象徴貼りますカキやカガ。(土一揆(つちいっき))(正長・播磨・嘉吉)(山城・加賀)
[ポイント]
1.室町時代のおもな一揆は、正長の徳政一揆→播磨の土一揆→嘉吉の徳政一揆→山城国一揆→加賀一向一揆の5件。
[解説]
1.正長の徳政一揆(土一揆)(1428)は、6代将軍義教が将軍に決まったとき、近江坂本の馬借が代初めの徳政を要求して蜂起し、これを契機に畿内一帯に波及し、酒屋・土倉・寺院などを破却。幕府から徳政令は出なかったが、この一揆が発生した大和では、興福寺などに迫り私徳政を実現した。大和の柳生郷にその時の徳政獲得を記念した石碑がある。
2.播磨の土一揆(1429)は、国人と土民が「播磨の国の土民旧冬の京辺の如く蜂起し……侍をして国中にあらしむべからざる」と蜂起。京都から下向した赤松満佑(あかまつみつすけ)が鎮圧。「旧冬の京辺の如く」とあるのは前年冬の正長の徳政一揆を指す。
3.嘉吉の土一揆(土一揆、1441)は、7代将軍義勝が将軍に決まったとき、代始めには徳政令を出すことが正長のときからの先例だとして徳政を要求して蜂起(代始めの徳政)。足利義勝の幕府は、要求の全国一律の徳政(天下一同の徳政)を出し、事態を収めた。以後、幕府が徳政令を頻発し、幕府の権威が失墜する契機となった。
4.山城の国一揆(1485~93)は、南山城の国人・土民らが国人一揆を結成。畠山政長、義就両軍に撤退・寺社本所領の還付・新関の廃止などを要求し成功。宇治平等院で国中掟法を制定、36人(三十六人衆)の月行事による自治支配が8年間おこなわれる。
5.加賀の一向一揆(1488~1580)は、一揆の総勢20万人。守護の富樫政親を敗死させ、約100年にわたって国人・僧侶・農民による寄合が自治支配。「百姓ノ持チタル国」と称された。
[正誤問題]
1.正長の徳政一揆で、幕府は徳政令を発布した。大和の柳生郷にその獲得を記念した石碑がある。(×幕府から徳政令は出ていない)
2.播磨の土一揆は、同国の国人と土民が前年の正長の土一揆にならって、徳政令を要求して蜂起したもの。(×守護赤松氏の家臣を国外へ追放するという政治的要求から蜂起)
〈2016早大・法
問3 奈良市柳生町、旧柳生街道の路傍の磨崖仏の足もとに、国の史跡となっている、徳政一揆に関する農民側の記録の碑文があり、「[ ]元年ヨリサキ者、カンヘ四カンカウニ、ヲヰメアルヘカラス。」と読める(句読点は付記した)。[ ]に入る元号は、問題文中に出てくる次の元号うちのどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当記号をマークしなさい。
あ 享徳 い 永仁 う 天保
え 正長 お 嘉吉
(答:え)〉
〈2014立大・文
正長の徳政一揆に関する説明として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.近江の馬借の蜂起をきっかけにおこり、土倉・酒屋などを襲って質物や売買・貸借証文を奪った
b.将軍足利義教が殺されて幕府が動揺している時におこった
c.畠山氏の軍を国外へ退去させ、8年間にわたり一揆の自治的支配を実現した
d.本願寺派の勢力を背景とし、門徒が国人と手を結んで守讃富樫政親を倒した」
(答:a ※b×1441嘉吉の土一揆(徳政一揆)、c×1485~93山城の国一揆、d×1488~1580加賀一向一揆)〉
〈2014明大・商(商)):「以下の文章は中世から近代初期にかけての民衆騒擾とその関連事項について記したものである。文章内におけるA~Eの【 】に入る最も適切な語句を1~5から選び、マークし、また[あ~お]の空欄に入る最も適切な語句を解答欄に漢字で記入しなさい。
諸国の守護大名たちが京都での戦いに明け暮れていた15世紀後半には、荘園制が弱体化し、領国支配の実権はしだいに守護代や国人に移っていった。この結果在地の武士たちの地域的結合である国人一揆が各地で結成されるようになったのである。1485年、南山城地方で両派に分かれて争っていた畠山義就と畠山A【1政長 2重忠 3持国 4義政 5満家】(1442~1493)の軍を国外に退去させた山城の国一揆はその後約8年間にわたり一揆の自治的支配を実現した。この様子を「然るべきか、但し又下極上の至なり」と表現した『[ あ ]』は同27代目門跡の尋尊の日記である。1488年におこつた加賀の一向一揆も浄土真宗本願寺派の勢力を背景に国人と手を結んだ加賀の門徒が守護富樫改親を倒したものであり、その後、一揆が実質的に支配する本願寺領国が約1世紀にわたって続いた。
一方畿内などの農村でも自治的な惣村が発達し、不法をはたらく荘官の免職や水害・干害の際の年貢の減免を求めて一揆を結び、荘園領主に強訴したり、逃散するような組織的な行動を取るようになっていった。なかには、一揆の組織にあたり、神仏の前で起請文を燃やし、その灰を飲むことで脱落しないことを誓い合う儀礼を行う地域もあった。一般にこのような儀礼は[ い ]と呼ばれている。
惣村の結合は時として荘園や郷の境界を超えて大規模化することもあった。この頃、貨幣経済の発達に伴って高利貸資本が庶民の生活を圧迫するようになり、これら資本も一揆の対象となったためである。1428年の正長の徳政一揆(土一揆)はこの典型であり、京都の土倉、酒屋などを襲い、質物や売買貸借証文を奪ったといわれている。奈良県柳生街道にある地蔵尊の巨石にはこの際の農民による徳政宣言文が刻まれており、それには「正長元年ヨリサキ者」から始まるB【1.17 2.27 3.37 4.47 5.57】文字が記されている。これは正長元年より以前に関しては当時春日社領の大柳生、坂原、小柳生、邑地の神戸4ケ郷の「ヲヰメ」はいっさいないと読むことができる。ここでの「負目」には土倉などの金融業者からの借金だけではなく、滞納した年貢に付加される利子なども含まれると考えられており、このために各地の惣村を基盤とした徳政一揆の蜂起がさらに大きな広がりをみせたといわれている。」
(答:A1政長、B2.27、あ大乗院寺社雑事記、い一味神水)〉
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