【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【報道特集2023.4.1】ヴァルプルギスの夜に松明

2023-04-01 23:40:15 | 社会思想史ノート
 四月、春の訪れ

きょうから社会人となる若い世代に、幸多かれと願う。
暖かな春四月のいちにちだった。エイプリル・フールはこどものころの話題だった。嘘が多すぎて冗談も誤解されやすい世の中になったのだろうか。

 「少子化」

「少子化」が課題の現代。世界の歴史には滅亡してゆく国家もあった。国家がしっかりした統治システムと社会が安定した人心であることも同時に大事だ。若者が安心して育児出産保育教育生活などができにくいようならば、無理を強いるよりも世の中を改善することが先だ。

 フリーランスの若者世代

フリーランスは雇用保険も労働基準法も適用されない、若者の言葉を聴いて胸が痛い。35歳の配送ドライバーの言葉には、世間への失意を感じる。愛する恋人と食事の会話に、「こんな頑張っているのにこれしかもらえない」30歳の女性の素直な言葉と会話に今の日本社会がどんな社会か知る想いだ。

 「少子化」の日本、韓国の取り組

韓国でも日本に似て出生率は0.78%で低い。就職難や受験競争。住居の物価は高い水準。子どもをもつことが様々な弊害のために諦め、こどもたちが熾烈な競争になっていくことへの不幸を背負わせたくない・・韓国も日本も課題は大きい。韓国には子育て世帯向け援助がある。きめ細かな育児と出産への手当がある。見ていて、子育て援助のサービスが現実的なケアとなっていると思った。

 福祉国家が取り組む「少子化」対策

フランスやスウエーデンでは、高等教育を受ける費用が極めて低く、高等教育負担を減らすことで、子どもの教育費が高すぎて出産に不安をもつ世代をきめ細かく対応している。若者を取り巻く周辺の負担軽減によって外国では対応している。キャスターたちの実体験の話に共感をもつ。

 「中国人画家王希奇さんが描く引揚者の苦難」

中国人画家王希奇さんが描く大きな作品には、満州事変以降日本人が渡った。敗戦と引揚しようとした「満蒙開拓団」が、ソ連軍によって暴行を受けた歴史。その事実への衝撃が描かれている。丸木俊夫妻の絵画と似ている。日下部キャスターが敗戦直後に政府が出した通達。その一節に「海外残留邦人は現地になるべく定着すべし」。

日本にはうけいれる余地がないから、という思惑には、弱者切り捨ての政策がある。いまも弱者切り捨ての政府の政策は続いている。

国語教育学者、故江口季好氏を支えた妻江口皐月さんの8月15日 ~補充NHKBS1番組のご案内~

2021-08-19 15:11:14 | 社会思想史ノート

国語教育学者、故江口季好氏を支えた妻江口皐月さんの8月15日
~補充NHKBS1番組のご案内~

【序にかえて】
 90歳代の江口皐月さんは、江口季好氏が亡くなられた後も、江口氏の論文や遺稿を整理し、多くの教育学者、教師などへこまめに紹介する一方、成人に達したお子さんたちお孫さんたちに慕われている。
 以下のインタビュー記事は、別に記載するNHKBS番組で番組中に江口皐月さんの回想が使われるのでぜひ見てほしいという手紙とご案内を横山百合子さん、三上晶子さんおふたりからいただいた。以前一度江口宅をおうかがいした時にお二人は教師や都教育委員会勤務とうろおぼえに聞いたように思うが定かではない。

【昭和20年8月15日 天皇の終戦の詔勅】

―どこで聞きましたか?
当時私(江口皐月)は佐賀県小城市西小路町にいました。小さな飛行機製作工場の庭です。
主として飛行機の羽根を作っていました。私は二十歳。志願して工員になったが、製作の材料・部品が無くなり羽根を止める鋲を数えていた。

―この工場の建物は今日どうなっていますか?
私にはわかりません。

―終戦の詔勅を聞いた時にどんな気持ちでしたか?
 天皇がじきじきに放送されると聞き、これは大変なことだと緊張していた。ラジオ放送
に雑音が多くはっきりと聞こえなかった。
 最初にアナウンサーが「かしこき あたりに おかれましては」といいだしたので、ヴぃっくりして気を付けの姿勢になった。
天皇らしい声の中に「耐えがたきを耐え しのびがたきをしのび」という言葉だけがきこえたので、ああ これは戦争が終わったのかなあと直感した。
 しかしかんたんに終わらないだろうとも考えた。私は暑さに耐えながら、しばらくじっと
立っていた。

―まわりの様子はどうでしたか?

 工場の中にいた十人位の男女工員もあまり声を出す人もなく、みんなぼうっと立っていた。しばらくして工場の主任がでてきて弱々しい態度を今日はこれで帰って良い、あとのことは明日知らせますと告げた。
 私ははいていた杉下駄の鼻緒がゆるんでいたので、はき直して工場の外の道路に出た。
すると突然空の方から拡声器がきこえてきた。同時に小さなビラが無数にひらひら降りてきた。
 拡声器の声はとても大きくはっきり聞こえた。
「日本のみなさん 戦争は終わりました。安心してお家にお帰りください」
私はどうしてこのように計画的にことが進むのか。こわい気持ちでその小さなビラを拾っ
た。その時。近くにいた警察官らしい人が「ひろっては駄目だ」とどなった。
 私はあわててビラを放したが、すぐに後悔した。一枚だけならすぐに隠して持って帰れたのに。ビラを見ればいろいろわかしているのに・・・・・・七十年経過した今でも後h
している。
 工場の匂い側は小城町の中学校と女学校があるので、そこから生徒たちがぞろぞろ出てきた。
―やっぱり負けたんだ。
―先生たちは泣いてたねえ
―切腹する人もいるかな、  そんなことはしないよ。
 急に、にぎやかになったが、私はだまったまま町の駅の方に歩いた。戦争は負けたとはっきりしたのに・・・  私は涙は出なかった。
 小城駅は単線列車の通る駅なので、唐津線という一本線が通っている
その日も3輌編成の列車が停車したが、乗客も少なく無言の人が多く、中学生らしい男の
子が泣き顔で乗っていた。
 とにかく、家に帰りたい!!
その気分で私は夕方近い空をながめていた。

―8月の終わりまでの自分をふくめた人々の様子は?
 8月15日の夕方、父母が待っていた家も大変だった。信心深い母は仏壇にご灯明をつけて拝んでいた元小学校の教員だった父はしっかりと上着を着て姿勢正しく私に「天皇陛下の放送をきいたか」とたずねた。
 そして座敷の方に向かってていねいにおじぎして言った。
「ありがたいことだ。天皇陛下が国民を代表して終戦を知らせてくださったのだ。このことを忘れては、いけないよ」とおごそかな声で私に言い聞かせた。

 このあと母が
「こんなこともあるかと思うて大切な白米を五合ばかりかくしていたので、今夜はそれをたいて食べようよ」と言った。
 それまで神妙にしていた小学生の弟2人が、急に
「やったぁ、うれしかね」と飛び上がって喜んだ .
私は姉らしく、
「これでおしまいよ。あとはお米はないかも「しれない」と弟たちをたしなめた。

 8月16日以降は家の前の県道を知らない人がぞろぞろ歩くようになった。以後長崎方面の人も逃げてきた。
みんなおびえたような青白い顔だった。

「おそろしかよ。
 新型爆弾が落ちた
 何万人の人が死んだか
 わからんよ」

 ふるえながら、8月9日のことを告げた。
佐賀と長崎は隣りの県で近いのに、私たちは知らなかったのだった。 



 新聞は「新型爆弾」の被害は軽微なり  とだけ報じていた。
 広島に8月6日原爆が落ちたと知ったのは、ずっと先の昭和21年すぎだった。




補充:江口皐月さんら当時の人々の生きた証しとして以下の番組が放映されます
ぜひご覧くださるようお願い申しあげます。

【NHK BS1】
番組名 マッカーサ―が来るまでに、何が起きていたのか?
    日本人、逆転への“戦後復興”
放送日時    8月21日(土)午後9時~9時49分
製作協力     テレビ朝日映像
江口皐月さんの甥にあたるテレビ朝日第一制作部勤務小柳健太さんを中心に制作された番組です。戦争の愚かさと反戦を語り続け、今年初めに亡くなられた作家半藤一利氏を追悼する番組です。
人々が敗戦という歴史的転換点をどう乗り越えてきたかを探ります。戦後最大の危機のコロナ禍と向き合っていく視点を見出したいという制作の主眼であるそうです。

  鈴木正『戦後精神の探訪』を読む

2020-12-30 23:59:00 | 社会思想史ノート
2019年12月30日 | 社会思想史ノート

 思想史家鈴木正の労作である。『書評拾集 日本近現代思想の諸相』『月日拾集 日本近現代思想の群像』につぐ戦後日本における思想史の探究である。
 誠実な実践家であった鈴木は、肺結核に罹患してやむなき静養につとめる。唯物論研究会と思想の科学研究会の研究会に所属して、今までに思想家論に力点を置き、社会思想史の研鑽に努めてきた。
 私が氏の存在に着目したのは、「岩田義道論」や、古在由重とご本人との対談など数回に及ぶ労作を掲載した季刊『現代と思想』においてである。この季刊雑誌は、一九七〇年から十年間にわたって青木書店から、江口十四一編集長のもとに刊行され続けた思想哲学雑誌である。統一戦線の思想的基盤を形成することをめざして編集された。一九七〇年代の革新運動の知的思想的母胎のひとつとよんでも大げさではない。そこで鈴木正の言論に感銘を受けて、以降氏の著作を店頭などで見つめると必ずといっていいくらいに購読したり図書館で借りたりして読み続けてきた。

 本書は二〇〇五年三月が初版である。副題として「日本が凝り固まらないために」と記されている。歴史、人物、思想の三章から成立している。そのいずれも独創的な着眼点から思想を見つめ、堅苦しくない語り口の文体で、新鮮な思想史学を読者に提供している。中でも私には、第二章の「人物」編が強く印象に残った。
 第二章で取り上げられている人物は、のべ二十人。「思想の科学研究会」における最良の方法論を駆使して、著名な思想家に偏らず、草の根の無名な人々に着目している。我が国の民衆史において継承するに値する真価を腑分けしてる。読み進むにつれてひきこまれてゆく。
 梅本克己、芝田進午、古在由重、尾崎秀實、小林トミ、中江兆民研究者、安藤昌益研究者、白鳥邦夫、栗木安延、石堂清倫、家永三郎、藤田省三、土方和雄、江口圭一、高畠通敏などの広範で多岐にわたる人物についての叙述は、鈴木正ならではのものである。
 中には、日本共産党の側にいるひと、日本共産党から追われたひとなどひとつの視点から見たら、相反するように見える人物選択には、鈴木の政治と思想に対する生き方と着眼点の見事さをうかがい知ることができる。誰でもなんでもよしとする、というのではない。同時代にどのように生きていたかの人間的な姿のありようを見極めて、多面的な人間像として把握するとともに、その矛盾や実態についてしっかりと見極めている。
 古在由重は、核廃絶問題に取り組み、原水禁と原水協との統一行動における大衆運動の実践をめぐり、日本共産党と対立した結果、除籍された。芝田進午は、胆管がんでご逝去されて偲ぶ会の席上、友人代表として挨拶に立った上田耕一郎から永年党員と賞賛された。日本共産党からすれば、一方は好ましい存在として、他方は党の方針と異なる行動をとった存在として、両者は百八十度異なる価値付けをされるかも知れない。
 だが、芝田は古在由重を戸坂潤とともに、戦前に独創的な世界レベルの唯物論哲学を築き上げた実践的唯物論者として尊敬していた。
 鈴木正は、古在由重が戦時中に日本共産党員がすべて獄中につながれ、党が壊滅した後で、京浜地域の工場労働者たちの秘密学習会のチューターとして、実質的な党活動を行ったことを紹介している。同時に、中国共産党が日本からの侵略下で、激しい弾圧に対して「偽装転向」として転向上申書を書いて獄中から出て、即刻反戦活動を行ったことを述べている。その偽装転向は、中国共産党の政治的高等戦略として、中央指導部からだされた極秘方針として広く浸透していった。古在由重は、二度転向の上申書を提出している。ところが獄から出て、古在は即刻コミンテルンのスパイとして逮捕されていた尾崎秀實を釈放するために、弁護士を探すことに奔走し、弁護士を探し出すことに成功した。結果は、尾崎秀實は釈放されることはあたわずに、日本人共産主義者として唯一死刑に処された。鈴木正は、古在の実質的な抵抗としての反戦党活動の意義を、戦時下の中国共産党の戦略と照らし合わせて意義を讃えている。
 また芝田進午についても、「私にとって芝田さんはフェアで寛容な人だった。」という書き出しで始まり、「小宮山量平氏(元理論社会長)がいう左翼に多い”分裂体質”とはちがった芝田さんのありし日の面影を偲びながら、つくづくもっと生きて活躍してほしかったと思う。」と結んでいる。小宮山量平は、つい最近2012年4月13日に95才の長寿ながら老衰でご逝去された。鈴木正は、本書では直接論じてはいないけれど、小宮山量平の「統一体質」という思想の気風で共通するものをお互いに感じている。鈴木と渡辺雅男と二人で小宮山から聴き取る対談集を『戦後精神の行くえ』(こぶし書房刊)として出版している。小宮山量平については、いずれ機会を改めてその比類なき文化形成の労作ぶりについて検証したい。
 梅本克己は主体的唯物論として、石堂清倫は構造改革派として、藤田省三も政治思想的問題でそれぞれ日本共産党からは除名や除籍されている。鈴木正は、この三者をレッテル貼りで済ますようなことはしない。とくに石堂清倫は、グラムシを日本に紹介した先駆者である。いわゆる運動戦に対置して陣地戦をグラムシは提起して、先進的資本主義国での革命の論理を提起した石堂の卓越さを、惜しむことなく讃える。そして、石堂清倫と同郷で先輩の中野重治をも視野に入れて論じている。藤田省三についても、丸山眞男の政治学を継承した政治思想史の碩学として、藤田の学問的人間的豊かさを描き出している。 
 戦後直後に「主体性論争」の一方となる梅本克己についても、「戦後活躍した哲学者の中でも最も好きな一人である」と述べて、懐かしく梅本の、大衆につながる日常感覚の確かさと民族・日本人への深い関心の二点を特筆している。主体性論については、先に挙げた小宮山量平が、戦後直後に理論社から『季刊理論』を出版して、初期の黒田貫一をいちはやく逸材として発掘して、表現の場を与えている。黒田は、日本共産党と袂をわかち、革命的共産主義者同盟を組織して、革共同が分裂してからはいわゆる革マル派の理論的指導者として注目された。小宮山は日本共産党とも革共同とも無縁であったが、党派にとらわれず、納得したり共鳴したりする点では広く胸襟を開いて対話を行っている。その思想的体質は、小宮山量平と鈴木正とに著しく共通する点で、後の世代が継承するべき大切な事柄と考える。

 鈴木をしてこのように戦後史における知識人を、近現代思想史上に位置づけて的確に把握させている基盤や原動力はなになのか?そのことが第一章の「歴史」、第三章の「思想」を読むと、はっきりとわかる。鈴木は、名も無き民衆の生活知と賢い理性とを大切にしている。そのことが、歴史上の無名な民衆や歴史の奥底で眠る重要な存在を発掘している。
 「アテルイを知っていますか」という第一章の節では、桓武天皇の命を承けて東北地域「制圧」のために派遣された坂上田村麻呂によって滅ぼされた側の蝦夷の大将アテルイについて言い及んでいる。この節を読むと、歴史をどう見るかということを単眼でなく、複眼で見ることの鈴木の視座が明晰に伝わってくる。この見識も、2000年に京都清水寺の境内の墓碑の発見から始まっている。何気ない事物を虚心坦懐に見つめ、そこから思想史学を構築してきた鈴木の学問的方法論に、氏が青年の頃から学んできた思想の科学研究会での新たな学問的アプローチが体現されている。限られた紙数では語り尽くせない氏の、戦後史に題材をとった豊かな学問的発掘が本書には展開されている。
 副題の「日本が凝り固まらないために」が同時に副題とされている第一章中の「敗走の訓練と散沙の民」という文章が象徴的である。森毅が、朝日新聞の対談記事で、
「昔の軍事教練で、敗走の訓練を覚えてます。隊列を組むな、バラバラで逃げろといわれた。・・・・・固まって逃げたら一斉にやられる。今、経済は『第二の敗戦』といわれてるでしょ。そんな時、みんな一緒のことやってたら、終わりです。」と述べていることに思いを寄せる。鈴木は、こうも述べている。
「メールをすぐ送るとか、ワープロで打った習作か草稿程度の文章を他人(ひと)に見せるとか、近ごろははき出すことが多すぎてどうも念慮が足りない。どうせ大した調査研究でないから、あとで盗作や剽窃といった心配も一向にないらしい。じっと息を懲らさないと表現は彫琢できないのに。携帯電話も同じで、ゆっくりする時間を奪う。ある友人は、恋人の間ではケイタイは監視機能を果たす凶器だ、とくさしていた」。
 この節には、じっくりと考え、思想を熟成するような営みを軽んじて、電脳「文化」によって文化がculture「耕される」ものではなく、多機能映像機器の駆使としてしか扱われていない文明論的危機の表明が提起されている。さらに、孫文が中国の民衆を「散沙の民」と称したことと絡めての重要な指摘がなされている。こちらは直接これから読書なされるかたのために省略する。

本書に収められた鈴木正の論文は、名古屋哲学研究会の機関誌『哲学と現代』や労働運動の機関誌『人民の力』に執筆した論文が多い。名古屋をはじめとする中京文化圏は、名古屋大学哲学科の古在由重、真下信一や日本福祉大学の嶋田豊、福田静夫など有数の哲学者の足跡がある。法学の長谷川正安、社会学の本田喜代治、政治学の田口富久治などの学者の名が思い浮かぶ。唯物論研究協会に結集する哲学者の中にいる鈴木は、同時に鶴見俊輔や久野収などの思想の科学研究会でも今も研究を続けていらっしゃる。二つのフィールドが鈴木の学問をいっそう広く深いものとしている。
 叙述の方法としては、鈴木は、歴史や人物に依拠しながら、思想について思想家を通じて論じている。何回か読む内にはっとした。叙述は読者が読みやすいような語り口となっ
ている。しかし、研究の方法としては、かなり構造的な範疇と歴史性とを踏まえて研究を進められていらっしゃる。そのことは、第一章の歴史編を読み、論じられている内容に注意すると見えてくる。その点を明確にしたいと考えたが、評者の力に余る作業なので中途で挫折した。いくつか事例をあげることで代えたい。
 たとえば、「日中友好に尽くした人々」は、副題として「政治家、学者、芸能人から無名な一市民に至るまで」と書かれている。日中友好という歴史的事業がどのような担われ方をしたか、その主体と運動に着眼した構想をを示す典型と思う。また、「老人よ 哲学に戻れ」や「『愛』『反戦』の背後にあるもの それは人間」「孤高を嫌う現代人」などのタイトルに、主題と着眼点、思想史学の方法などが明晰に示されている。

 最後にひとつ。第一章「歴史」の中の『「愛」「反戦」の背後にあるもの それは人間』の節である。著者は、最後をこう結んでいる。
「愛の神エロスと人間男女間の好色的(エロティック)な愛の境界線を引き離してはいけない。それが平和を愛する人間の知恵である。」と。
 真面目である人、潔癖な正義感のもち主が、通俗のなかの光るものまで卑属とさげすみ、汚れると感じて、根っからそういうものをバカにして目も向けないとしたら、それは独善となってさまざまな多くの人と協力して戦争反対の実をとることはできない、鈴木はそう主張する。その主張には私は賛成する。たとえば休刊となった月刊『噂の真相』の健闘がある。編集者・作家の岡留安則は、いまは沖縄に住んでジャーナリスト活動をしている。その岡留が送り出した『噂の真相』は、一方ではスキャンダルやエロティックな記事も共存していた。スキャンダル記事は、当時の自民党政治家など権力者を撃った。本多勝一氏とは裁判にいたるなどさいごは犬猿の仲となったが、同じ週刊金曜日の佐高信などからはそのすぐれた報道感覚を評価されてきた。岡留の場合には、鈴木の主張が的確にあてはまり私にも理解できる。しかし、その根拠のひとつとしてヌードモデルとしてメッセージ入りの写真集などを発売しているインリン・オブ・ショイトイの事例があげられているる。週刊現代のグラビアの写真のそばに、彼女自らによって添えられたメッセージがある。
「愛 国家を捨て、個人のために生きよう。暴力を捨て、理性の為に生きよう。人間なら生存の為に出来るはずだ。」「非戦 平和を願うことは、ボケでも、理想主義でもない。平和は対話努力で築くものであり、武力・軍事同盟で生まれる事はあり得ない。」
 正直私には、迷いがある。若い女性のインリン・オブ・ショイトイについては知っているが、著者の所論と彼女の芸能活動とは接続するものなのか。現在東京新聞の夕刊で、瀬戸内寂聴が『この道』と題する長編のルポルタージュを執筆している。そこでは大杉栄と伊藤野枝のやりとりをはじめ、性愛の奔放な実際と人間史を描き出している。エロスは人間の解放と分かちがたい。けれど、たとえば沖縄返還に関する密約を暴き出した毎日新聞の西山記者は、外務省の女性事務官との間を「情を通じて」いう偏見におもねる謀略で失墜させられて、長年経ってアメリカ機密外交文書が公開されるまで辛酸を舐める苦闘に陥った。そのことは山崎豊子の小説『運命の人』とそのTBSテレビドラマ化で広く知られている。戦前の非合法化の日本共産党の党員とハウスキーパーの女性たちとの関係は、戦後に厳しく世間で冷たい目にさらされた。鈴木正の展開の八割には、納得しながらも、生命の再生産過程に位置する恋愛や婚姻、性行為や出産など広義の「性」は、鈴木の結論とどのように構造化されるものか、私には読み下せない残り二割の課題として残された。          (農山漁村文化協会人間選書 2005年 定価1950円)

民主的立憲政権樹立の探求(下) 櫻井智志

2020-09-11 15:22:29 | 社会思想史ノート
構成
❶2014年の提言(上)・・・既出
❷2020年の実態(中)・・・既出
❸民主的立憲政権樹立の構想(下)・・今回

Ⅲ:民主的立憲政権樹立の具体的全体像 

➀安倍政権の終焉と「安倍継承」政権の内実
広原盛明氏が分析し予想した安倍政権放棄から菅義偉氏への権力移譲の指摘は鋭い。以下、【広原盛明のつれづれ日記 】2020-09-08より転載。
<転載開始>
 安倍首相の辞任後、各社の世論調査で内閣支持率が軒並み上昇していることに驚いている。共同通信(8月29、30日実施)の内閣支持率は56.9%、僅か1週間前調査(8月22、23日実施)の36.0%から20.9ポイント急上昇した。読売新聞(9月4~6日実施)も52%と前回調査(8月7~9日)の37%から15ポイント上昇し、不支持率は38%へ16ポイント低下した。
 政党支持率も読売調査では自民党が41%(前回33%)に上昇し、立憲民主党は4%(同5%)にとどまった。また、総裁選に立候補表明した3氏のうち次の首相にふさわしい人としては菅官房長官が46%でトップとなり、石破元幹事長が33%、岸田政調会長が9%となった。自民党は政党支持率が好調なことから、党内では早期の衆院解散論も浮上しており、菅官房長官も早期解散を否定していない。

 それにしてもあれほどまで支持率が低下し、末期的症状を呈していた安倍内閣がなぜいま思い出したように支持されるのか。読売調査の男女別集計によれば、男性56%(前回44%)、女性49%(同31%)となり、とくに女性の上昇幅が18ポイントと大きい。年代別でも全ての年代で支持が不支持を上回ったという。男女、年代を問わず支持率がこれほど高いのはなぜだろうか。読売はその理由を、安倍内閣の7年8カ月の実績を「評価する」74%が「評価しない」24%を大きく上回ったことを挙げているが、私は必ずしもそうは思わない。

 いろんな解釈が可能だと思うが、私は安倍首相が持病の難病悪化を前面に出して〝引退劇〟を演出したことがその基本的な原因だと見ている。情緒的雰囲気に弱い日本人の国民性が安倍首相への個人的な同情心を掻き立て、長期政権に対する評価を冷静に分析することなく「負の遺産」も含めて全てを水に流してしまったのである。持病の難病を押して「国家国民のため全身全霊を傾けてきた」という言葉がメディアを通して増幅され、「ご苦労様」とのねぎらいの感情が全国的に広がったのであろう。そうでなければ、男女、年代を問わずこれだけの高い支持率が出るはずがない。

 この〝引退劇〟の演出は、後継者レースにも決定的な影響を与えている。自民党総裁選挙で目下独走中の菅官房長官は、これまではほとんど新人に近い存在で知名度もそれほど高くなかった。昨年9月から今年8月までの8回の読売世論調査は、自民党の中から「次の首相に相応しい人」を選んでいるが、菅氏の支持はいつも3~5%程度で石破氏や小泉氏を大きく下回っていた。それが今回の調査では、菅氏46%、石破氏33%、岸田氏9%となり、あっという間に次期首相候補のトップに躍り出たのである。

 菅官房長官は安倍政権の主軸として数々の汚れ仕事をこなし、「負の遺産」を一手に引き受けてきた前政権の責任者であることは誰もが知っている。にもかかわらず、なぜ菅氏が次期首相候補の一番手となり、しかも安倍政権の政策をそのまま継承すると言えるのか訳が分からない。しかし、これも安倍首相が「志半ば」にして引退するとの演出が功を奏して、安倍政権のやり残した政策課題を継ぐのは首相を支えてきた菅氏が一番との「大義名分」がつくられたと思えば、納得がいく。

 ただ、菅内閣が安倍政権とは何ら変わらないというのでは、さすがに新味が出せずに短命内閣で終わることになる。そこで打ち出されたのが「菅=たたき上げの政治家」というキャッチコピーだ。漢字もろくに読めない人物や官僚作文をなぞるだけの人物が、ただ世襲政治家というだけで首相になることの弊害については多くの国民が実感(痛感)している。だからこそ菅氏が「安倍3代」に代表される世襲政治から脱却するためには、政策が変えられない以上、当分は「たたき上げ」の泥臭いイメージで勝負するほかはない。

 しかし、菅氏の本質は冷酷極まりない権力政治が真骨頂であり、遠からずしてその本性は遺憾なく発揮されるだろう。安倍政権以上に官僚政治が徹底され、国会と国民を軽視する権威主義が政府全体に貫徹されるだろう。衆院解散は間近いのではないか。菅内閣の本性が暴露される前に本格政権を構築したい―、これが菅氏の政治戦略だからである。
<転載終了>
 一説では衆院解散総選挙は10月25日の前後と聞く。

➁ 小生の視角~【国民統一戦線への展望私案】
 ❶: 私は、日本共産党はまず日本共産党として結束し発展すればよいと考えるようになった。革新統一戦線の時は社会党と共産党がほぼ互角か共産党の議席が少ない状態だった。いま社会党にあたる勢力が、社民党、新社会党、緑の党、みどりの風、社会大衆党などの「護憲リベラル」結集勢力と思う。一党にまとまらなくとも、イタリア版オリーブの木形式でもよい。「護憲リベラル」として結集すること。そのうえで日本共産党と提携したらどうか。その提携に一緒に戦える保守政党人なども結集していく。政党政治が今の日本の議会制民主主義の根幹だが、「議会制独裁主義」が広がっているいま、国民的規模での統一戦線を3つの段階を考えて構築したらどうだろうか。

 ❷: 21世紀の今日に、統一戦線を結成するためには、日本共産党においての組織論の民主集中制は継承され検証されてきたものであるけれども、国民ないし日本に定住する民衆全般にわたる組織論としては、「円卓の論理」「フォーラムの 論理」がふさわしい。統一戦線のテーブルにつく全ての個人と集団が対等に意見を述べ、行動の決定においても、少数派の意見が行動に反映される必要がある。諸個人は自らの見解を披歴するとともに、他者の意見を十二分にわきまえて納得し、行動においてはそれぞれが他者の存在を認めながら、一致点を追求する必要がある。統一戦線が成立するためには、積極的に相手の存在と見解とを尊重して吸収できるだけの確固とした人格が、成員に形成されていなければならない。

③新党『立憲民主党』の展開

立憲民主党と国民民主党はかなりのメンバーが合流し、衆院106名参院43名の大規模な政党となった。
代表選
枝野幸男 107票
泉 健太  42票
 党名選挙
立憲民主党 94票 注目すべきは、新代表となった枝野幸男氏の会見内容である。
❶消費税を減税し時限的に0%も合意できる
*この消費税減税は枝野氏が都知事選で山本太郎氏に候補擁立を働きかけ最後に決裂した課題であった。れいわ新選組が「市民と野党」の共闘に加わる下地となろう。
❷沖縄・辺野古の新基地建設はまず工事を止める。その上で粘り強くアメリカと交渉する。
❸自助や過度の自己責任を押し付ける新自由主義的社会を変える。
❹原子力エネルギーに依存しない。使用済み核燃料の問題解決は着実に進める。
❺与野党合意に基づき進めるなら、臨時国会召集や内閣解散権を議論したい。
*改憲と護憲とそうとう議論がわれるかも知れない。現憲法の完全実施がなされなければ、裁判中の憲法案件は易きに就く。
 
④折れない日本共産党の価値
「市民と野党」の共闘を愚直にすじを通して進めてきた。だが、自民党総裁選の3候補を安倍路線の継承ときめつけたり、政府の福祉予算削減による保健所の同類に国立感染研を含めている。
大筋は賛成だが、「国立予研」」の新宿区戸山・早大や住宅街に移転強行し、移転後は感染度が高いウイルスやP4施設をおこなおうと目論み、東村山市にある感染研分舎にP4施設実験稼働に動きだしている。戸山住民が芝田進午氏を団長として最高裁まで争い敗訴した。国立感染研内部にも科学者会議の会員や共産党員がいるが、生前に聞いた芝田氏によれば、感染研内部には芝田氏らの環境保全運動に反対する党員もいる。バイオ時代の象徴的な問題の所在をわきまえず、731石井細菌部隊と直接つながる国立感染研の危険な問題を指摘すると、「デマに近い」と公的に断言することに、日本共産党の一側面を見る。「共産党だから正しい」のではない。「日本共産党は正しさを追求する勇気と努力を怠らない政党だ」と発展すべきだ。

 全国の党員は、差別と偏見に屈せず草の根から日常的に実践している。その存在は十二分に信頼されている。

➄個性ある市民と持続する市民運動

ケース1 山本太郎
現在2020年において、東京都知事選に挑んだ宇都宮健児・山本太郎両氏の今までの市民として意欲的な実践は特記に値する。山本太郎氏が2019参院選に、
日本共産党大阪選挙区の辰己幸太郎候補を宣伝カーに同乗しマイクで語り続けた応援のスピーチは、他の共産党員のスピーチよりも迫力があった。山本氏は神奈川選と選挙区でも共産党あさか由香候補を前川喜平氏・山口二郎氏と街頭で応援演説をした。それらの事実からすれば、2020都知事選での山本太郎氏出馬を野党分断だと決めつける一部宇都宮候補支援者の批判は背景もわきまえていない。
 立民党は山本太郎氏に都知事選出馬を促し続けた。先立つ京都市長選の真っ最中からの働きかけなので、市長選応援をないがしろにしていると顰蹙をかった。それでもコロナ感染症の急激な拡大で、サラリーマンがホームレスに陥り、窮乏化する現実を見た山本氏は、実際はれいわ新選組代表として衆院選準備に取り組んでいたがそれを停止し、都民の暮らしを救援するために立民党枝野代表ら首脳部と交渉に入った。山本氏は従来消費税を廃止する政策だったが、5%説を柱にした。相手は妥協しなかった。もうひとつ、衆院選準備との兼ね合いで「れいわ東京」候補と申し込んだ。だが立民党側は「無所属」を譲らなかった。もう告示直前だったので山本太郎氏は単独で立候補に臨んだ。なお以上の記述は直接に山本氏の選挙街頭演説で傍聴した内容である。

ケース2  宇都宮健児

もう一方の宇都宮健児候補は立候補を非難するどころかそれぞれ政策論争で競いあいましょうと応じて、一度も山本候補を選挙期間中も選挙後も非難も批判もしなかった。ここに宇都宮健児氏の市民民主主義ポリシーがあった。

今までの野党共闘の候補模索と擁立、という図式ではない。宇都宮健児氏は市民の要請に応え、ひとりでも闘う意志のもと立候補した。結果得票は出馬した過去2回よりも低かったけれど、宇都宮支持陣営も宇都宮氏個人も選挙後充実感を覚えていたとみられる。その点で、最初から宇都宮氏を支えてきた海渡雄一氏や内田聖子氏、谷川智行氏(医師日本共産党衆院選予定候補)などが果たした市民選対の意義は深いものがある。



➄ 民主的立憲政権を樹立するための変革主体形成

 今の情勢のもとでは、民主的立憲政権を樹立することは困難である。それは野党側の個々人が、烏合の衆と似た不安定さをもっていて、個人として日本の改善にとり、自己の思考や感性に多数依存、空気に続く流される風潮が多いことが主な原因である。
たとえば沖縄で平和運動センター続く流される代表の山城博治、ひとりで闘うことを決めて意を決して都知事選に出馬した宇都宮健児、山本太郎、そのような人格像が求められている。
また国民民主党の馬淵澄夫元国土交通相は、東京都知事選(7月5日投開票)に立候補したれいわ新選組の山本太郎代表の街頭演説に駆け付け、支持を表明した。国民は自主投票を決めているが、党所属議員が山本氏の応援に入るのは馬淵氏ひとりだった。組織に自分なりの信念を表明するくらいの主体がなければ、あっと言う間に自民党入りした議員もいた。

⑥ 民主的立憲政権の樹立
A:
衆議院選挙は目前にある。共通公約は、
❶コロナ対策
人間尊重の低下層生活者にあたたかな救援施策の共同具体策提示を
❷消費税
最低でもこの2つは国民に必要だ。


B:
野党と市民の共同行動やコーヒータイムの小演説と人的交流を
都道府県単位 市区町村単位   地域単位

 菅義偉氏が首相に当選しようがしまいが,野党と市民は安倍政権の終焉を見た。「安倍的政権」を阻止するために、今が動くときだ。
<三部作完>

民主的立憲政権樹立の探求(中) 櫻井智志

2020-08-27 19:52:46 | 社会思想史ノート
構成
❶2014年の提言(上)・・・前回
❷2020年の実態(中)・・・今回
❸民主的立憲政権樹立の構想(下)

Ⅱ:2020年の実態~自公(維)政権に抵抗する勢力の実態と結集 



➀ 前回Ⅰの要諦
 A:【2014年の提言~国民統一戦線への展望粗案】
 私は、日本共産党はまず日本共産党として結束し発展すればよいと考えるようになった。革新統一戦線の時は社会党と共産党がほぼ互角か共産党の議席が少ない状態だった。いま社会党にあたる勢力が、社民党、新社会党、緑の党、みどりの風、社会大衆党などの「護憲リベラル」結集勢力と思う。一党にまとまらなくとも、イタリア版オリーブの木形式でもよい。「護憲リベラル」として結集すること。そのうえで日本共産党と提携したらどうか。その提携に一緒に戦える保守政党人なども結集していく。政党政治が今の日本の議会制民主主義の根幹だが、「議会制独裁主義」が広がっているいま、国民的規模での統一戦線を3つの段階を考えて構築したらどうだろうか。

 B: 21世紀の今日に、統一戦線を結成するためには、日本共産党において組織論の民主集中制は継承され検証されてきたものであるけれども、国民ないし日本に定住する民衆全般にわたる組織論としては、「円卓の論理」「フォーラムの論理」がふさわしい。統一戦線のテーブルにつく全ての個人と集団が対等に意見を述べ、行動の決定においても、少数派の意見が行動に反映される必要がある。諸個人は自らの見解を披歴するとともに、他者の意見を十二分にわきまえて納得し、行動においてはそれぞれが他者の存在を認めながら、一致点を追求する必要がある。統一戦線が成立するためには、積極的に相手の存在と見解とを尊重して吸収できるだけの確固とした人格が、成員に形成されていなければならない。



➁ 自公安倍政権の実相

 安倍政権が「黒い雨」訴訟に広島地裁が下した道理をふまえた判決を控訴するという。呆れて言葉もない。核兵器禁止条約に加わらない、原発には再稼働をすすめ、福島原発被害者を援護しない。アメリカには言いなりになり沖縄に米軍がもちこんだコロナになんの抗議も言えない。「被爆者を二度被爆させる」最低の政権である。
・憲法破壊空洞化だった解釈改憲を上回る軍国憲法創設はクーデターに等しい
・金権汚職政治の私物化
・国家を維持する国土保持予算・医療予算・社会福祉予算の数年に及ぶ連続削減
・アメリカ大統領トランプの言いなり外交経済軍事政策
・造語「アベノミクス」や意味の異なる「積極的平和主義」などまやかし多用

それらを受けて端的に社会が空洞化し異常な事件が発生している。TBS報道特集を視ながら私が思ったことをまとめた文章がある。以下に記す。

底知れぬ差別と偏見の国に住んで~2020.3.21『報道特集』
2020-03-27 23:21:45 | 政治・文化・社会評論
櫻井 智志

 神奈川県津久井やまゆり園大量殺傷事件。19人が殺された。金平茂紀キャスターは、植松聖被告に3度面会し何度も手紙のやりとりを続けた。検察の求告通り死刑の判決がくだった。金平氏は、「2か月17回の裁判で、この事件がなぜ起きたのか、被告人がおこした事件を解き明かすには全く十分ではない。なにひとつ事件の本質はあきらかになっていない」と結んだ。


 植松被告の言葉がいくつか明らかとなった。
「被害者の家族は、精神を病んでいる」
「トランプ大統領は勇気をもって信念を話している。生き方がかっこいい」
最後の出廷で「かっこよければすべてが手に入る」
荒唐無稽にも思える植松聖被告の言葉。だが番組は、れいわ新選組の参議院議員木村英子氏が登場し、私は衝撃を受けた。


木村さんは「(植松被告は)私だったかも知れないという恐怖を感じた」と語った。
「施設には小さないじめやいじわるがしょっちょうある。その究極が植松被告。」
「誰の心にでも潜んでいる」
「育てるのが精いっぱい」。木村さんは明るく元気な子どもだったが、突然の事故で転落して、くびの骨を骨折、脳に損傷を負い、車椅子生活をおくる。家族は、育てるのが精いっぱいだったという。
「うちの家族も一家心中未遂は何度もあった」
木村さんは車椅子からおち、冷たい床にずっと横たわったままで放置されたままの体験を数回体験している。介護する側の悔しさや失望感も感じてきた。
「殺して」、
虐待している側の罪悪感なども感じた。
障がい者が生きていける、当たり前の社会を作ってこなかった。
木村さんは、もしも自らが国会議員に当選して施設から出ることが遅れたら、植松聖被告のような犯罪に巻き込まれるか自分が自暴自棄になるか、どうなっていたか・・と考えた。


 川崎市幸区の老人介護施設で奇妙な事件が起きた。高層7階の廊下から3人の老人がわずかな期間に、同じ場所から転落して死亡した。捜査によって、施設に勤務していた青年男性職員がおこなった行為と判明した。

 植松被告が、やまゆり園に深夜侵入して次々に殺傷した被害者たちはみな自分への不当な犯罪に抗議の声をあげないひとびとだったという。金平キャスターは、ある事実を知る。植松被告は、つぎつぎに殺傷する時、職員に「こいつは声をあげるかあげないか?」と尋ねその応答によって攻撃実行の判別にしたという。

植松「僕は死にたくないんだ」
金平「津久井やまゆり園で働いていなかったら、変わっていたと思いますか」
植松「変わっていたと思う」

 金平氏は言う。「この事件がなぜ起きたのか」事件は解き明かせないままで裁判は終えた。被告人の更生とは離れている。優生思想が、私たちの社会にゆきわったっている。
植松被告はこう告げたという。
「自分は、正義を実践している」


 犯罪は、社会を反映しているし、社会の縮図でもある。最近日本の自殺率はここ2,3年下がっている。だが日本国内を覆う閉塞感は、不定形の構図を国内に形づくっている。植松被告の事件は、精神鑑定で異常、と片づけられる問題ではない。日本社会から急速に失われつつある事態。
 この国には、高まる軍国化志向の管理主義と並走する底知れぬ差別と偏見が不気味にゆきわたりつつある。左翼、右翼をひっくるめて、緊急事態を多用してニッポン差別偏見社会というシステムが完成している。-了=

③ 自立する市民運動の成熟

ケース1 山本太郎

 現在2020年において、東京都知事選に挑んだ宇都宮健児・山本太郎両氏の今までの市民として意欲的な実践は特記に値する。山本太郎氏が2019参院選に、日本共産党大阪選挙区の辰己幸太郎候補を宣伝カーに同乗しマイクで語り続けた応援のスピーチは、他の共産党員のスピーチよりも迫力があった。山本氏は神奈川選挙区でも共産党あさか由香候補を前川喜平氏・山口二郎氏と街頭で応援演説をした。それらの事実からすれば、2020都知事選での山本太郎氏出馬を野党分断だと決めつける一部宇都宮候補支援者の批判は背景もわきまえていない。
 立民党は山本太郎氏に都知事選出馬を促し続けた。先立つ京都市長選の真っ最中からの働きかけなので、市長選応援をないがしろにしていると顰蹙をかった。それでもコロナ感染症の急激な拡大で、サラリーマンがホームレスに陥り、窮乏化する現実を見た山本氏は、実際はれいわ新選組代表として衆院選準備に取り組んでいたがそれを停止し、都民の暮らしを救援するために立民党枝野代表ら首脳部と交渉に入った。山本氏は従来消費税を廃止する政策だったが、5%説を柱にした。相手は妥協しなかった。もうひとつ、衆院選準備との兼ね合いで「れいわ東京」候補と申し込んだ。だが立民党側は「無所属」を譲らなかった。もう告示直前だったので山本太郎氏は単独で立候補に臨んだ。なお以上の記述は直接に山本氏の選挙街頭演説で傍聴した内容である。

ケース2  宇都宮健児

もう一方の宇都宮健児候補は立候補を非難するどころかそれぞれ政策論争で競いあいましょうと応じて、一度も山本候補を選挙期間中も選挙後も非難も批判もしなかった。ここに宇都宮健児氏の独自のひそかなポリシーがあった。
以下やや長くなるが宇都宮健児氏について記したい。

宇都宮健児、日本社会改善への長く明確な闘い
ー20200801うつけんZOOMライブー
 以下は東京都中野区の市民団体が開催したZOOMライブでの宇都宮健児氏の発言を聴写したものである。20008年8月1日のほぼ午後2時~4時に開催された。(文責 櫻井智志)
❶知事選を語る
 冒頭宇都宮さんは語った。韓国の視察をおこない立候補する決意を固め、それが2016年前回知事選。結果は辞退したが、今回満を持して2020年立候補した。結果は小池知事が現職でコロナ問題を、安部政府に比べよくやったと都民にうけとめられた。だが候補のテレビ討論会が一度も行われなかった。

 「れいわ新選組との共闘について。」出馬会見の頃は市民の要請を受けて、ひとりで出馬した。後から、政党が次々に応援してくれた。誰でも政策を掲げて立候補すべきと思う。選挙戦をとおして一層候補者が政策を磨きあうことが大事だ。

 「都のコロナ対策」。小池さんはオリンピックが延期決定まで対応しなかった。日本の検査は先進国中35位。 世田谷区がニューヨーク形式を取り入れ電話による申し込みでいつでもどこでも検査に応じている。政府はPCR検査を徹底する必要がある。財政力があるのに、GoToトラベルをやり真剣に取り組んでいない。
 コロナ患者を受け入れる病院ほど経営的に赤字になっている。都立病院公社病院は経営にこだわらずコロナに取り組んでいる。独立行政法人化は、民営化であり病院をだめにする。 
 国民都民に貧困化が増大している。15兆4000億の財政を都はもっている。これは北欧一国の予算なみ。都が貧困化にとりくめば解決できるのに、できていない。知事の考えが希薄である。

❷日本の政治の特質

 砂川事件の問題のときに、最高裁に市民の抗議は集まらなかった。安保闘争のときに国民が立ちあがった。日本は市民革命としていまの憲法をかちとったわけでない。
 警察は行政に属し、検察は司法に属す。黒川検事長の定年は行政が口を出すべきではない。安倍首相はそれを正しく理解していないし、国民が結果的に許す結果になっている。#検察庁案の改定に反対です、のツイッターが広がって世論にも広がる。
 国際人権規約では大学まで授業料を無償にとうたっている。その予算をどうするか、税金、法人税をもっと論議して改定すべき。国民は論議せずわかっていない。税金をどう使うか、もっと国民が関心をもち考え合う必要がある。

❸都民に応える

 少人数学級。教師が十分に取り組むには30人以下の人数にすべき。教師数や学校数を増やすべき。デンマークなどでは、教師が知識をつめこむのでなく、子どもの自らの学びを援助すべき。 
 ジェンダー平等。女性が半数なのにその人権が認められていない。また、多様な性のありかたを人権保障から考えるべきである。
 生活保護は憲法25条で「健康で文化的な生活を国が補償する」と明記している。
 健康法。小中は野球をやっていた。中二から大学まで卓球をやっていた。いまは歩くことを重視している。 「自己責任」「生活保護」自己責任という言葉は、昔はあまり使われなかった。困難な状況に置かれている人々を分断する役割をはたし、政治家を免責することばとなっている。
 兄弟が高齢になり、飢餓死して発見された。生活保護を福祉事務所に申請していなかった。生活保護を権利として受け止め、福祉もまわって援助すべき。韓国ソウル市では、それが実現している。
 人権について。個々の人間に尊厳が保障され世界的国際的な人権規約に謳われている。日本社会で実現されているのか.建前で言っていても、人権侵害の言動をくりかえす政治家もいる。
 差別によって貧困で苦労している人々の存在を、大学で知った。そこから弁護士をめざした。サラ金問題で悲惨なめに追い込まれていることに、個別救済だけでなく立法運動に弁護士として取り組んできた。
 法律を変えるために、自民党や公明党の半分以上をロビー活動として弁護士会としてとり組んできた。

❹今後の展望

 都知事選は終わったけれど、課題に社会運動として取り組んでいきたい。都議選は、都議会の7割は小池さんの与党。コロナ、カジノ、教育、家賃補助制度、など課題は来年の都議選の課題。 つぎの知事選は自分のことも含めその時の状況による。

「私たちにできること」
都議会や区議会の傍聴。要望。一緒に考えること。投票率の低
さは外国スウェーデンなどに比べても低すぎる。民主主義が根付いていない。投票率は民主主義と密接。日本では政治に関心をもつことに高校生でも偏見をもたれることを変えたい。
「座右の銘」
真理は寒梅のごとし (新島穣)
「将来の夢」
市民活動家として実践を弁護士活動ののちもやっていきたい。
保守や中道も加われるような運動を。韓国のパク・クネ大統領弾劾運動は、リベラルだけでなく保守や中道も一緒に動いた。韓国に近いのがオール沖縄の取り組みです。翁長さん自身が自民党です。
「最後に」
サラ金問題に取り組み弁護士と立法化するまで30年かかった。そう簡単に変わらないけれど誰かが変えることで社会は変わっていく。戦後ほとんど自民党政治なのはなぜかを考える必要がある。地方の市町村議選から国政まで粘り強く変えていかなければ。<了>


ケース3 自主自立の市民運動群像

 戦後史でも、市民社会論争がさかんだった頃、日本は「市民社会」を形作る経済的社会構成体が形成されておらず、市民も「臣民」を抜け出してやっと公民的状態だった。政治家の中で日本共産党委員長の志位和夫氏が「市民」「個」「個性」について着目し、それをベースに「市民と野党の共闘」を政策として位置づけている。
 首都圏反原発連合(写真)やそれをいかした全国にある市民連合は、新たな市民像を感じさせる。一つの政党の枠組みの中にある市民団体も大衆化にとって意義はある。
だが「市民連合」「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」「九条の会」をはじめ市民が自ら考え立ち上げていく動きは、若い世代でも高齢者世代でも広がっている。

➃ 野党政党の健闘と検討

 国会では、立民党・国民党・共産党・社民党など国会対策に野党が共闘しあって国民の気持ちや要求を活かして取り組んできた。
 社民党が、緊急事態法に「与野党の別なく」賛同に加わったのは反対である。だが沖縄県で多くの県民に支持され、オール沖縄の有力な政党として健闘していること、福島みずほ党首が平和と護憲の理論派として言行一致の政治家であることを応援したい。私は日本共産党を選挙で支持し続けている。 
 ただベースは #国民統一戦線 の理念である。3層からなる。1:護憲リベラルを軸とする野党の結集グループ。2:日本共産党と共闘するれいわ新選組、緑の党、新社会党。3:保守本流と護憲保守のグループ。この3つが重層的に統一戦線を結成し、反安倍反極右政権に闘う。一気に実現できずとも持続。
 当面は、政権構想で抗争せず。新型コロナパニックの政治で、個人の人権と国民主権の民主主義の立場から、専制管理主義を強権発動する安倍政権に、第二次大政翼賛会に巻き込まれぬ声を拾い集めていきたい。#地方自治体首長選や衆参一人区では平和人権護憲派を、議員選では日本共産党を主に応援したい。
立憲民主党の福山哲郎、国民民主党の平野博文両幹事長と連合の相原康伸事務局長は8月27日、都内で共同記者会見し、新型コロナ禍を踏まえた新たな社会像について、3者が共有する「理念」として発表した。原発政策などに関しては「低炭素なエネルギーシステムを確立する」とした。
立民国民にも連合の影響は大きい。テレ朝労組が民放労連から脱退したが、テレ朝労組を非難する前に、労組が追い詰められている現在は人が進歩する労働の権利を放棄させる。労働の根本的危機であることを市民が認識しなければ。

➄ 民主的立憲政権を樹立するための変革主体形成

 今の情勢のもとでは、民主的立憲政権を樹立することは困難である。それは野党側の個々人が、烏合の衆と似た不安定さをもっていて、個人として日本の改善にとり、自己の思考や感性に多数依存、空気に続く流される風潮が多いことが主な原因である。
 たとえば沖縄で平和運動センター続く流される代表の山城博治、ひとりで闘うことを決めて意を決して都知事選に出馬した宇都宮健児、山本太郎、そのような人格像が求められている。
 また国民民主党の馬淵澄夫元国土交通相は、東京都知事選(7月5日投開票)に立候補したれいわ新選組の山本太郎代表の街頭演説に駆け付け、支持を表明した。国民は自主投票を決めているが、党所属議員が山本氏の応援に入るのは馬淵氏ひとりだった。組織に自分なりの信念を表明するくらいの主体がなければ、あっと言う間に自民党入りした議員もいた。
 民主党政権で厚労相に就任した長妻昭は、毅然として厚労省の官僚におもねずに任期最後まで貫いた。また小澤一郎氏は政権交代に賭けて深謀にたけ、自民党幹事長を振り切って野党で一貫して実践し続けた。毀誉褒貶するがこのかたの存在はいまの日本に重要な意義をもっている。<了>

(近日中の『「民主的立憲政権樹立の探求」下』へ)

民主的立憲政権樹立の探求(上)    櫻井智志

2020-08-06 19:58:40 | 社会思想史ノート
構成
❶2014年の提言(上)・・・・・本稿
❷2020年の実態(中)
❸民主的立憲政権樹立の構想(下)


Ⅰ:2014年の提言~国民統一戦線への展望 

➀ 主題と拙著『座標―吉野源三郎・芝田進午・鈴木正』

  2014年1月。私は『座標―吉野源三郎・芝田進午・鈴木正』を、発行いりす・発売同時代社から出版した。そこでは古在由重と三人の思想家から、変革主体形成の在りかたをまなび、主体の生き方を土台として、「国民統一戦線への展望」を終章で明記した。

目次

序 章 歴史的現代と古在由重

第一章 私たちはどう生きるかー吉野源三郎
 第一節 吉野源三郎との邂逅
 第二節 継承者としての緑川亨と安江良介
 第三節 『追悼集 安江良介 その人と思想』を読む

第二章 人類生存哲学の思想―芝田進午
 第一節 たぐいまれな実践的知識人 芝田進午
 第二節 現代に対峙する〈芝田学〉のトルソ
 第三節 予研=感染研裁判闘争と「人類生存の思想」
 第四節 「人類生存の哲学」構築の礎

第三章 自立的精神への探求―鈴木 正
第一節 自由と抵抗の思想家たち
第二節 日本近代思想の水脈
第三節 自立性と独立心の思想史学

終 章 国民統一戦線への展望
(終章1~7の後半4~7を以下➁~➄に掲載)

➁ 1960年安保闘争

1960年安保闘争は、戦後日本の国際外交のありかたを問うとともに、戦前に臣民として社会的存在を規定されていた国民の主権者としての生き方を問う闘いであった。私が学んだ高校日本史教科書でも、明治維新いらいの民衆闘争史でも最大の規模の闘争として歴史に残る大規模な民衆闘争であると位置づけられていた。
 最近論壇に活発な民主的論議を促している論客である孫崎亨は、外務省の国際情報報局長や防衛大学校教授を歴任し、体制側の重要な位置を占めていたが、現在の問題提起は革新的で圧倒的である。孫崎は日米安保条約を遡る日米地位協定を改革することを唱えている。また、60年安保闘争についても、アメリカからの扇動がおこなわれたとする。私はこれらの新たな論点を留保しつつ、通説の安保闘争の経過を通して安保共闘の意義を述べたい。
 国会では圧倒的な議席数をほこる保守勢力に比べて、社会党共産党の議席は少ない。それがあれだけ大規模の国民的闘争を決行できたのは、まさしく草の根の国民的闘争としての闘争の質があったからである。当初はあまり闘争も盛りあがらず運動の側は、悲観的な見通しであったと聞く。それが何度もの統一行動をくり重ねて、アメリカ首脳部の来日をストップさせて、首相の退陣にまでおいこんだ。これだけの運動を遂行し得た共同闘争は大きな意義をもつ。
 同時に、戦後の変革で大きな勢力のひとつとして、「全学連」があげられる。「全学連」には日本共産党の指導がなされたが、日本共産党と対立して日本トロツキスト連盟が57年1月に結成され、10月に名前を変えて革命的共産主義者同盟となった。58年12月には日本共産党から除名された学生党員たちが共産主義者同盟(第一次ブント)をたちあげた。反共産党系の「全学連」運動についても丁寧な検証が必要である。島成郎、唐牛健太郎、森田実などの指導部は俗称代々木系全学連に対する反代々木系全学連のリーダー格だった。安保条約が自然承認を迎え、安保闘争は敗北感のなかで終わった。安保闘争の主導権争いや政治闘争は、決して単純には割り切れないものがあり、沖縄で地域精神医療に取り組み続けた島成郎やいまも青年たちを「森田塾」として指導している森田実らのその後の生き方には、敵のスパイ、跳ね上がりと決めつける安易さを否定するだけの重みがある。
それでも、たくさんの全国の学生運動を、共同と連帯のもとにどのように指導したかということにおいては、ブント全学連や革共同の中核派や革マル派などは、社会状態を認識しどう変革するかの構想力においてあまりに貧弱だった、と私は考える。彼らを「トロツキスト」と呼び批判する日本共産党の側が、すべて正しく誤謬がないとも思わない。国民的な大闘争であったから、勝利も敗北も、正義も誤謬も、すべてひっくるめて、この60年安保闘争からその後の民衆闘争が学ぶものは大きい。
 私はこの闘争の詳細な論述をこの終章でおこなうつもりでとりあげたいのではない。日本社会における統一戦線運動の今後の展望を見通すために、安保闘争に立ち返って問題点をまなぶ重要な闘争として考えている。

③ 地域自治体民主化闘争

 京都の蜷川府政は1950年から続いていた。これは社共統一というよでりも戦前のファシズムに反対し、戦後の民主化のエネルギーを活かした先駆的自治体だった。
 1963年からは社会党員飛鳥田一雄の横浜市長が続いた。1967年に「明るい革新都政をつくる会」のもとに美濃部亮吉が都知事となった。71年には、大阪府で黒田了一府知事が誕生し、川崎市、吹田市、高松市、小金井市、恵那市、立川市でそれぞれ革新統一自治体が生まれた。
 1972年には、沖縄県、埼玉県が革新統一自治体となった。73年には名古屋市、日野市で革新統一候補が勝利した。74年には、香川県、滋賀県で革新統一知事が誕生した。75年では東京、大阪、神奈川の革新知事が当選している。77年には名古屋市で社共統一が勝利を収めている。このようにして、全国の多くを革新自治体が占めた。

 これらの革新統一自治体はやがて次々に自民党や民社党、公明党、社会党右派が推す候補にやぶれていく。『社会資本論』などの創造的な学問で著名な宮本憲一は、革新自治体の成果とともになぜ退潮したのかについて、「革新自治体の退潮は、『シビルミニマム論には、重大な弱点がありました。基本的には産業政策と財政政策が抜け落ちており、経済的不況がくると弱さを露呈しました』」(『地方自治の歴史と展望』自治体研究社、1986年)と捉えている。
 宮本も含めて、多くの専門家は衰退の原因として内部的要素とともに、外部からの攻撃や社共関係の悪化、自民・公明・民社などの政党の動きにも触れている。
 私は、革新自治体がせっかく革新統一戦線を構築しながらも、革新統一戦線政府樹立という国政レベルでの共闘と政治主体確立が未完成に終わった結果、国政に取り組む革新政党の政治家たちが、国から自治体へ支援をおこなうことができなかったことに、革新統一自治体敗北の大きな原因があると思う。
 それでも、革新統一戦線によって太平洋メガロポリスと呼ばれる広範な地域を自治体選挙闘争に取り組み成就した運動の歴史は、戦後史におけるかなり意義の深い重要な成果と見る。

 ➃ 2014年における統一戦線の具体像探求

 現在(2014年当時)、日本社会は、東日本大震災が明らかにした地震列島にはりめぐらされた原子力発電所により、異常きわまりない人間と自然に及ぼす壊滅的危機にさらされている。同時に、世界史的に意義をもつ非戦不戦の憲法も、自民党政権とそれを支持する亜流政党とによって、解釈改憲・明文改憲の総体によって骨抜きにされる現実的事態に追い込まれている。さらに、唐突な「特定秘密保護法」の強行採決がなされた。それに対して、民主党から共産党までの野党が国民的闘いを土台に優れた共闘を国会内外で見せた。

 反動政治の危機を国民の側が意識しているのと同様に、この国の支配層は民衆がその危機を解決することを、可能な限りの策略や陰謀で阻止しようとしている。革新統一戦線による太平洋メガロポリスが燎原の火のように広がって、自治体から革新統一戦線政府へと国政の変革に及ぼうとするその瞬間に、日本の支配層は徹底的に日本共産党のウイークポイントを叩くとともに、社会党と公明党に政党合意を結ばせ、社会党が共産党とは政治共闘を組まないようにさせた。参院選東京選挙区で見事当選した山本太郎に、テレビ放送局は政府批判の発言におよぶと突然CMに切り替えるなど唖然とするような抑圧を行った。週刊誌はスキャンダルとして一斉に山本太郎の私的問題をあることないことスクープでセンセーショナルに取り上げた。彼が真剣に主張している正論を潰すために。

 参院選東京地方区の日本共産党吉良よし子は、首都圏脱原発再稼働反対行動に、笠井亮衆院議員らとともに参加し続けた。大震災で東京から沖縄へ移住した三宅洋平は、音楽家であるが、音楽活動とともにスピーチし、緑の党比例区から参院選に出馬した。若者たちは彼の真剣なスピーチに耳を傾けた。緑の党総体の得票が少なかったので、当選にはならなかったが、得票そのものは自民党の下位当選者たちよりもはるかに多く15万票近く獲得した。新たな統一戦線運動は、このような草の根からわき出てきた民衆運動を視野にいれる必要がある。

 革新統一戦線は社会党と共産党が主になって結成した。いまは中曽根政権の謀略的政治支配によって、国労など公労協は完全に弱体化し、社会党の多くは民主党に移り、社会民主党はなかなか健闘しているが、2012年総選挙では社共ともに惨敗。参院選で共産党が躍進したのに、社民党は2議席確保にとどまった。
 元京都市長選候補者で京都府立大総長だった広原盛明や神戸の元教師佐藤三郎らの「護憲円卓会議」は、護憲勢力の活性化を心がけて健闘している。

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【2014年の提言~国民統一戦線への展望粗案】

 私は、日本共産党はまず日本共産党として結束し発展すればよいと考えるようになった。革新統一戦線の時は社会党と共産党がほぼ互角か共産党の議席が少ない状態だった。いま社会党にあたる勢力が、社民党、新社会党、緑の党、みどりの風、社会大衆党などの「護憲リベラル」結集勢力と思う。一党にまとまらなくとも、イタリア版オリーブの木形式でもよい。「護憲リベラル」として結集すること。そのうえで日本共産党と提携したらどうか。その提携に一緒に戦える保守政党人なども結集していく。
 政党政治が今の日本の議会制民主主義の根幹だが、「議会制独裁主義」が広がっているいま、国民的規模での統一戦線を3つの段階を考えて構築したらどうだろうか。

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➄ 統一戦線と変革主体形成

 ここで、統一戦線の主体をになう個々の個人の存在のありようについて付言したい。

 序章(『座標』序章 歴史的現代と古在由重)で見たように、古在由重から各節で論じた吉野源三郎、芝田進午、鈴木正らに共通する特徴がある。それは、どんな思想や教条が正しいかを言い張ることよりも、他者に開かれているという点である。小宮山量平は、「統一体質」と「分裂体質」とを表象した。20世紀に、中国で分裂し闘争していた国民党と中国共産党は、目前の侵略国家日本軍に対して「国共合作」を成し遂げて、ついに日本軍を破って中華人民共和国の建国にたどりついた。ヨーロッパでもコミンテルンのディミトロフが提案した「反ファシズム統一戦線」は、第二次世界大戦をはさんで、イタリアのファシズムやドイツのナチズム、日本の天皇制軍国主義に闘う集団的主体の形成に取り組んだ。

 21世紀の今日に、統一戦線を結成するためには、日本共産党においての組織論の民主集中制は継承され検証されてきたものであるけれども、国民ないし日本に定住する民衆全般にわたる組織論としては、「円卓の論理」「フォーラムの論理」がふさわしい。統一戦線のテーブルにつく全ての個人と集団が対等に意見を述べ、行動の決定においても、少数派の意見が行動に反映される必要がある。諸個人は自らの見解を披歴するとともに、他者の意見を十二分にわきまえて納得し、行動においてはそれぞれが他者の存在を認めながら、一致点を追求する必要がある。統一戦線が成立するためには、積極的に相手の存在と見解とを尊重して吸収できるだけの確固とした人格が、成員に形成されていなければならない。

<了>(近日中の『「民主的立憲政権樹立の探求」中』へ続く)

20回目の『平和のためのコンサート』で気づいた重要な問題提起

2019-07-25 00:51:44 | 社会思想史ノート
                     櫻井 智志

Ⅰ:第20回コンサート概要

 2019年6月8日。新宿区の牛込箪笥区民ホールで行われた第20回平和のためのコンサートは会場満員の観客と、出演アーチストの演奏歌唱が一体化して、20周年を飾るにふさわしいコンサートであった。

例年第一部の講演が、20周年を記念した企画となっていた。今回は「平和への祈り」という主題に特化して、【語りと音楽による「あの星はぼく」被爆二世の死】を訴えていた。詩:名越操さん、作曲:木下航二さん、編曲:腰塚賢二さんの作品である。河原田ヤスケ氏の語りとアンサンブル・ローゼによる歌唱(ピアノ伴奏末廣和史さん)によって表現されていた。

第二部。信田恭子さんのヴァィオリン独奏やロシア文学に造詣の深い伊東一郎氏の独唱(ピアノ伴奏:児玉さや佳さん)、アンサンブル・ローゼによる重唱(末廣和史ピアノ・信田恭子ヴァイオリン)、その他どれも芸術的に磨かれた内容だった。
私は入場していただいたプログラムを読み、鈴木武仁氏の寄稿文にはっとした。

Ⅱ:「平和のためのコンサート」と重要な市民運動
*転載

~第20回 平和のためのコンサート~によせて
      ストップ・ザ・バイオハザード
      国立感染研究所の安全性を考える会会長
                    鈴木武仁

 このコンサートは、芝田進午・貞子ご夫妻を初め、平和と安全を求める市民による裁判闘争、即ち国立感染症研究所の品川庁舎から現在の戸山庁舎への移転に伴うバイオハザード(生物災害)
を防ぐ裁判闘争の支援を目的として始められました。

 以後、私たち「国立感染研究所の安全性を考える会」及びその前身である「予研=感染研裁判の会」は、これまで1989年から30年にわたる予研=感染研再移転要求運動を展開してきました。

 この運動の支援を目的に、2001年4月7日、東京信愛教会を会場に「予研=感染研裁判と新井秀雄さん支援コンサート」(180名)を開始し、2004年6月、名称を「支援コンサート」から「平和のためのコンサート」に一新、牛込箪笥区民ホール(400名)に会場を移し、今回第20回を迎えることができました。
 
 その間、オウム真理教サリン事件、阪神淡路大震災、東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故が発生したとはいえ、感染研が、人命に及ぶような大事故を起こさずに過ごせましたのは、皆様方の市民的監視とご支援があったがゆえと理解しております。ここに心より感謝を申しあげます。

 この鈴木氏の中にある【2001年4月7日、東京信愛教会を会場に「予研=感染研裁判と新井秀雄さん支援コンサート」】が2004年から現在のかたちに発展したという事実。2010年に出版された書籍に、芝田進午氏が死去後に、裁判原告団団長を継承した武藤徹氏が書いた文章に【2004年4月22日に、第一回の「支援コンサート」が開かれています。2003年の第四回まで開かれ、多額の寄付が寄せられました。以後は、「平和コンサート」に引き継がれています。】
とある。
(『国立感染研は安全か バイオハザード裁判の予見するもの』国立感染症研究所の安全性を考える会 編著(緑風出版)第一章 バイオハザード裁判とは?二 環境を守るために市民はどう立ちあがったか  武藤 徹 p35

 芝田夫妻は、「ノーモア・ヒロシマコンサート」を新宿区朝日生命ホールなど都内と広島大学教授だった広島市で多年にわたって開催した。それは、芝田進午氏の核時代と「人類絶滅装置大系としての核」廃絶についての広範な学際的研究を裏付けられている。
『現代の課題 Ⅰ―核兵器廃絶のために』青木書店1978年
『反核・日本の音楽 ノーモア・ヒロシマ音楽読本』汐文社1982年矢澤寛・木下そんき編
『核時代 Ⅰ―思想と展望』青木書店1987年
『核時代 Ⅱ―文化と芸術』青木書店1987年

 さらに、お住いの新宿区戸山に、予研(感染研の前身)が強制的に移転を強行する時、ライフワークも当時研究中の研究も停止して、国立予研・感染研について、住民自治会など戸山に住む住民や早稲田大学やなど公的施設の人々も反対運動に立ち上がった。

Ⅲ:芝田進午というひと

 私は、この文章を書き始めて、『国立感染研は安全か』と『実践的唯物論への道 人類生存の哲学を求めて』とを再読している。後者の中の『Ⅴ 核時代・バイオ時代における「実践的唯物論」の課題』『20 バイオ時代の危険と「実践的唯物論」の新しい形態の追究』「予研移転阻止闘争の開始」の箇所には、この問題に関わり、驚くべき浮かび上がった歴史の暗部が事実に基づき叙述されている。いまそのまま引用するのは先に延ばす。

 広島・長崎に核兵器を投下したアメリカ国家の首脳部と米軍は、なぜ広島に原爆を投下したか?それは、原爆攻撃のもうひとつの側面は、大量人体実験という側面だった。そして米軍のABCC(原爆傷害調査委員会)を支援するために国立予防衛生研究所を日本政府は設置した。

 さらに予研にはかつて七三一部隊に協力していた医学者が多数集められた。

 詳細ははぶくが、原爆投下―七三一部隊-国立予研は、無縁ではない。一つの連環を形成している。そのことが、核廃絶文化の一環のノーモア・ヒロシマコンサートと、「予研=感染研裁判と新井秀雄さん支援コンサート」とが「平和のためのコンサート」として結晶化する由縁があったわけである。

 新井秀雄氏は国立予研・感染研の主任研究員だった。敬虔なクリスチャンの新井秀雄さんは、芝田氏たちの考えを聴き、自ら芝田氏たちを支援する。それゆえに新井さんは処分を受ける。人間の本質は、うわべの主義主張ではなく、その人の「人間性と人格」に帰する。

 芝田進午というひとこそ、実践的知識人であるだけでなく、現代社会において人類生存のための最大の啓示を豊かに教え育む教師であった。~了~

左翼から右翼への転換とマルクス主義の方法の問題(2013年)

2018-12-30 21:37:03 | 社会思想史ノート
櫻井智志


 牧太郎氏は毎日新聞社の記者だった。牧氏がサンデー毎日で連載『牧太郎の青い空 白い雲』を受け持っている。四月七日号を呼んでびっくりした。石原慎太郎氏の三男の宏高氏のパチンコメーカー業者との「腐れ縁」スキャンダルを取り上げつつ、書いている別のことに驚いたのだ。

 牧太郎氏の原文のまま写す。
【石原一家は慎太郎・裕次郎の天才的な兄弟が作ったファミリーである。結束の家族である。その柱を作ったのは、二人を産み、育てた母親だった。
 今でこそ、右翼?の慎太郎さんだが、高校生の時は左翼だった。『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、『サンデー毎日』は「五つの道をゆく”石原慎太郎批判”」と題し、9ページの特集を組んだ(1956年9月9日号)。記事の中にある湘南高校時代の教師の証言。
「慎太郎が高校一年生の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた48年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持ちにかられていた時、母は”大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する”と言った。この言葉にそのあくる日から慎太郎は学生運動を離れている」
 慎太郎は後に「主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ」と否定的に語っているが、慎太郎は若い時から「家族」を大事にするタイプだった。】

 この話で出てくる民主学生同盟は、日本共産党との関係はやや微妙である。日本共産党の幹部であった志賀義雄氏(徳田球一氏とともに獄中に十八年いて非転向を貫いた)が、ソ連の核実験の時に、共産党主流派と対立してソ連を支持した。そのために志賀義雄氏、中野重治氏、佐多稲子氏らとともに共産党を除名され(主体的には離党して)「日本共産党日本のこえ」を創設した。このときに共産党の青年組織であった民主青年同盟(民青)と別に結成されたのが民学銅である。私は1970年代初期に早稲田大学の民学同にいたいとこから一緒に活動しないかと入学時に勧められてあいまいにことわった記憶がある。民学同の学生は、自らを新左翼とは思っていないし、早稲田大学で学生運動の主導権を当時握っていた革マル派からは「スターリニスト!」と呼ばれていた。
 
 かつて週刊金曜日の編集委員で私が尊敬する評論家の佐高信氏が石原慎太郎氏と対談したことがあった。対談の内容が掲載された雑誌の次週の投書欄は、佐高氏が石原氏とあいまいで強く厳しく論破していないことに読者は怒りを感じたらしい。
 だが、石原氏がかつて左翼学生運動を高校生の頃に経験していて、なおかつ60年安保の時には大江健三郎氏、江藤淳氏らとともに「若い日本の世代の会」を結成して安保反対の意思表示もしたことがあった。石原氏は既に保守反動化していたと思うが、左翼経由の石原氏に佐高氏は活字にならない対話があったか、予想していた石原氏と異なる何かがあったのだろう。本多勝一氏が大江健三郎氏を『貧困なる精神』で徹底的に批判したのと比べて、佐高氏と石原氏の議論にはやや性質の相違が感じられる。

 私は今年2013年3月にこぶし書房から双書こぶし文庫「戦後日本思想の原点」シリーズの一巻として復刻され出版された鈴木正氏の『日本思想史の遺産』を思う。
 そこで鈴木正氏は「有機的知識人の思想と行動」として古在由重氏を読み解いている。

【古在によれば、本来の方法とは、ものの見方・考え方ということばから、ともすれば表象されがちな、知識を獲得するための一つの術といった外的なものではない。それはわれわれの知識と生活のすみずみにまで養分を与え、それを成長させるための根のようなものである。生活と闘争のなかで、真に生きてはたらく思想体系は、かならず実践と結合するはずだが、その連結点にこそ、方法の問題がよこたわるというのが古在の立場である。それにひきかえ、理論と実践の行動の統一の確立ないし回復をくりかえし規定しなおし、再定義してゆく領域を、マルクス主義が自覚的にもっていることを認めないものには、所詮、方法の問題は意識されずに終わる。
(中略)「現在」と「実践」に参加する姿勢と切れた、ひたすら「過去」と「文献」をあさる態度である。 そこには史料操作の技術的方法(批判)はあっても、まともな意味での歴史的方法(批判)は、最後まで存在しない。われわれが思想の生きた歴史をみるとき、思想の科学性だけではなしに、思想に対する誠実、勇気、責任等の実践性ないし倫理性をみすごすなら、けっしてその真相をつかむことができないだろうというのが、これと対極に位置する存在の思想史の方法である。】

 大江氏の評論に「言葉の再定義」というような表題の評論集を読んだ覚えがある。大江氏は、マルクス主義者ではないが、鈴木正氏が古在氏の思想を継承している箇所(太字部分)を見事に無意識のうちに踏襲している。

 鈴木正氏が表現した文中は、左翼とは何か、左翼が右翼になぜ簡単に転換するかの疑問を解く本質がある。通り一遍の左翼用語を難解な言葉で論文に書いたりしゃべるようになるまでは、さほどの年月は要しない。しかし、繰り返し繰り返し理論と実践の行動との確立を規定しなおし、再定義しなおすという生き方は、それほど簡単なことではない。
言い換えれば、左翼とよばれる集団や個人の中にも、情勢が変われば簡単に周囲の状況に適応して保守反動にも容易に転換する事例が多々あるだろう。

 私は神奈川県に住んでいるが、他の地域が中心の社会人の学習運動に消極的に加わる機会があった。生活の多面的な要素をとらえて、講演会や映画鑑賞会、学習会をインターネットなどの現代的機器も活用してかなり広範な人数を動員している。私は内部のメーリングリストの討論に加わった。情勢が戦前のような危機の時代に入ったら、この集団は変わっていくだろうと思った。それは指導者自らが、思想的方法として体系化された左翼思想にはくわしいけれど、他者の意見と自分たちの意見とがどこが違うかを吟味して、討論して相手の指摘する事実が何を示しているのかを理解しようとする態度に疑わしい様子がうかがわれたからである。ツイッター、フェイスブック、メーリングリストと現代が軍事技術開発の鬼子として生まれたインターネット・テクノロジーは革命的な技術である。文明の様相を大きく変えたといってよい。それを容易にこなしている独創性は素晴らしいし、現代社会の特徴である最新技術をこなしていると感心する。
 ただインターネットの向こう側にある思想の方法はどうか。ふだんのやりとりはそうでもないが、たまに起きる事柄がある。指導者とその支持者が発言に権力をもち、異論を差し挟む者たちが指導者に問い続けている内にそれは起こる。異論を唱える者を強制的にインターネットのサークルから排除していく。私の友人も同じ処置を受けたが、それから次の年に、私も退会に付された。見解の応酬に疲れはて三月いっぱいで退会すると公開で表明した。わずか四日後に月がかわるのに、即刻強制的にインターネットの回路から切断された。理論は述べても、相手の意見をうけとめない。両者が議論において公平な立場にない。その学習運動の代表者への異論は、学習運動団体からの排除へとつながっている。
 ここに私は科学=技術革命の資本主義的形態をまとって技術革新時代における新たな装いの教条的方法主義をみる。ルソーやペスタロッチ、日本で言えば林竹二、丸木政臣、中野光などの教育思想家たちは「教師は子どもによって教育を媒介として教育される」ことを見究めて、学習や教育の思想的意味をあきらかにしている。

 現代の肯定すべき左翼、さらにいえばマルクス主義者たちは、自らが対象とむかいあい相手の現象や人間達とのずれを見つめつつ、それにどう対話し議論するかについて、理論と自らの実践との統一的な確立を規定し直し、再定義しなおす勇気が必須である。
 そのような覚悟のない左翼や社会主義者たちは、簡単に右翼に転換する。現在の左翼の中でも最も伝統的理論的正統的な日本共産党や社民党が、七月の参院選の結果によっては参院から政党でなく政治団体に転落しそうな厳しい政治の季節を迎えているのは、マスコミの操作や教育による教化、選挙制度の改悪、労働運動への弾圧と懐柔など系統的な反動支配層からの戦略的対策が功を奏してのことである、
 しかし、もしも本当に社会主義や共産主義が政治的冬の時代でも次の歴史を展望させるだけの民衆的支持を得ようと心から願うのならば、教条的で固定的なスタンスではなく、虚心坦懐に他者の意見を吟味し、時には受け入れ時には説得し、理論と行動との統一のために何度も何度も規定し直し再定義し直していく勇気ある謙虚さが必須である。
 このことがわからないと、自分への批判を誹謗しているのだと思い込んで冷静さを失う。相手に非難を浴びせ続け、サークルにおける相手の存在そのものを否定しようとしていく。かつて「内ゲバ」は、日本の革新運動に壊滅的なダメージを与えた。連合赤軍リンチ殺人事件はその典型だった。日本以外で、ミャンマー、戦時中のソ連、毛沢東指揮下の文化大革命。次々に異端者が処刑されていった事実があきらかになった。長い目で見ると、一進一退の連続で世界史は変わり続けてきた。けれど、科学的社会主義が思想の方法としての社会主義の人類史的な理想的意義を示すとしても、思想の方法が実践された場合だけである。