永正8年(1511年)に元服し、毛利元就を名乗る。
He came of age in 1511, taking the name Motonari MORI.
幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。
Motonari became guardian of Komatsumaru, his young nephew.
永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。
毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。
元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。
This was Motonari's first battle and would determine the destiny of the Mori family.
武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。
この戦い(有田中井手の戦い1517年)の後、尼子氏側へ鞍替えした元就。
After the battle, Motonari took sides with the Amago clan.
安芸武田氏重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。有田城攻囲中の武田元繁はその報に接するや怒りに打ち震えた。一部の押さえの兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この有田中井手の戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。
そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。
元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事になった。
It was decided that Motonari would present 4,000 hiki (a monetary unit) to the court via Yoshitaka.
天文2年(1533年)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で叙任が実現の運びとなった。
これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。また天文6年(1537年)には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。
天文8年(1539年)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。後に信実は出雲の尼子氏を頼っている。
元就はわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。
Besieged with only his small army of 3,000 men to defend, Motonari managed to defeat the Amago force.
天文9年(1540年)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。
家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。
更には元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるも大敗した。
In May, Motonari assailed the Shionoya gate of the castle but was utterly defeated.
天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、更には元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるも大敗し、大内軍は敗走する。
この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあった。
During the rout, Motonari faced the crisis, prepared to die.
この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって渡辺通らが身代わりとして奮戦の末に戦死、窮地を脱して無事に安芸に帰還することができた。
しかし大内・尼子氏の安芸国内における影響力の低下を受けて、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場から脱却を考えるようになる。
ここに元就も隆房との対決を決意した。
Motonari then resolved to confront Takafusa.
1553年には尼子晴久の安芸への侵入を大内家臣・江良房栄らとともに撃退した。この際の戦後処理のもつれと毛利氏の勢力拡大に驚いた陶隆房は、元就の持つ支配権を奪回しようとし、徐々に両者の対立が先鋭化してくるのである。そこに石見の吉見正頼が隆房に叛旗を翻した。隆房の依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたが、毛利家中には隆房への不信から反対意見もあり出兵が出来なかった。そこで隆房は直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。平賀広相からその事実を告げられた元就の嫡男・隆元や重臣達は元就に対して(安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるとした)約束に反しており、毛利と陶の盟約が終わったとして訣別を迫った。ここに元就も隆房との対決を決意した。
元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。
Motonari took the initiative, raiding the Miyagawa force.
天文23年(1554年)、出雲では尼子氏新宮党の尼子国久・誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛が起こった。尼子氏の混乱は元就にとって好都合であった。毛利軍主力の留守中に本拠吉田郡山城が襲撃されることが当分無くなったからである。尼子氏が内紛の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が『謀反を企てている』というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。
そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000の兵を預け、山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死(折敷畑の戦い)。緒戦は元就の勝利であった。
しかしこれは元就の策略であった。
He fell right into Motonari's hands.
これにまたもや激怒した陶晴賢は弘治元年(1555年)、今度は自身で20,000の大軍を率いて山口を出発した。途中、重臣・弘中隆兼の反対にも関わらず、交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかしこれは元就の策略であり、大軍ゆえに身動きの取れない陶軍に奇襲を仕掛け、一気に殲滅してしまったのである。
その陶隆房は厳島の戦いで毛利元就に敗北する。
This Takafusa SUE was defeated in the Battle of Itsukushima by Motonari MORI.
陶晴賢は自刃し、大内氏はその勢力を大きく弱めていくことになる。これが後世に名高い日本三大奇襲作戦の一つ厳島の戦いである。
尼子氏・大友氏との戦い
しかし、この和睦を元就は一方的に破棄。
Motonari, however, refused it unilaterally.
弘治2年(1556年)以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、永禄3年(1560年)にその尼子晴久が死去する。そして尼子氏の晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男尼子義久は足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に破棄し、永禄5年(1562年)より出雲侵攻を開始する(第二次月山富田城の戦い)。
隆元死去の報告を聞いた際、元就は卒倒した。
Hearing of Takamoto's death, he collapsed.
これに対して晴久の跡を継いだ尼子義は、難攻不落の名城月山富田城(現在の島根県安来市)に籠城し尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。
しかし永禄6年(1563年)に、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功する。だが一方で、当主である嫡男、隆元の不慮の死という悲運にも見舞われている。
まず元就は兵士の降伏を許さなかった。
First, he did not give mercy to the soldiers who surrendered.
元就は大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。永禄9年(1566年)11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大名になった。
出雲尼子氏を滅ぼした元就であった。
He defeated the Amago clan of Izumo Province.
出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、尼子勝久(尼子誠久の子)を擁した山中 幸盛率いる尼子残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入し、毛利氏に抵抗した。
更に豊後の大友宗麟も豊前の完全制覇を目指しており、永禄11年(1568年)には北九州での主導権を巡る争いの中で、陽動作戦として元就自身によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘に兵を与えて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの優秀な息子達の働きにより、大友氏と和睦しつつ尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。しかし大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になった。
元就の最期
1560年代の前半より元就は度々体調を崩していたが、将軍・足利義輝は名医・曲直瀬 道三 を派遣して元就の治療に当たらせている。元就の治療は「道三流」と称される道三門下の専門医によって行われ、道三門下の専門医と道三との往復書簡いわゆる「手日記」を通して処方が決定された[11][12]。 その効果もあったのか、元就の体調は一時は持ち直したようで、永禄10年(1567年)には最後の息子である才菊丸が誕生している。なお、毛利氏領国では、専門医・専従医不足に伴う医療基盤の軟弱さが、永禄9年に曲直瀬道三が下向して一挙に改められた[13]。
元亀2年(1571年)6月14日、吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。
元就はこのように自らの理想の高さを示した。
He held such a high ideal as this.
厳島神社への参拝「江譜拾遺」には、元就がまだ元服前に家臣と共に厳島神社へ参拝に行った際の逸話が残っている。
元就が、家臣に祈願の内容を訊ねると、家臣は「松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました」と答えた。それに対して元就は「何故天下の主になれるように願わなかったのだ」と言った。家臣は「実現不可能な事を祈願しても意味がありますまい。せいぜい中国地方でござろう」と笑ったが、元就は、「天下の主になると祈願して、やっと中国地方が取れようというもの。まして、最初から安芸一国を目標にしていたのでは、安芸一国すら取れずに終わってしまう」と反論し、自らの理想の高さを示した。
しかし、彼は後述のように、年を経るにつれて、天下獲りよりも家名の保全に腐心するようになった。
元就の支えになったのは家族であった。
He was supported by his family members.
元就の支えになったのは家族であった。正室のおかたは亡くなっていたものの、継室の乃美大方や側室の三吉氏、優秀な息子達が常に元就を支え続けたのである。
元就は71歳になるまで子作りにも励んだ。
He fathered a son at the late age of 71.
元就は71歳になるまで子作りにも励み、子供達は元就死後も毛利氏を支える柱石となるのである。
合戦、策略、暗殺、買収、婚姻などあらゆる手段を用いた稀代の謀略家で、中国地方に一大勢力を築き上げたことから、「西国随一の戦国大名」とも評されている。
出雲国の尼子経久・安芸国の毛利元就・備前国の宇喜多直家は中国地方の三大謀将と言われている。
鉄道唱歌(第二集山陽九州篇)では、厳島の箇所において元就を讃える歌詞がある。
毛利元就この島に 宮尾城をかまえて
Motonari MORI built Miyao Castle on this island.
毛利元就この島に 城をかまえて君の敵 陶晴賢を誅せしは のこす武臣の鑑なり
辞世の句は「友を得て なおぞうれしき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」である。これは死の三ヶ月前の花見で詠んだとされる。
- 吉田郡山城の増築工事の際、人柱の替わりに百万一心と彫った石碑を埋めたとされる。
- 元就は酒は控えていたとされる。
-
Motonari, however, did not appear to be much of a drinker.
- 父毛利弘元、兄毛利興元は酒の害で早死にしたこともあり、元就は酒は控えていたとされる。後に孫である毛利輝元に対して酒を控えるようといった内容の書状が残っている。
- 現存する元就の書状から彼の性格を読み取るに、非常に愚痴っぽい性格であったようである。
朝廷・幕府との関係
毛利氏は小豪族ではあったが、朝廷との結びつきが強い大内氏と同盟関係にあったことから、元就が当主となる以前から既に中央との政治的な繋がりを持っていたようである。大内氏の滅亡後、1557年に即位した正親町天皇に即位料・御服費用として総額二千五十九貫四百文を進献し[24]、その即位式を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる(同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任などは全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である)。
また、その後の尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を得た(雲芸和議)。
これに対して元就は一時黙殺した。
Motonari ignored the request for a time.
また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた。
この戦いで、鹿介は毛利元就の次男吉川元春に捕らえられた。
In this battle, Shikanosuke was captured by Motoharu KIKKAWA, the second son of Motonari MORI.
しかし、配下の略奪行為が因幡でも見られる(「稲場民談記」より)など統制維持が乱れ、その後は隠岐為清の離反を招き、布部山の戦いに敗北すると衰勢著しく、元亀2年(1571年)8月には最後の拠点であった新山城が落城する。この戦いで、鹿介は毛利元就の次男吉川元春に捕らえられた。ところがこの時、腹痛を装って何度も厠に入り、油断した監視の目を逃れるために厠から糞にまみれながらも脱走したといい、勝久とともに再び京都に逃れた。
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