移入された精錬技術によって、大量の銀を得ることに成功した。1530年代に日本から朝鮮に大量の銀が持ち込まれる状況があらわれ、つづいて中国大陸への銀輸出も活発化していった。16世紀、「間歩」などと呼ばれゐ坑道の開削が広まり、金・銀・銅の採掘は地下深くに及ぶようになった。坑道は人力によって掘削されたから、使用される鉄製の「鐙」や「鎚」の供給が不可欠の前提であった。室町時代には日本刀が大量に輸出されており、鉄砲の伝来後には急速にその国産化が進んだ。こうしたことの背景として(10)〔イかたあらし ロわっぱ ハゆい ニいざり ホたたら〕製鉄の技術が進歩し、良質の鉄や鋼が潤沢に供給されるようになっていたということが想定されている。


 坑内では照明のために火をともすから、空気抜きの補助坑が設けられた。地下水を排出して坑道の水没を防ぐために、水抜きの坑道を掘ることも始められた。このような水抜き坑道は佐渡の(11)〔イ土肥 ロ相川 ハ黒川 ニ尾去沢 ホ院内〕金山では1630年代頃から作られるようになった。1690年に佐渡奉行に着任した(12)〔イ新井白石 ロ伊奈忠次 ハ荻原重秀 ニ大岡忠相 ホ長谷川正安〕は、約5年をかけて全長約920mの南沢疎水坑道を開削させた。固い岩盤を3つの工区に分けて同時に掘進し、極めて小さい誤差で連結した。高度の掘削技術を示す史跡である。」


(答:9ニ、10ホ、11ロ、12ハ)

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藤原北家の台頭と他氏排斥

2017-04-25 | 『新世界史頻出年代暗記』

□6事件  ◇S

薬子女王 亜子招待あ。

薬子(くすこ)の変・和(じょうわ)の変・応天門(おうてんもん)の変・衡(あこう)の紛議(ふんぎ)・原道真(すがわらのみちざね)左遷・安和(あんな)の変) 


[ポイント]

1.藤原北家の他氏排斥は、薬子の変承和の変応天門の変阿衡の紛議菅原道真左遷安和の変の順で発生した。

[解説]
1.北家は不比等四子の第2子房前にはじまる。房前の第2子が永手(式家の百川とともに道鏡排斥、光仁天皇担(かつ)ぎ出しに功)。永手の弟の孫が冬嗣。冬嗣が北家台頭の基礎をつくる。

2.薬子の変に際して810年、藤原冬嗣が巨勢野足(こせののたり)とともに蔵人頭に任命される。薬子の変は、平城(へいぜい)上皇の側近藤原仲成(ふじわらのなかなり)・薬子が、天皇への復位と平城京への還都を企てた事件。薬子の変で藤原北家が台頭し、式家が没落した。


3.藤原氏で四子以降、薬子の変まで活躍した藤原氏は仲麻呂南家)を除いて、主要人物(広嗣百川種継仲成)はすべて式家。良房以降はすべて北家。


4.承和の変(842)で藤原良房が皇太子を廃し、その側近伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)を配流。


5.応天門の変(866)は、まず左大臣源信(みなもとのまこと)が同門放火犯との伴善男の訴えに対し、良房の密告を用いた巧みな政治行動で伴善男を真犯人として伊豆へ配流排斥を遂げた事件。応天門の変の収拾を理由に、866年、良房が正式に摂政に就任した。


6.阿衡の紛議(887、阿衡事件)は、関白任命をめぐる、宇多天皇と藤原基経の暗闘事件。基経は政務をサボタージュして天皇を精神的に圧迫。結局、天皇側近の橘広相(たちばなのひろみ)の処罰で決着させた。


7.菅原道真(845~903)は文章(もんじょう)博士。讃岐守(さぬきのかみ)のとき中央で起こった阿衡の紛議に際し橘広相を積極的に弁護し、藤原氏の抑制をねらう宇多天皇に認められた。以後天皇の側近にあって894年遣唐使廃止を建言するなど重要な政策に関与。


8.昌泰(しょうたい)の変(901)は、つぎの醍醐天皇の時、右大臣菅原道真が左大臣の藤原時平の讒言で大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された事件。


9.安和の変(969)は、陰謀ありとの密告で左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)(皇族で源賜姓)が大宰府に左遷された事件。これで藤原北家による他氏排斥が完了、以後摂関常置となる。



2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポーツウェルネス)・観光(観光)

「藤原北家に関する出来事について、もっとも古いいものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.阿衡の紛議-承和の変-安和の変-応天門の変
b.安和の変-阿衡の紛議-応天門の変-承和の変
c.応天門の変-安和の変-承和の変-阿衡の紛議
d.承和の変-応天門の変-阿衡の紛議-安和の変」(答:d)〉

〈2012愛知教育大・前期

 今から約千百四十年ほど前の(a)貞観11年(869)5月、東北地方に大地震と津波が起こったことが、六国史最後の書である( A )に記録されており、先年話題となった。」
問1 空欄( A )に入る六国史の名称を答えよ。(答:日本三代実録)
問2 下線aの前後の時期はどのような政治状況の時代であったか、下記の語句を用いて150字程度で説明せよ。使用した語句には下線を付すこと。
 清和天皇  藤原良房 応天門 北家

〔解答例〕
藤原冬嗣が薬子の変で台頭、子藤原良房が承和の変で伴、橘氏を排斥し、9歳の清和天皇に代わり外祖父良房は事実上の摂政に、応天門の変で伴、紀氏を追放、光孝天皇から正式の摂政に任命され権力を掌握。宇多天皇即位で関白となり阿衡の紛議・昌泰の変・安和の変を経て北家の他氏排斥が完了した。(157字)

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北前船と内海船

2017-04-24 | 『新世界史頻出年代暗記』

酒田来たまえ鬱終わり。

[ポイント]

1.18世紀末から、日本海側の北前船(主寄港地酒田)と尾張発祥の内海船が大いに発展した。

[解説]

1.海運で菱垣廻船や樽廻船を凌駕する存在になったものに北前船(きたまえぶね)と内海船(うつみぶね)(尾州(びしゆう)廻船)がある。菱垣・樽廻船が運賃方式であったのに対し、買積船(かいづみぶね)方式(荷物を買い取り、他でそれを売って利ざやをえる)であった。また菱垣・樽廻船のように株仲間に従属していない、船主が荷主であるため、難破など事故がなければ大儲けできるハイリスク・ハイリターンだった。しかしこの自由な立場が政治・経済の変化への柔軟な対応を可能にし、明治時代に入り鉄道輸送にとって変わられるまで繁栄を続けることにつながった。

2.北前船は、河村瑞賢が開拓した西廻り航路を通って、蝦夷地(昆布・魚粉など)や本州日本海岸の物資(米など、主な寄港地は出羽国酒田(山形県))を運ぶ大動脈として発展した。敦賀・小浜(おばま)(ともに福井県)商人をはじめ各地の商人が参入したが最後は近江商人が覇権をにぎった。

3.内海船尾張国(愛知県)出身の商人たちがつくった廻船業組織で次第に菱垣廻船・樽廻船を凌駕するようになった。北前船とともに商船の拠点・終点は上方市場で、両者ともに18世紀末から明治の初めにかけて最盛期を迎えた。

4.その他、京坂間の淀川の運輸に従事した幕府公許の貨客船に過書船(かしょぶね)があった。業者仲間は幕府に運上金を納めた。

〈2016明大・情報〉
問1 下線部ア17世紀後半の時期の説明として、もっとも正しいものを、つぎの1~4のうちから1つ選べ。

 1.幕府は、糸割符制度を設けて、貿易統制を始めた

 2.上方を拠点とする井原西鶴が『好色一代男』を刊行した
 3.角倉了以は西廻り航路を整備し、北前船が就航しはじめた
 4.江戸の山東京伝が『仕懸文庫』を著した

(答:2 ※1×糸割符制度(1604)、3×角倉了以→河村瑞賢、4×山東京伝(1761~1816))〉


〈2014明大・農(食料環境政策):「

問10 下線部キ松前藩に関連して、江戸時代の日本国内における海上交通および流通経済に関して記述した文章として、適切でないものを一つ選べ。

 A 江戸では、米や雑穀をはじめとする地廻り物を扱う問屋が結成され、江戸地廻り経済圏が形成された。

 B 17世紀後半になると、河村瑞賢によって南海路が整備され、全国的な海上交通網が完成した。
 C 18世紀末ごろに、日本海の北前船や尾張の内海船などの廻船業が各地で発達した。
 D 大坂・江戸間には、菱垣廻船や樽廻船が定期的に運航され、大坂から木綿・油・酒などを江戸へ運んだ。」

(答:B×河村瑞賢は江戸~大坂間の南海路の整備はしていない)〉


〈2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)

問9.これ廻船に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.北前船は、三陸沿岸を経由して江戸に物資を輸送した

 b.樽廻船は、酒以外の商品も上積み荷物として低廉な運賃で輸送した
 c.日本海では、内海船と呼ばれる廻船が活躍していた
 d.菱垣廻船は、酒・油などを下関から大坂に定期輸送した」

(答:b樽廻船のスピードが評価されるにつれ、積載の余裕部分に樽以外の貨物も載せるようになった)〉


〈2013成城大学・経済:「

   このほか、18世紀末ごろに、蝦夷地や日本海沿岸の産物を扱う[ 10 ]や瀬戸内海沿岸と江戸を結ぶ尾張の内海船などの新興の海上輸送が各地で発達した。[ 10 ]や内海船は、しだいに力をのばし、明治時代の前半まで日本の海上輸送を支える主力として活躍した。」

(答:10北前船)〉


〈2013明治大学・商

とくに経済、物流の拠点だった大坂では、瀬戸内の豊かな魚介類や近郊で作られた野菜だけでなく、全国の産物も集められた。そのため「天下の台所」と評されるほど食材に恵まれていた。とくに、加工した昆布を用いただしの文化が、船場を中心に発展した。この関西風のだしの決め手である松前の昆布を上方に輸送した主要な定期航路はC[1高瀬船 2樽廻船 3北前船 4内海船 5菱垣廻船]と呼ばれている。一方江戸では、濃口醤油を使用した独自の料理文化が花開いていく。天ぷら、にぎり寿司や蕎麦などの屋台による料理が発達した。」

(答:3)〉


〈2013早大・文化構想

問7 下線f江戸時代になると太平洋・日本海にも広く廻船による海運が発達するに関連する説明として、正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア 蝦夷地・東北の物資を、松前・日本海沿岸・下関を経由して上方に運ぶ松前船が盛んに往来した。

 イ 江戸時代初期に堺商人によって樽廻船が創始され、上方と江戸の間を回漕した。
 ウ 樽廻船は十組問屋と提携して酒荷を上方から江戸へ輸送して菱垣廻船を圧倒した。
 エ 江戸の商人河村瑞賢は、諸藩による海運整備の動きの高まるなか、東廻り・西廻り両航路を改良・整備した。
 オ 南海道を通じて上方から江戸にもたらされる物資は「下り物」とも呼ばれた。」

(答:エ ※ア松前船→北前船、イ×江戸時代初期→中期、ウ×十組問屋→二十四組問屋〈樽〉の中に西〉、オ×南海道→南海路)〉

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