江戸城外濠 市谷あたり

2015年04月15日 | 
江戸城外濠は、JR中央線に沿って現在でも大半が残されている。
市ヶ谷駅周辺は桜の名所になっていて、釣り堀もあったりと
四季折々の車窓が楽しめる場所でもある。

(春の外濠)

市ヶ谷駅は、牛込見附と市谷見附の2つの門に挟まれた場所にある。
正確に言えば市谷門の直下に、現在の中央総武緩行線ホームが位置している。
釣り堀のやや四ツ谷寄りに、いまでも石垣が残っている。

(四ツ谷側からみた石垣)

この付近の外濠は、女子医大の南側の抜弁天付近や
東京医大の南東側、富久町あたりを谷頭として防衛省前を流れる
紅葉川という川の谷を利用した濠とされている。
その中でも最大の水源は、荒木町の津の守坂付近にあった池とされている。

現在でも、暗渠となった紅葉川の水は外濠に流れ込んでおり
JR線のホームの端から、その合流地点である石垣の切欠を見ることができる。

(紅葉川合流点あたり)
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駿河台

2015年04月14日 | 
駿河台は、江戸時代初期までは神田台もしくは神田山と呼ばれた
本郷台地の先端にあたる高台です。
地質学的に言うと武蔵野面にあたり、その東端下と南端下は沖積平野になります。

(神田山東麓から駿河台方面を望む)

現在は神田川の深い谷で、駿河台地区は湯島台と分かれてしまっていますが
この神田川の谷は元和六(西暦1620)年に、時の将軍秀忠の命を受け
伊達政宗が助役によって開削されました。

(御茶ノ水橋からの神田川の夜景)

これは、神田川当初の流れである平川が、度々洪水を起こしていたことと
江戸城惣構の拡大を兼ねた普請でした。

(平川と神田川の分岐点)

駿府に隠居していた大御所家康公がなくなると
家康公とともに駿府に赴いていた家臣、駿河衆が
この地に屋敷を拝領します。

有名なところでは、大久保彦左衛門の屋敷が、現在の杏雲堂病院の場所にあり
明治大学側に石碑が建てられています。

(杏雲堂の大久保彦左衛門屋敷跡碑)

また、御茶ノ水駅前のスクランブル交差点を渡った交番横には
名水である御茶ノ水の碑がひっそりとありますが
本来の御茶ノ水は、神田川の開削と後の拡張で失われてしまいました。

(御茶ノ水の碑の傍にある落水)

元々は、現在の順天堂大病院の南西にあった高林寺から
湧いていたとされています。
高林寺は明暦の大火で焼け、現在地である文京区向丘に移転しています。

また、その泉水も万治三(1660)年の神田川拡張工事で
失われてしまったと言われています。

現在でも神田川北岸からは、水が湧いている様子がみられるので
おそらく名水御茶ノ水の水脈は生きていると思われます。

(水道橋から高林寺方面を望む)
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神田明神

2015年04月13日 | 
神田明神(神田神社)は社伝によると天平時代(西暦730年ごろ)に
出雲氏族眞神田臣が豊嶋郡芝崎村に創建したとされます。
芝崎村は現在の大手町付近とされています。

(神田神社参道)

また、この地に御田(神に供える稲を育てる田)があったことから
神田と呼ばれたとされる説もあります。

その後、平将門の乱で敗れた将門公の首がこの地へ飛んできて
ついに力尽きて落ちたとされる場所ともされ、
将門公は手厚く葬られ将門塚として後世に伝えられました。

(将門塚)

また、隣地である江戸城に入った太田道灌や北條氏綱、德川家康といった
江戸を治めた武将からも崇敬を集めました。

江戸開幕後の元和二年(家康没の年)には神田台湯島、
つまり現在地に遷されましたが、ここは江戸城の鬼門にあたります。
この遷座には、黒衣の宰相と呼ばれる天海が関わっているとも言われています。

以来、今日に至るまで、神田明神は、江戸東京108町の総鎮守とされており、
江戸時代には神田祭の神輿は山王日枝神社の山車と並び
江戸城に入城することが許された江戸っ子の誇りでもありました。

また将門公の反乱を恐れ、勅命で東国鎮護の為に建立された成田山新勝寺へは、
将門公を祀る神田明神の氏子は詣でてはいけないとされています。

(拝殿)

元々江戸っ子の聖地だったこの神社も、現在は某アニメの聖地として
参詣客で賑わっています。

(銭形平次とラブライバーの聖地、明神男坂)
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山王日枝神社

2015年04月12日 | 
山王日枝神社は、江戸氏が江戸郷の鎮守として祀っていた山王宮に
太田道灌が江戸城築城にあたって川越の寿量無寺鎮守である
川越(河越)日枝神社を勧進したのが始まりと言われています。



德川家康入府後は、江戸城西の丸紅葉山に遷され
家康の没後、紅葉山に家康の霊廟である東照宮が建立されるに際し
山王日枝神社は麹町に遷されます。

これは現在の隼町で、国立劇場が建っている場所になります。

(国立劇場)

明暦の大火で社殿が焼失すると、当時の将軍であった家綱の命により
赤坂・星が丘の深溝松平家屋敷地に遷されます。
この場所は、江戸城の裏鬼門になります。

(境内から溜池方向を望む)

また、この社地の麓には、赤坂や六本木の谷から湧く水を集めた溜池がありました。
これは、東京湾からの海水が満潮時に遡上しないよう
虎ノ門の現在の特許庁付近にあった洗堰によって
赤坂門から下流の外濠を堰き止めて造られた
飲料水確保のための人工のダムでした。

(弁慶橋から赤坂門を望む。右手が下流)

山王日枝神社は、そんなダムの底だった場所を走る外堀通りから
かなりの比高があるために現在ではエスカレーターで登り
お詣りすることができます。

(参道のエスカレーター)

新しいもの好きな江戸っ子が誇りにした山王日枝神社は
今でも時代の先端を行く神社です。

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平河天満宮

2015年04月11日 | 
平河天満宮は、太田道灌が菅原道真公を霊夢に見て
文明十年に江戸城平河に建立したとされる天神社です。
法恩寺と同じく江戸城内に平河天神社として開かれ、
のちに家康によって平河門外に遷されますが
秀忠の頃に現在の地に再度遷されます。
これによって、この地が平河町と呼ばれるようになりました。

(平河天満宮)

道灌によって建立された平河天神社は、江戸城梅林坂を登った本丸の北側、
現在は宮内庁書陵部が建つあたりにあったとされています。

(宮内庁書陵部)

(梅林坂)

平河門を入って梅林坂へ上がる手前にある天神濠という濠の名に
平河天神社の名残をとどめています。

(梅林坂遠望)

(天神濠)
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法恩寺

2015年04月10日 | 
墨田区太平にある平河山法恩寺は、太田道灌によって開かれた
江戸城内鎮護の祈願寺院です。

(法恩寺)

当初は本住院と呼ばれ、現在の皇居平河門付近に建立されました。
この付近は、太田道灌以前、江戸氏が治めていた頃から
賑やかな開けた場所でもあり、パレスホテルから東京消防庁、丸紅本社ビルあたりが
江戸城下最大の繁華街でもありました。

(平河門)

太田道灌の死後、子である資康が道灌を弔うため、出家して法恩斎と称し
さらに法恩斎の子、資高が父資康の年忌祭に際して
本住院を法恩寺と改めたとされています。
山号である平河山は、この開山の地に因んでいます。

(法恩寺境内)

德川家康入府後、江戸城拡張の普請の折に、法恩寺は神田柳原に移り、さらに谷中清水町に移りますが
元禄八年に現在の本所太平に移ります。

太平という地名は、太田氏の平河山という意味なのです。

現在では、スカイツリーの麓のパワースポットとして
今まで以上に観光客が増えつつあるようです。

(スカイツリーと法恩寺参道)
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江戸の最初

2015年04月09日 | 
江戸といえば、たとえば日本橋や上野浅草、谷中あたりの
下町を思い浮かべる人が多いと思います。

では、江戸の最初の地はどこでしょうか。

江戸の江は大きな川、戸は出入り口。
つまり大きな川の河口の事を指す地名です。

江戸城は神田川(平河)の河口ですが、大きな川ではありません。
おそらく大きな川とは隅田川のことと思われます。

隅田川の河口、つまり海水と淡水が混ざる汽水域に
秩父平氏の江戸氏の居城とされる場所が二箇所存在しています。

(隅田川)

白髭橋のそば、石浜神社と、浅草の待乳山聖天(本龍院)隣接地です。

(石浜神社)

(待乳山聖天)

石浜神社の北側(上流)には「汐入」という地があり、
海水がここまで来ていたことは確かです。
また、石浜には馬加千葉氏と対立した千葉宗家が入城していたとも言われています。
浅草は海苔で有名ですから、言わずと知れた汽水域です。

(汐入のJR貨物隅田川駅)

二つの寺社はどちらも微高地で、古代から聖地とされていましたから
その隣接地に館を築く可能性は充分に考えられます。

この地に館を構え、治めた秩父氏(秩父平氏)は、
「江戸」を名乗るようになります。

また江戸重継は日比谷入江に面した櫻田の高台に館を築きます。
これが太田道灌、後北條(条)氏につながり、德川代々の江戸城、
そして近現代天皇家の御所・宮殿となるわけです。
もし「江」が指し示す河川が平河であれば、この地も「江戸」になります。

(江戸城本丸)

いずれにしても、最初の江戸の「城」は、下町に建っていたわけです。
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花まつり

2015年04月08日 | 徒然
今日は釋尊、ゴータマ・シッダールタの生誕日、花まつりです。
私が卒業した小学校は、仏教系の学校だったので
入学式をこの日に行い、新1年生が入学式のあとに
誕生釈迦仏立像に甘茶をかける花まつりを行っていました。

我が家の菩提寺でも稚児行列を行い、花まつりを祝います。
私も35年近く前に参加していますが、菩提寺には今から100年前
大正時代に行われた稚児行列の写真も遺されており(非公開)
そこには、私の祖母が写っているのです。

2500年ほど昔に生まれた聖人の誕生日は
21世紀の今日も、多くの人に祝われているのです。

(雨に桜が散る菩提寺 如意山観明寺)
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隅田川 堀切あたり

2015年04月07日 | 
春のうららの…(瀧廉太郎作曲 武島羽衣作詞「花」)でおなじみの隅田川。
現在は北区岩淵の岩淵水門で荒川放水路と別れた
本来の荒川流路、つまり古代の入間川下流域を隅田川と呼んでいます。

(春の隅田川)

「すみたかは(すみだがわ)」の呼び名は、9世紀にはすでに見られ
住田河と書かれたものも存在しています。
江戸時代には千住大橋より下流を隅田川と呼び、
さらに吾妻橋より下流を大川と呼んでいました。

荒川放水路と分岐した隅田川は、足立区、荒川区、墨田区の区界、
堀切で再度水路によって連結されます。

(堀切の水門)

この水路は、荒川放水路建設前の綾瀬川、つまり古利根川の一部で
荒川放水路対岸、小谷野神社付近につながります。

(綾瀬橋)

小谷野村と堀切村は、荒川放水路に沈んだ村で
両村は放水路左岸に移転、堀切駅だけが線路移設で右岸に残されたまま
今日に至っています。

(小谷野神社)

この付近で隅田川は直角に近い角度で右折しており
大工道具の指矩(さしがね)のようであったことから
隅田川左岸を鐘淵と言うようになり、川の水を利用して
紡績工場が設立されました。

現在、都立隅田川高校堤校舎で使われていた塀の一部に
かつて紡績工場の塀だったことが垣間見れます。

(旧鐘ヶ淵紡績工場の塀)
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上野公園 その2

2015年04月06日 | 
寛永寺建立直後から、百余種の桜が植樹され、鳴り物などが禁止されるものの
一般に桜の名所として日中のみ開放される時期がありました。

(上野公園)

上野公園一帯は幕末、明治維新に於ける上野戦争によって寛永寺伽藍の大半が焼失し
明治9年には、明治天皇ご臨席のもと、上野公園(東京府公園)開園式が行われ
内國勸業博覽會が開催されるなどしたのちに帝室御料地となりました。

もともと寛永寺の貫主(住職)は、皇族が代々就いているので(輪王寺宮)
帝室御料地(のち宮内省管轄地)となることは、自然の流れでもあったのです。

(輪王寺)

もちろん、明治維新の勝者である官軍、すなわち宮廷側が
德川家菩提寺の跡地を管理することに、大きな意味があったことも否めません。

この上野の山は大正13年に、当時の東京市に払い下げられ
この機を持って上野恩賜公園と称されるようになりました。

その後、公園地下に京成電鉄が乗り入れますが
その工事の際にも桜の根を傷つけないよう、当局から指示がありました。
この上野公園地下の京成線の線路は、太平洋戦争中に日暮里から三線軌条化され
空襲から皇室用鉄道車両などを守るための格納庫として使用するなど
皇室とは切っても切れない縁のある山でもあるのです。

(京成上野駅)
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上野公園 その1

2015年04月05日 | 
桜の名所としても有名な上野公園は、もともと東叡山寛永寺の境内です。
この一帯は忍岡と呼ばれ、多くの侵食谷によって指状に広がった武蔵野台地の
一番東側である舌状台地の上野台地南端にあたります。

(上野公園)

東側、今の上野駅側は沖積低地で、反対の西側は谷田川(古石神井川)の谷があり
縄文海進期には、岬であったことが容易に想像つく地形でもあります。

現在でも、上野公園の地下には縄文時代の遺跡などが埋まっています。

上野公園周辺の地の発展は遅く、德川家光による寛永寺の建立が
上野発展の最初と言われています。
それまでの忍岡は人口の少ない場所だったようです。

(東照宮)

(寛永寺 旧本坊表門)
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台日文化交流

2015年04月04日 | 徒然
池袋駅西口、東京芸術劇場前の、池袋西口公園で
東日本大震災復興支援を兼ねた、台日文化交流というイベントが行われています。
台湾の食べ物の露店や、各種ステージなどで、
今日(4日)と明日、盛り上がります。

今年は何回台湾に行けるかな…。
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桜吹雪

2015年04月03日 | 
今日の東京は風が強く、満開の桜も桜吹雪として散り始めました。



桜の花が散る様は、儚くも美しく、雅やかなものです。
春の桜の散る様、夏の螢が舞う様、秋の落葉、冬の牡丹雪が舞う様は
日本を代表する風流な景色です。

桜前線は北上して、日本列島では来月まで桜の舞う光景が楽しめます。
そのあとは、ひと月おいて螢の季節です。

風流を求めて旅をするのも、いいかもしれません。

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本妙寺

2015年04月02日 | 
桜といえば桜吹雪。
桜吹雪といえばご存知、遠山の金さんです。
遠山の金さんこと遠山左衛門少尉景元は、天保年間(19世紀)に活躍した実在の旗本です。



その遠山景元の墓があるのが、桜の名所にしてソメイヨシノ発祥の地とされる染井の
染井霊園に隣接する法華宗陣門流德榮山本妙寺です。



開基は德川家康の三河家臣団で、最初は浜松に開山しました。
家康公の江戸入府の際に、江戸局沢(後の吹上、道灌濠周辺)に移り
天下普請に際して小石川に移りました。
しかし火災で伽藍が全焼し、代替地として本郷に移ります。
この付近には、現在でも本妙寺坂という坂の名が遺されています。

江戸城天守をも全焼させた明暦の大火(振袖火事)の火元とされるも
家康公の家臣団による寺であることから、法華宗触頭という
地位ある寺院に指定され本郷の地に残りました。



現在の巣鴨5丁目の地に移ったのは明治に入ってからで
桜吹雪の金さんが、桜の名所の横に眠るのはまさに偶然の一致なのです。



ちなみに、遠山景元は彫り物を入れていなかった説や
彫り物を入れていたとして、その絵は桜か女の生首か…
場所や範囲はどの程度だったのか…と、
諸説あるようですが、ひとつ確かなのは、重度の痔を患っていたということ。
これは、遺された文献から確認できるそうです。
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染井吉野

2015年04月01日 | 
東京のサクラの代名詞でもあるソメイヨシノは、
日本原種のエドヒガンとオオシマザクラの交配で生まれた園芸種のサクラです。

(そめいよしの児童遊園)

諸説ありますが、江戸時代に駒込染井村の伊藤政武という植木商が
人工交配によって作り出したとする説が、科学的にも立証されつつある起源となっています。

(植木の里)

いずれにしれも遺伝子的には日本固有種同士の交配で生まれたことは
間違いがありません。

(植木の里 染井)

明治までは「吉野桜」という名で呼ばれていたようですが
実際の吉野の桜はヤマザクラであり、ソメイヨシノとは種が異なることから
染井村の名を冠してソメイヨシノとしたようです。

(染井吉野桜記念公園)

同地域のソメイヨシノが一斉に開花するのは、
全ての樹が一本の原木からのクローンであるからとされ
その元祖となる樹は上野公園にあると、千葉大学の研究によって報告されています。

(染井吉野櫻發祥之里碑)

いまでは、世界中で日本の春の象徴とされるソメイヨシノは
駒込生まれの上野忍岡育ちな、江戸っ子なのです。
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