フランク・ザッパ率いるマザーズ・オブ・インヴェンションからは、数多くの有能なるミュージシャン達が輩出されています。
その顔ぶれたるやジョン・メイオール&ザ・ブルース・ブレイカーズに負けないほど。
シカゴを無名時代から育て上げ黄金期までをプロデュースしたジェームスWガルシオもその中の一人(彼の所有していたギターアンプがお目当てだったという節あり・・・)。
ローウェル・ジョージも在籍していたのですが、彼のドラッグ癖は当時から相当のものだったらしく、バンド内におけるそのような行為に対してはクリーンを貫いていたザッパにとっては最も忌み嫌う存在。
で、「薬をやめられないのなら自身のバンドを結成しなさい」と提言。
1969年、ザッパの元をローウェルが同僚のロイ・エストラーダと共に去り2人が中心となってロスアンジェルスで結成したのがリトル・フィートです。
正直、商業的に大成功したバンドとは言いにくいですが、その奥行きあるアメリカン・ルーツ・ミュージックのファン層は徐々に拡大。
ファンク、ブルース、カントリー、ジャズ、フュージョン、スワンプ、ブギウギ、サザンなどのジャンルの壁を超越して取り込んだロックミュージックと、一種独特癖のあるリズムやグルーブは名だたるプロのミュージシャン達をも虜にします。
キーボードのビル・ペインはじめメンバー達の巧みなテクニックにのって繰り出されるリーダー、ローウェルの渋みあるボーカルと最大の魅力でもあるスライドギターは驚愕そのもの。
ただ、ローウエルの麻薬依存症は益々悪化の一途をたどり、メンバー達との音楽性の食い違いも勃発。
ローウェルはソロ・アルバムを発表後、バンドの解散を宣言。その直後に心臓発作によって惜しまれつつ他界しました。
残されたメンバー達で、未発表作のリリース、再結成を経てアルバム製作、新たなメンバー達を迎えて現在も活動続行中です。
さて、1978年ローウェル在籍時、唯一の来日公演が行われています。
その際に同行したのがタワー・オブ・パワー・ホーンズ!
もちろん名盤の誉れ高いライブアルバム「ウエイティング・フォー・コロンブス」でもその音が聞くことができます。
それ以外にも多くのスタジオ盤でTOPホーンズは参加していますよ。ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースに負けないくらいの関わり合いでして、セッションサウンド貢献度大です。
ちなみに私はドラマーのリッチー・ヘイワードを2度観ています。場所は東京中野サンプラザと郵便貯金ホール。
なんとレッド・ツエッペリンのボーカリスト、ロバート・プラントの初ソロ来日公演がそれです。
当初、プロデュースとドラマーで行動を共にしていたフィル・コリンズが来るものと思っていたのですが、超売れっ子でハードスケジュールのフィルにそれは無理というもの。
そこでリッチーに白羽の矢が当たったというわけです。私は最初「え!?リトル・フィートのリッチー??彼が見られるのはとても嬉しいけど・・・」と違和感を感じてもいましたが、いざ蓋を開けてみたらば素晴らしいドラミングであのクセモノ連中をグイグイとものの見事に牽引していました。さすがです。そのまま、プラントのアルバムレコーディングにも参加。
他にも多くのセッションにも参加していましたがリトル・フィートの再結成に合流します。
残念ながら2010年8月12日、肝臓ガンにより死去、享年64歳でした。
私事ながら、リトル・フィートを知ったのは高校時代。ケンが最高傑作「ディキシー・チキン」LPを1973年にプレゼントしてくれたのです。
両人共にまったくこのバンドの知識はゼロ。
ヒット曲がないのだから当然といえば当然ですが、日本でこのバンドが紹介されたのもこの頃なのです。
ユニークなタイトルと一度観たら忘れられないジャケットデザイン(故ネオン・パークの作。これはその後シリーズ化)。
最初に針を落とした時には(!!)よくわからなかったのですが、連日聞くうちにいつのまにか病み付き、リトル・フィートの虜になってしまいその後、彼等のほとんどのソフトがコレクションの棚に並ぶ事になったのです。ケンから受け取った1枚のレコードで(捨て曲なし)グッとロックの世界が拡張されたのです。ありがとう!
注:TOPホーンズは「ディキシー・チキン」では吹いていません。よって写真からは外しています。
ちなみにバンド名のリトル・フィートは、ザッパのマザーズ時代にメンバーのドラマー、ジミー・カール・ブラックから「それにしてもお前の足はちっちぇえなあ~」と言われたことからきているそうです。
そこはコダワリのひねくれモノ、ローウェルらしくビートルズの「BEAT」「BEET」にかけて一文字違いの「FEAT」「FEET」、つまりは「小さな足」から「小さな偉業」と名乗るのです。
しかし彼の残した功績は今もロック史に燦然と耀き続けていますがね!