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(肥後・鹿子木荘(かのこぎのしょう))(寄進地系荘園・紀伊・桛田荘(かせだのしょう))。
[ポイント]
1.寄進地系荘園の代表例は紀伊・桛田荘と肥後・鹿子木荘である。
[解説]
1.寄進地系荘園は初期荘園(墾田地系荘園)に対する語。国司らの圧迫を免れるため、開発領主らが、その所有地を中央の権門(けんもん)勢家(せいか)に名目上の寄進をして、その荘官となり利権を確保した荘園。不輸(ふゆ)・不入(ふにゅう)の特権を得て、1OC頃より増加。一方公領(こうりょう)では、開発領主が、遙任国司が派遣する目代(もくだい)のもとで、在庁官人(ざいちょうかんじん)として利権を確保した。
2.鹿子木荘(肥後:熊本)は、11C初め、開発領主(かいほつりょうしゅ)沙弥寿妙(しゃみじゅみょう)の孫の代に、「権威を借らんがため」に400石の上納を条件に藤原実政に寄進し領家(りょうけ)と仰(あお)いだ。実政の曽孫願西の代に、半分の200石の上納を条件に、高陽院(かやのいん)(鳥羽天皇皇女)を本家(ほんけ)と仰ぎ、のち御室(おむろ)(仁和寺(にんなじ))に再寄進されたとある。ただし、長らく寄進地系荘園の代表例とされてきたが、原史料は鹿子木荘が成立して200年後に作成されたもので、荘園の支配権をめぐる訴訟のなかで、一方の側の主張を裏付けるために作成されたものという指摘があり、内容に疑義が唱えられている。
3.桛田荘(紀伊:和歌山)は9C初めに開発され、12C後半に後白河院に、ついで神護寺に寄進された。荘の領域を示す絵図面で知られる。
〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)〉
問6 東寺(教王護国寺)が所蔵する束寺百合文書には、束寺が領有した荘園に関する文書が多い。次のうち、東寺百合文書に含まれる文書からわかるのはどれか。1つ選びなさい。
1 紀伊国阿氏河荘の百姓等が地頭湯浅氏を訴えたこと。
2 伯香国東郷荘の下地中分。
3 越後国奥山荘波月条に地頭屋敷や市場があったこと。
4 紀伊国柿田荘の膀示の位置。
5 肥後国鹿子木荘の伝領。」
(答:5)〉
〈2015大学入試センター試験:「
問6 下線部fに関して,次の史料に関して述べた文として誤っているものを下の1~4から一つ選べ。
鹿子木(注1)の事
一、当寺(注2)の相承は、開発領主沙弥(注3)寿妙(じゆみよう)嫡々相伝の次第なり。
一、寿妙の末流高方(注4)の時、権威を借らむが為めに実政卿(注5)を以て領家と号し、年貢四百石を以て割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職となる。
一、実政の末流願西(がんさい)(注6)微力の間、国衙の乱妨を防がず。この故に願西領家の得分二百石を以て、高陽院(かやのいん)内親王(注7)に寄進す。……これ則ち本家の始めなり。『東寺百合文書』
(注1)鹿子木:肥後国(熊本)にあった鹿子木荘。
(注2)当寺:教王護国寺(東寺)のこと。
(注3)沙弥:在俗の僧。
(注4)高方:中原高方。寿妙の孫。
(注5)実政卿:藤原実政(1019~93年)。当時、大宰大弐であった。
(注6)願西:藤原隆通の法名。藤原実政の曾孫。
(注7)高陽院内親王:鳥羽天皇の皇女(?~1148年)
1 開発領主沙弥寿妙の寄進により、藤原実政が領家となった。
2 開発領主沙弥の孫中原高方は、現地を管理する預所となった。
3 実政の曾孫願西は、国衙の干渉を防ぐため、収益の一部を寄進した。
4 実政の曾孫願西の寄進により、高陽院内親王が本家となった。
(答:1)
〈2013大学入試センター試験に桛田荘の絵図を使用した問題が出題(第3問の問3)された〉
〈2012早大・文化構想:「
7 下線部水田開発と灌漑システムの管理は法的にも寺院や貴族や農民個人に委ねられるようになりについて。8世紀前半に三世一身法と墾田永年私財法が施行される。これらの法令によって東大寺などの大寺院が形成した荘園は何と呼ばれるか。2つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。」
ア初期荘園 イ領域型荘園 ウ寄進地系荘園
エ公家領荘園 オ墾田地系荘園
(答:ア・オ)〉
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