【色平哲郎氏のご紹介】 学者先生とは違う。今晩はどうしてもうちに泊まっていってくれんか
長崎に行ったときのことです。汽車が長崎駅に着くと、「宮本先生歓迎」という幟(のぼり)が立っている。ところが出迎えの人は、鳥打ち帽にヨレヨレの国民服を着た宮本先生が当の本人だと誰も気づかない。「宮本常一(つねいち)はワシじゃ」といっても、なかなか信用してもらえなかった。調査にいっても、はじめは都会からうすぎたないジジイがやってきたという顔をされる。ところが宮本さんと話しているうち、相手の目がランランと輝き、最後は必らず「あんたの話は本当のことをいっている。学者先生とは違う。今晩はどうしてもうちに泊まっていってくれんか」ということになる。宮本先生との旅はそんなことの連続でした。
民俗写真家・芳賀日出男 100歳を超えても活動している
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当時は農地解放問題で、多くの農民たちはいきり立っていた。学者たちのいう寄生地主の土地は解放されねばならぬ。大地主や不耕作地主の土地も解放すべきであろう。しかし気の毒であったのはわずかばかりの土地を持っていたのを、夫や子が戦争にいかねばならなくなって、近所の農家にあずけたのがそのままとりあげられてしまったという人たちであった。私が百姓たちからうけた相談にはそうしたものが多かった。そうした被害者すらみな悪徳者のように言われていた。
宮本常一
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自然は寂しい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる。そのあたたかなものを求めて歩いてみよう。
宮本常一
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人生はより道や道草が大事じゃ。社会の落ちこぼれだけの大学院があったっていいじゃろ。
宮本常一
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或る日、渋沢(敬三)先生が拙宅においでになって、宮本常一君を東京に呼んで勉強させたいがどうであろうかとのお話があった。優秀な同君が上京して民俗学を専攻せられることは願ってもなかなか求められぬ機会であるので、私は双手をあげて賛成したものの、既に結婚せられて家庭をもっている同君が定職を辞して東京で民俗学を専攻する決心がつくであろうかと気になってしかたがなかった。私は、東京での生活は保証していただけるでしょうかと、渋沢先生にききたかったが、これだけはとうとう先生に申しあげなかった。
(近畿民俗学会会長)医学博士・沢田四郎作(1899-1971)
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大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落してしまう。その見落されたもののなかにこそ大切なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものも多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまねばならぬ。
また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙ってしかも人の気にならないようにそこにいることだ。
渋沢敬三
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日本という国はいい国だよ。偉い人の目に届かぬところにも実に立派な人がいる。不平も言わず、自己主張もせず、冷静に世の中の情勢を見ながら、しかもちゃんと自分のゆくべき道を歩いている。
渋沢敬三
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すぐれた漁師の頭のなかには、軽く学位論文がとれるだけの知識が詰まっとるんやぜ。しばらく進藤さんに食いついてみいや。
宮本常一
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一漁民としてほんとうに一般からみれば、虫けら一疋にしかみられない時代に、民主主義の目的である、自由、平等、生命の尊厳(人権の尊重)を、われわれ漁民に身をもって教えてくだされたのも、忘れることのできない教訓であると、感銘しています。
進藤松司氏による追悼文 「渋沢敬三追悼記念号」1964年10月「漁業経済研究」
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銀行屋というものは、小学校の先生みたいなものです。いい仕事をしてだんだん成長した姿をみて、うれしく思うというのが、本当の銀行屋だと思いますね。えらくなるのは生徒です。先生じゃない。
渋沢敬三
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山村工作隊を組織して農村を日本革命の拠点にしようとした共産党も、弥生式農耕の渡来以来、本質的にほとんど不変だった農村を高度成長によって崩壊させた保守政権も、日本の農村を愛情をもって理解しようとはしなかった。これに対し宮本(常一)さんだけは農村に暮らす人びとのしん、日本のしんを愛情をもってみつづけた。
司馬遼太郎
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最初のアフリカ行の直前に、今西(錦司)先生と二人で御挨拶にうかがったときのこともなつかしく思い出される。「なによりもドルが必要だ。少し持ってゆき給え」とおっしゃって、やはりあの引き出しの中からドルの紙幣を取り出して餞別として下さったのである。日本霊長類学の誕生を憶うとき、また霊長類学の今日の発展を思うとき、渋沢(敬三)先生から受けた御恩はけっして忘れることができないのである。
伊谷純一郎
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部落史と芸能史と女性史は、日本民俗学があえて目をつぶって避けてきた三大テーマじゃ。これはそれをやってこなかったわし自身の自戒もこめていうんやが、この三つやらねば日本民俗学は学問としては本当は完成しない。部落問題でも離島問題でも一番大切なことは、地域に人間をつくることじゃ。
宮本常一
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いったい進歩というのは何であろうか。発展というのは何であろうか。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が退歩しつつあるものを進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしつつあるのではないかと思うことがある。
宮本常一
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1980年代、私が報道部にいた最初の17年間、視聴率という言葉を一度も聞くことはなかった。報道マンたちは、特ダネを抜いた、事件現場にいち早く駆けつけて他局を凌駕したなど、ニュースのことしか興味がなかった、、、しかし、、、テレビの地盤沈下が進む中で、目に見えるものは「数字」。「数字」にすがるしかなかった、、、テレビはこの時、完全に方向性を誤ってしまった。「理想」より「商取引」を大事にすることを明確にしてしまったのだ。外には、地域の信頼と信用が土台だなどと言い、内では「ジャーナリズムなどと青臭いことを言うな」と言い放つ、二枚舌を使い続け、、、天秤のバランスは大きく崩れてしまった。一度、「数字」の支配が貫徹すると、組織は雪崩を打ったように「数字」の妄信へと傾斜していく。グラフや表を経典のごとく持ち寄っては拝み、地域を、こともあろうにマーケットなどと言い始める。
阿武野勝彦 「さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ」
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宮本が特に興味を覚えたのは、本当はうまいはずの三味線をわざと下手くそに弾き、道行く人々の哀れみをかって金をめぐんでもらっている60過ぎの女乞食だった。宮本がその女乞食のあとをつけていくと、天王寺の境内にはいって行方をくらました。しばらくして出てきた姿を見て宮本は驚いた。すっかり身支度をととのえた女乞食は、人力車に乗っていずこへか姿を消した。あとでまわりの乞食に聞くと、その女乞食は、乞食集団の大親分で、生野の方に20軒ほどの借家をもっている身分とのことだった。
宮本は被差別部落にも興味をもち、足繁くそこに通った。後年、宮本はある被差別部落の長老から「あんたのような人に部落の女をもらってもらうと非常にありがたいんだが」
と、結婚を勧められたことがあった。宮本は「いいですよ。親の方はなんとか口説きましょう」といって、乗り気になったが、最終的にこの結婚はならなかった。というのは、相手がその部落一の大金持ちだったからで、宮本はそこに政略結婚と同じようなにおいをかぎ、こちらから辞退する結果となった。
明治年間、東京では同じような問題意識を持った二人のジャーナリストが、貧民窟の調査に入っていた。宮本が乞食の社会に関心をもちはじめた頃、大阪の貧民窟のなかに入りこんで、「大地に生きる」という本を書いた清水精一という人物は、明治年間、東京の最下層社会に入りこみ、「最暗黒の東京」を書いた松原岩五郎や、「日本の下層社会」を書いた横山源之助の、いわば衣鉢をつぐような人物だった。
宮本はそれから数年後、清水の本を読むことになるが、禅門を離脱して乞食の群れのなかにとびこみ、私財をなげうって彼らの厚生施設をつくりあげる清水の生き方にいい知れぬほどの感動をおぼえた。
「旅する巨人」宮本常一と渋沢敬三 文藝春秋 佐野眞一・著
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だが、イデオロギー支配の時代が完全に終わりを告げ、また、高度成長からバブルの時代を経て、日本の近代化がどこにも光明を見出せないまま行き詰まりをみせている現在、
宮本の仕事の確かさに人々が気づきはじめたのも、またごく自然の流れのように思われた。
歴史学者の網野善彦や民間学の鹿野政直、そして故鶴見良行らが、宮本の著作を大学の講義テキストとして使ったというのは、その一つの現われだったといえる。鶴見良行の評価を決定づけた「バナナと日本人」や「ナマコの眼」は、宮本が日本列島を歩き、見て、聞いた手法を忠実に踏襲し、それをアジア世界まで拡大していった仕事だった。
「旅する巨人」宮本常一と渋沢敬三 文藝春秋 佐野眞一・著
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現在の中国は表向き社会主義国だが、実際には資本主義国以上に弱肉強食の経済活動が展開し、貧富の格差が驚異的な水準にまで拡大している。国家安全維持法の施行によって中国の介入が進む香港は、今後さらに新たな植民地主義に苦しまなければならないのではないか。香港が「中国化」することは避けられず、香港の人々が主体を取り戻し、自らのつくりたい香港をつくることは不可能なのか。
北京は香港のあらゆるハードウェアを消すことができても、香港人の思索の過程を消し去ることはできない。香港の人たちが懸命に進めた民主化運動は、多くのものを残している。香港人がこの記憶を不断に更新し、「中国式」統治との歴史的闘争を続けるためには何が必要か。運動の記憶と経験から導き出せるものがあるはずだ。
香港の事態は対岸の火事ではない。自らの国のあり方を主体的に考えなければ日本の民主主義も確実に衰退する。
阿古智子「香港の悲劇 植民地構造と民主化への模索」 「世界」 22年2月号
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お知らせ「演劇手法を用いる健康教育プログラムのファシリテーター養成講座へのお誘い」
目的 :本講座の主宰者が米国カリフォルニア大学デービス校で開発した、演劇の手法を用いる健康教育プログラムの進行役(ファシリテーター)を務めるための基本的な知識・手法について学びます。本講座を受講後、ファシリテーターとしてご活動頂ける機会を主宰者と共同で作ることも目指しています。
対象者 :「健康に関する行動変容を促す演劇手法」に関心がある保健師・管理栄養士等の医療従事者。または、将来、健康教育プログラムのファシリテーターになることに関心がある演劇・芸術のバックグラウンドのある方。
日程 :全日程参加が必須です。
第 1 回 :2 月 12 日 (土) 13:00-16:00 理論的背景、即興劇入門、演技入門
第 2 回 :2 月 16 日 (水) 19:00-20:30
第 3 回 :2 月 18 日 (金) 19:00-20:30
第 4 回 :2 月 26 日 (土) 13:00-16:00
場所 :全てオンライン(Zoom)で実施。
定員 :20 名(定員を超える申し込みがある場合は健康教育の経験者を優先します)
申し込み方法 :2 月 7 日(月)の 17:00 までに、以下の主宰者のメールアドレスに履歴書(健康教育プログラムを過去に教えた経験があれば、そのご経験について追加説明をご記入ください)を送付ください。
謝礼 :本プログラムを改善するため、この講座の参加者の皆様からのフィードバックを頂く目的もありますので、参加者の皆様全員に謝礼(5 万円)をお支払いします。過去の演劇経験は全く不要です。本講座で用いる August Boal の即興劇を重視する手法は、米国を含め世界的に広く用いられていますが、日本ではほとんど知られていません。Boal の即興劇の主たる目的は、職場や家庭での人間関係の改善ですので、皆さんが演劇と聞いてイメージするものとは大きく異なります。本講座では、様々な演劇手法が、コミュニティへの参加を促し、行動変容につながる可能性を探求します。
本講座の主宰者 : 兪 炳匡 (ゆう へいきょう)、Byung-Kwang YOO, MD, MS, PhD
神奈川県立保健福祉大学 大学院ヘルスイノベーション研究科教授(医療経済学)
イノベーション政策研究センター長
連絡先Email: bk.yoo-7jv@kuhs.ac.jp
本講座についての追加情報 :
本講座は、神奈川県立保健福祉大学イノベーション政策研究センターで実施している研究プロジェクト「予防医療教育プログラムの開発と評価」(研究代表者は本講座の主宰者であるYOO)の一環(教育活動)として実施されます。本プロジェクトの目的は、YOO が米国で開発した健康教育プログラムを、日本の文化に合わせて改善し、普及させることです。
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乞食たちは同じ落伍者ではあっても貧民窟の人たちとは全く異なる経済社会に生きていた。乞食には就職難も失業も無い。乞食をすれば必ず食えると信じているのである。乞食の人たちは天地自然と共に生きている一種の自由人、自然人であり、そこには一般人の社会には見ることの出来ない悠々たる相が有った。また、生活経済は団体本位であり、個人の財産は無い。300人程の無籍者によって構成される一つの不思議な小国家であった、、、
人間の生活は煎じ詰めれば乞食的か泥棒的かのいずれかであろう。乞食は一銭のお金にも感謝しお礼を述べるが、泥棒は万金を取り得てもお礼は言わない。まだまだ足らぬの不満のみが残るのである。足ることを知らない者の生活は皆その範囲から脱することが出来ないのである。近年の我等の生き方は次第に泥棒的になって来ているのではあるまいか。さればこそ、現代人は段々と感謝の念が乏しくなって来ているように思われる。
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