ただしなり良し カマ娼婦。
(足利直義(ただよし)・成良親王(なりよししんのう))(鎌倉将軍府)
[ポイント]
1.鎌倉府将軍は成良親王、同親王を奉じて鎌倉入りした足利直義が同府の長官格。
[解説]
1.鎌倉将軍府は、後醍醐天皇の京都の政権(建武新政)が鎌倉においた政庁である。建武政権からは距離を置いていた足利氏が事実上管轄しており、実体はむしろ鎌倉小幕府というにふさわしいほど旧幕府系の武士を重用したものであった。室町幕府(京都)の政庁である鎌倉府の前身となる。
2.鎌倉府将軍は成良親王(1326~44)、同親王を奉じて鎌倉入りした足利直義(1306~52)が同府の執権(長官)。
3.中先代の乱(なかせんだいのらん)(最後の鎌倉幕府執権北条高時の遺児時行(ときゆき)が信濃国に挙兵、1335年)を迎撃した直義側が敗走。
4.直義は敗走の直前に、護良(もりよし)親王(かつての天台座主(てんだいざす)、前征夷大将軍、後醍醐天皇と対立して鎌倉幽閉中)を、1335年、殺害している。後醍醐天皇に対抗して、護良親王が北条時行に奉じられる事を警戒したもの。なお成良親王の方は無事都に護送されていることからも、護良親王殺害が、後醍醐天皇の意向であったことがうかがわれる。
5.足利尊氏は、この中先代の乱討伐および直義支援を理由に鎌倉に向かい、同地を拠点としたため建武新政としての鎌倉将軍府は消滅。
6.また東北地方にも、建武政府の奥羽統治機関である陸奥将軍府をおいた、陸奥国府多賀においた。1333年北畠顕家が義良親王(のりよししんのう)を奉じて赴任したのに始まる。比較的柔軟な統治を行い、新政府の地方統治機関としてもっとも成功したが、北畠顕家の戦死(1338年)ごろから衰える。
〈2015関西学院大・文法商人間
問9.下線部h朕(後醍醐天皇)が新儀の事例として、正しいものを下記より選びなさい。
ア.記録荘圈券契所(記録所)を復活させた。
イ.地方には、鎌倉将軍府と奥州将軍府を置き、将軍として皇子を派遣した。
ウ.諸国には守護が置かれ、国司は廃止された。
エ.土地所有権の確定には太政官符が必要とされた。
(答:ア ※イ奥州将軍府→陸奥将軍府、ウ守護・国司併置、エ太政官符→天皇の綸旨)
〈2013早大・国際教養
下線部cの人物後醍醐天皇に関する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア かつて後鳥羽上皇が流された隠岐に配流された。
イ 禅宗とともに伝えられた宋学の強い影響を受けた。
ウ 大内裏の造営を計画し20分の1税の賦課を提案した。
エ 修験道の活発な吉野地方に拠点を構えた。
オ 子の懐良親王を天台座主として寺院勢力を結集した。
(答:オ×護良親王の誤り)
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