Top 10 Insane Rulers in History
Insane 「狂気の」
0:50 ruthless dictator 「無慈悲な独裁者」
0:57 #10. Faluk Ⅰ of Egypt (1920-65)
achievement 「業績」
close to 300 pound 「300ポンド近く」
Winston Churchill 「ウィンストン・チャーチル」
kleptomania 「窃盗症」
1:31 Ivan Ⅳ of Russia (ロシアのイヴァン4世 1530-84)
Ivan the Terrible 「イヴァン雷帝」
1:40 thousands were slaughtered 「何千もの人々が虐殺された」
most commonly known as Ivan the Terrible greatest and most terrifying leader
「イヴァン雷帝としてもっとも一般に知られているのは 最も偉大で最も恐ろしい指導者」
ruthlessly expanded 「無慈悲に拡大した」
father of modern Russia 「近代ロシアの父」
2:05 paranoid 「偏執症」
2:11 executed political dissidents 「政治的反対者」
2:28 Ibrahim of the Ottoman Empire (オスマン帝国のイブラヒム1615-1648)
#8. Ibrahim the Mad 「狂人イブラヒム」
1640年、兄ムラト4世の死後即位するが、兄の突然の死の悲しみや宮殿内の皇帝殺害の陰謀による恐怖のために皇帝として即位したことを全く嬉しく思っていなかった。やがて神経衰弱の余り精神を病み、帝冠をつけたのは息子が誕生した時ただ一度のみだといわれている。即位当初は慈悲深く貧しい人々を助けることに努めたが、母太后や当時の首相が実権を握っていたためにあまり多くの業績を残すことはなかった。
イブラヒムは気まぐれで放縦、淫乱な皇帝で、多くの宝石類をプールに放り込んでは、ハレムの女たちが水中で拾い合う様子を眺めて悦に入ったり、1日に24人の女と性行為に及んだり、宮殿の亭から外の道行く人々に矢を射かけて興じたりする等々といった、常軌を逸した数々の奇行を行ったという。さらに、息子で後のメフメト4世を風呂に投げ込むなどの異常な振る舞いが見られるようになり、「狂人イブラヒム」とまで言われるようになった。
1648年、突如自らのハレムにいた側妾や女官、宦官ら280人を皆袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込むという暴挙を行った。これによって彼は人心を完全に失い、廃位されて大宰相ともども殺された。メフメト4世が次の皇帝に即位した。
#7 Henry Ⅷ (ヘンリ8世1491-1547)
affinity (共通の起源などからくる)密接な関係、類似性、姻戚関係、好み、相性、親近感、親和力
#6 Zhu Houz (正徳帝朱厚照 1491- 1521)
known as the Zhu Emperor
4:20 gunpowder 「火薬」
即位直後からチベット仏教に傾倒し、「豹房」と呼ばれる建築物を宮中に設置、歌舞音曲を演奏し、チベット仏教経典を読経し耽色した生活を送っていた。
このように政務を省みない状況で朝政を担当したのは、正徳帝の幼少の頃からの遊び仲間だった宦官の劉瑾だった。劉瑾は賄賂政治で莫大な財を蓄え、最終的には皇位簒奪を企てた。この計画は密告により失敗し劉瑾は処刑されたが、簒奪計画があったことを知らされると酩酊していた正徳帝は皇位を望むのならば譲ろうと述べたことが史書には記されている。
正徳帝の放蕩な生活も続いたが、劉瑾の一件の後はその娯楽の対象が軍事となった。自らを「鎮国公総督軍務威武大将軍総兵官朱寿」と称し、軍人を相手に紫禁城の中で軍事教練や演習を行ったりしていたが、それでは飽き足らなくなり、やがて親征を行うとして大軍を動員、これを自ら率いて各地へ行軍するようになった。しかしそもそも敵軍がいない中で親征とは名ばかりで、行軍先では地元の美女を誘拐して陣中で淫楽に耽るのがその最たる目的だった。
こうした度重なる親征により明の国庫は逼迫し、その穴埋めは重税でまかなわれた。民衆への過度な負担を強要する朝廷に対し、この頃各地で安化王の乱、劉六劉七の乱、寧王の乱などの叛乱が多発している。寧王の乱が勃発した際にも反乱鎮圧を口実にまた親征と称した南遊を計画したが、その間に現地の王陽明から反乱を鎮圧した旨を記した上奏が届いたのにも関わらず、正徳帝はこれを意にも介さずに大軍を率いて南京へ出陣するという有様だった。
正徳15年(1520年)、水遊びをしていた正徳帝は坐乗の舟が転覆して水に落ちたことが原因で病に臥し、翌年に崩御した。崩御直前に自らを罪する詔を遺している。明はここでまた傾いた国勢をその後ついに取り戻すことがなかった。
4:23 Chales Ⅵ (シャルル6世 1368-1422)
Churles the Mad
1392年に寵臣であった王軍司令官オリヴィエ・ド・クリソンの暗殺未遂事件が起こると、シャルル6世は興奮して首謀者と見られたブルターニュ公ジャン4世の討伐軍を自ら率いた。しかし、ブルターニュ遠征の途中で出会った狂人に「裏切り者がいる」との暗示を受け、ある兵士が槍を取り落とした音に驚いて発狂し、周りの者に斬りかかった。この時、同行していた叔父フィリップ豪胆公は、後に対立することになる王弟オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワに「逃げろ、甥よ」と声をかけたといわれる。その後、一旦回復したが、不安定な精神状態が続いた。
翌1393年1月28日には「燃える人の舞踏会」(Le Bal des ardents)という事件が起こっている。王妃イザボー・ド・バヴィエールは侍女の一人の婚礼を祝して、大規模な仮装舞踏会(モレスコ、morisco)を開催した。シャルル6世と5人の貴族は亜麻と松脂で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人(ウッドウォード)に扮して互いを鎖で繋いで踊る「野蛮人の踊り」(Bal des sauvages)をしようとしたが、たいまつに近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世はベリー公爵夫人ジャンヌ・ド・ブローニュのとっさの機転で助かったものの、4人が焼死するという事件になった[1]。シャルル6世はその後、急速に精神を病むようになった。
精神異常のため、シャルル6世は事実上政務を執ることが不可能となり、叔父フィリップ豪胆公やその息子ジャン無怖公を中心とするブルゴーニュ派と、王弟オルレアン公ルイを中心としシャルル6世を支持するアルマニャック派に宮廷内部が分裂し、主導権を巡って争うことになった。
このようなフランスの状勢を見て、イングランド王ヘンリー5世は、アルマニャック派を支援しながらその裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。そして1415年、ヘンリー5世はシャルル6世に対し、支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求した。あまりのことにアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー5世はすかさずイングランド軍を率いてフランス北部に侵攻する。ヘンリー5世の勢いは凄まじく、フランス軍は各地で連戦連敗した。
その間、王太子ルイが1415年に、ルイに代わる王太子ジャンが1417年に、と2人の嗣子が相次いで没するなどの不幸もあった。
このため両派に和解の動きが起こったが、1419年にアルマニャック派を代表する王太子シャルル(後のシャルル7世)が和解交渉の会見においてジャン無怖公を殺害したため、その跡を継いだフィリップ善良公はイングランドと同盟して王太子シャルルと全面的に対立し、1420年4月にトロワ条約を結んでヘンリー5世のフランス王位継承を支持した。これにより、ヘンリー5世とシャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)との結婚と、シャルル6世の死後は王太子シャルルではなくヘンリー5世がフランス王位を継承することなどが定められた。ヘンリー5世は現実に王位を継承することなく1422年8月に没したが、シャルル6世も同年10月21日、ヘンリー5世の後を追うように病死した。
シャルル6世の治世は42年の長きにわたったが、精神障害によってその治世のほとんどは家臣団やイングランドに左右される時代となった。
4:55 #4Joanna of Castile (カスティリヤ上女王ファナ 1479-1555)
1479年、カスティーリャ女王イサベル1世の夫で共治王であるフェルナンド2世がアラゴン王に即位し、カスティーリャ・アラゴン連合王国(スペイン王国)が成立する。フアナが2人の間の次女として生まれたのはこの年である。
フアナは両親の元で育てられ、知性豊かで信心深く真面目な少女に育つ。
フィリップ美公との結婚[編集]
1496年にハプスブルク家のマクシミリアン1世の長男であるブルゴーニュ公フィリップ(美公、端麗公)と結婚した。兄のアストゥリアス公フアンはフィリップの妹マルグリット(マルガリータ)と翌1497年に結婚しており、いわゆる二重結婚であった。
美公という通称通り、金髪碧眼の美しい姿にフアナは惹かれ、またフィリップにとってもカスティーリャ人のフアナは初めて見るタイプの女性であり、情熱的に愛し合い、2男4女をもうける。しかし元来真面目なフアナは夫の不実を許すことが出来ず、人目をはばからず激昂することもしばしばで、フィリップの心は離れていった。夫への猜疑心へ駆られ、次第にフアナの精神状態は不安定になっていった。
当初、この縁組は両家の絆を深めるという以上のものではなかった。しかし1497年、フアナの兄フアンが結婚から間もなく夭折、残された妻マルガリータは死産した。さらに1498年にはポルトガル王マヌエル1世(後に妹マリア、長女レオノールの夫にもなった)の妃となっていた姉のイサベルが、1500年にはその子ミゲルが相次いで亡くなり、フアナがカスティーリャの王位継承者に指名された。
1501年11月、フアナは夫フィリップとともにカスティーリャに渡る。しかしフィリップはスペインの乾ききった土地と謹厳で信心深い人々を嫌い、翌年には臨月の妻を一人カスティーリャに残し、故郷のフランドルに帰ってしまった。フアナはショックを受け、病状が悪化する。子どもの養育は困難な状態で、長男カルロス(のちのカルロス1世=皇帝カール5世)の他、レオノール、イサベル、マリアはネーデルラント総督となっていたかつてのフアナの兄嫁マルグリットに、次男フェルナンド(後の皇帝フェルディナント1世)はフアナの父フェルナンド2世に、それぞれ育てられた[3]。その出産後、フアナは一度フランドルに戻る。
カスティーリャ女王として即位した後に生まれた四女のカタリナ(妹マリアとマヌエル1世の息子ジョアン3世と結婚)のみがフアナの手元に留め置かれた。
即位後[編集]
女王として[編集]
1504年11月にイサベル1世が死去したため、フアナは再度カスティーリャに渡る。1506年1月7日、フリシンゲン港より海路で出発する。歴史家レイモン・ド・ブランカフォールによれば、カレー海峡付近で嵐に遭った折、当時の習慣によって同乗させていた売春婦たちを積荷と共に海に流そうとしたとき、フアナは
- 「足手まといを海に捨てなければいけないのならば、まずはこの女達を食い物にした殿方から始めましょう。それに彼女達を船に乗せた者どもも。もちろんその点では公爵殿下(フィリップ)も言い訳は許されません。なぜなら今私たちは、悪事を働いた者であれば、それが王であろうと平民であろうと等しく罰を下される方に慈悲を乞おうとしているのですから」
と言い放ったという。
帰国後、フアナはカスティーリャ王位に就いた。夫フィリップは「カスティーリャ王フェリペ1世」を名乗り、妻との共同統治を主張するが、コルテス(議会)では「王の配偶者」(王配)としか認められなかった。フィリップはさらに、カトリック両王と敵対していたフランスに接近したり、フランドルの貴族たちにカスティーリャの土地を分け与えたりしたため、国内の貴族達を敵に回し、全く支持を失ってしまう。フアナは夫の愚行に頑として従わず、カスティーリャ貴族たちの支えとなった。[要出典]
夫との死別と幽閉[編集]
1506年、フィリップがブルゴスで突然死去する(毒殺説もある)。衝撃を受けたフアナは完全に正気を失った。夫の埋葬を許さず、その棺を運び出して馬車に乗せ、数年間カスティーリャ国内をさまよい続けた。王室礼拝堂のあるグラナダを目指したとも言われている。
1508年、フアナは父王によってトルデシリャスのサンタ・クララ修道院に隣接した城館に幽閉された。女王は政治の場から忘れ去られ、「狂女」(La Loca)と呼ばれる。ブルゴーニュで出産した4子の記憶はないが、末娘のカタリナに対しては異常な執着を見せ、カタリナの惨状を見た長子カルロスが彼女を脱出させるとフアナは狂乱して暴れたためカタリナはトルデシリャスに戻されたとされる[4]。
1516年には父フェルナンド2世も死去し、長男カールがブルゴーニュから迎えられ、カスティーリャとレオンを統合したスペイン王カルロス1世として政務を代行することになる。ここからスペイン・ハプスブルク朝の時代を迎えることとなる。ブルゴーニュ育ちのカルロスと側近に対する反発や、スペイン育ちの次男フェルディナントを推す背景もあり、1520年、コムネロスの反乱が勃発する。この時、反逆者たちはフアナと会談し、女王の承認を得て正当性を主張しようとしたが、フアナは全く政治に関心を示さず、以後反乱は自然瓦解に向かい国王軍の勝利で終結した[5]。
フアナは40年以上の幽閉生活の末、1555年に生涯を閉じたが、正式には崩御するまで退位を拒み、女王であり続けた。また、カルロス1世は、遠征からの帰国のたび母への見舞いを継続し続け、存命であることに安堵していた[6]。サインをする際も、最期まで「ヨ・ラ・レイナ」(Yo la reina:我、女王)としていた。政治的には母譲りの芯の強さを発揮し、「王は我のみ」(solo yo)と宣言して、無能な夫とは対照的であったと(その統治能力の有無は別として)評価する向きもある[誰によって?]。
1555年4月12日、フアナが崩御すると、すでに老境に入っていたカルロス1世に強い精神的打撃を与え[7]、同年10月、カルロス1世は金羊毛騎士団長の職やネーデルラント統治を息子(フアナの孫)フェリペに禅譲し、隠棲に入ることとなる。
また、フィリップが亡くなってすぐに、イングランド王ヘンリー7世から再嫁の話があり、フアナもいったんは心を決めかけたものの、父フェルナンド2世が政治的思惑から反対、ヘンリー7世が間もなく亡くなったこともあって実現はしなかったという経緯がある[要出典]。
5:41#3 Nero of the Roman Empire (37-68)
6:30 executed including his mother
6:42#2 Caligula of the Roman Empire (12-41)
Caligula was eventually assassinated.
7:35 George Ⅲ of the United Kingdom (1738-1820)
8:06 Vlad Ⅲ of Wallachia 1431-1476)
ワラキア公ヴラド3世(Vlad III , 1431年11月10日 - 1476年12月19日)、通称ドラキュラ公(Vlad Drăculea) または串刺し公(Vlad Țepeș / トルコ語: Kazıklı Bey)は、15世紀のワラキア公国の君主。諸侯の権力が強かったワラキアにあって中央集権化を推し進め、オスマン帝国と対立した。
日本ではしばしば「ヴラド・ツェペシュ」と表記されるが、「ツェペシュ」は姓ではなく、ルーマニア語で「串刺しにする者」を意味し、「ドラキュラ」と同様にニックネームであって、名前は単に「ヴラド」である(呼び名の項を参照)。
ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』に登場する吸血鬼・ドラキュラ伯爵のモデルの一人として知られる。現在は、故国を侵略から守るために戦った英雄として再評価されている。