【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

『報道特集』と考える安倍首相政権の功罪2020.8.29

2020-08-29 21:35:58 | マスコミ報道への私見
 「儀礼のことば」「例のことば」、一般社会では使われることがある。安倍晋三氏は別に死去したわけでない。持病が過労で悪化、首相を辞任した。 
「#安倍首相と潰瘍性大腸炎」貴番組で事実と医学的視点から安倍晋三首相の政治的遍歴と健康との客観的経過を知ることができた。一国の行政責任者としての心身にわたる圧力とストレスは重大な健康障害の要素なのだ。首相の公私として、安倍氏の政治の軌跡はリアルに把握したい。


 よくいう「責任は総理の私がとります」。公的な場で言明しても、なんら責任をとったことはない。 安倍首相の執政の失政で、どれだけの人々が命を失いどれだけの人々が失業し、いのちの糧を得られず不幸な暮らしに陥っていることか。重病は疾病として同情する。だが政治家の任務も自ら言明した説明責任はどこへいったのか?安倍首相は日本会議の支えを受け自らも日本会議の要職にあった。日本会議は穏やかで実務型の国家主義と神道とを併せ持つ。菅野完氏『日本会議の研究』扶桑社2016年青木理氏『日本会議の正体』2016年平凡社が詳しい。安倍首相が総理辞任しても、日本会議と癒着した議員では「金太郎の飴」だ。



「私は政治を私物化したことはありません」?
「私は国家国民のために尽くしてきました」?
だが沖縄・辺野古の県民の声を寄り添うことはなかった。公文書改竄を命令で行った赤木俊夫さんの名誉回復は奥様がぎりぎり追い詰められながら声を上げた。福島原発対策もまともに取り組まなかった。安全保障戦争立法や共謀罪。あいつぐ悪法をつくり国民的反対が高まると、解散総選挙に訴え6度の国政選挙に圧勝した。選挙だけが真剣な課題であり、圧勝によってその後は国民無視の対応が際立った。


「#歴代総理のなかで沖縄に安倍首相ほど冷淡な首相はいなかった」
「#市民運動や野党は長期安倍政権の検証を緊急におこなうべきではないか。」
長期政権をメデイアはきちんと事実を報道してきたか。番組のキャスターの皆さんの声が深く心に潤いをもたらしてくれた。

『報道特集』~最近の視聴記憶~ 櫻井智志

2020-08-29 15:48:45 | マスコミ報道への私見


中國、ロシア、アメリカ。世界の超大国の実態。黎智英氏の逮捕と市民の応援。ロシアのナワリヌイ氏への不審を残す暗殺死未遂と行動抑圧、アメリカのトランプ政治。だが私は日本の現実のなかで生きている。足元をできることを範囲内で考え表現し、意思表示を続ける。


気候、風雨の著しい激変によって、普通時の降雨で土砂崩れや交通遮断が生じている。国家は環境変化に対応して、国土の保全と宅地の安全な全国的計画を建てて数年のうちに亜熱帯化に対応した都市・国土計画を具体化するべきである。


 河野防衛相はアメリカ軍部司令官と緊密な防衛軍事情報の意見交換をおこなった。いつまでもアメリカから独立せず、隷属外交。日本が独立することは軍事力に依存しなければ自立できないのか。憲法の平和条項模範として他国は軍備撤廃している。日本に平和独立の意志と意欲をもった政治は実現しえないのか。



「五輪延期と選手村マンション」コロナ感染問題によって五輪・パラリン実施が不透明な視界に入った。だが、これほど混乱していて、選手たちが最も困惑しているようだ。今は無責任なことは言うまい。だが勧誘演説以来ひとつひとつを実直で庶民を日本全体の英知を結集して進めない限り、展望は打開できないだろう。


 立民国民など新党樹立は意義深い。政権獲得を焦らず、庶民の苦闘を踏まえた政策の検討と地方政治国政の地道な政治と政策の練り上げが重要だ。私見だが、一つの組織をつくるよりも三つの組織が一堂に介し政権の統一戦線による政権樹立がよいと思う。
 私は①立憲新党グループと②日本共産党が社民・緑・新社・れいわ新選組などと「市民と野党の共闘」拡大グループと③保守リベラル護憲グループの三層による方法もあると思う。安易な性急政権工作よりも今の自公政権に対案を次々に提示して国民的危機を克服すべきだ。


民主的立憲政権樹立の探求(中) 櫻井智志

2020-08-27 19:52:46 | 社会思想史ノート
構成
❶2014年の提言(上)・・・前回
❷2020年の実態(中)・・・今回
❸民主的立憲政権樹立の構想(下)

Ⅱ:2020年の実態~自公(維)政権に抵抗する勢力の実態と結集 



➀ 前回Ⅰの要諦
 A:【2014年の提言~国民統一戦線への展望粗案】
 私は、日本共産党はまず日本共産党として結束し発展すればよいと考えるようになった。革新統一戦線の時は社会党と共産党がほぼ互角か共産党の議席が少ない状態だった。いま社会党にあたる勢力が、社民党、新社会党、緑の党、みどりの風、社会大衆党などの「護憲リベラル」結集勢力と思う。一党にまとまらなくとも、イタリア版オリーブの木形式でもよい。「護憲リベラル」として結集すること。そのうえで日本共産党と提携したらどうか。その提携に一緒に戦える保守政党人なども結集していく。政党政治が今の日本の議会制民主主義の根幹だが、「議会制独裁主義」が広がっているいま、国民的規模での統一戦線を3つの段階を考えて構築したらどうだろうか。

 B: 21世紀の今日に、統一戦線を結成するためには、日本共産党において組織論の民主集中制は継承され検証されてきたものであるけれども、国民ないし日本に定住する民衆全般にわたる組織論としては、「円卓の論理」「フォーラムの論理」がふさわしい。統一戦線のテーブルにつく全ての個人と集団が対等に意見を述べ、行動の決定においても、少数派の意見が行動に反映される必要がある。諸個人は自らの見解を披歴するとともに、他者の意見を十二分にわきまえて納得し、行動においてはそれぞれが他者の存在を認めながら、一致点を追求する必要がある。統一戦線が成立するためには、積極的に相手の存在と見解とを尊重して吸収できるだけの確固とした人格が、成員に形成されていなければならない。



➁ 自公安倍政権の実相

 安倍政権が「黒い雨」訴訟に広島地裁が下した道理をふまえた判決を控訴するという。呆れて言葉もない。核兵器禁止条約に加わらない、原発には再稼働をすすめ、福島原発被害者を援護しない。アメリカには言いなりになり沖縄に米軍がもちこんだコロナになんの抗議も言えない。「被爆者を二度被爆させる」最低の政権である。
・憲法破壊空洞化だった解釈改憲を上回る軍国憲法創設はクーデターに等しい
・金権汚職政治の私物化
・国家を維持する国土保持予算・医療予算・社会福祉予算の数年に及ぶ連続削減
・アメリカ大統領トランプの言いなり外交経済軍事政策
・造語「アベノミクス」や意味の異なる「積極的平和主義」などまやかし多用

それらを受けて端的に社会が空洞化し異常な事件が発生している。TBS報道特集を視ながら私が思ったことをまとめた文章がある。以下に記す。

底知れぬ差別と偏見の国に住んで~2020.3.21『報道特集』
2020-03-27 23:21:45 | 政治・文化・社会評論
櫻井 智志

 神奈川県津久井やまゆり園大量殺傷事件。19人が殺された。金平茂紀キャスターは、植松聖被告に3度面会し何度も手紙のやりとりを続けた。検察の求告通り死刑の判決がくだった。金平氏は、「2か月17回の裁判で、この事件がなぜ起きたのか、被告人がおこした事件を解き明かすには全く十分ではない。なにひとつ事件の本質はあきらかになっていない」と結んだ。


 植松被告の言葉がいくつか明らかとなった。
「被害者の家族は、精神を病んでいる」
「トランプ大統領は勇気をもって信念を話している。生き方がかっこいい」
最後の出廷で「かっこよければすべてが手に入る」
荒唐無稽にも思える植松聖被告の言葉。だが番組は、れいわ新選組の参議院議員木村英子氏が登場し、私は衝撃を受けた。


木村さんは「(植松被告は)私だったかも知れないという恐怖を感じた」と語った。
「施設には小さないじめやいじわるがしょっちょうある。その究極が植松被告。」
「誰の心にでも潜んでいる」
「育てるのが精いっぱい」。木村さんは明るく元気な子どもだったが、突然の事故で転落して、くびの骨を骨折、脳に損傷を負い、車椅子生活をおくる。家族は、育てるのが精いっぱいだったという。
「うちの家族も一家心中未遂は何度もあった」
木村さんは車椅子からおち、冷たい床にずっと横たわったままで放置されたままの体験を数回体験している。介護する側の悔しさや失望感も感じてきた。
「殺して」、
虐待している側の罪悪感なども感じた。
障がい者が生きていける、当たり前の社会を作ってこなかった。
木村さんは、もしも自らが国会議員に当選して施設から出ることが遅れたら、植松聖被告のような犯罪に巻き込まれるか自分が自暴自棄になるか、どうなっていたか・・と考えた。


 川崎市幸区の老人介護施設で奇妙な事件が起きた。高層7階の廊下から3人の老人がわずかな期間に、同じ場所から転落して死亡した。捜査によって、施設に勤務していた青年男性職員がおこなった行為と判明した。

 植松被告が、やまゆり園に深夜侵入して次々に殺傷した被害者たちはみな自分への不当な犯罪に抗議の声をあげないひとびとだったという。金平キャスターは、ある事実を知る。植松被告は、つぎつぎに殺傷する時、職員に「こいつは声をあげるかあげないか?」と尋ねその応答によって攻撃実行の判別にしたという。

植松「僕は死にたくないんだ」
金平「津久井やまゆり園で働いていなかったら、変わっていたと思いますか」
植松「変わっていたと思う」

 金平氏は言う。「この事件がなぜ起きたのか」事件は解き明かせないままで裁判は終えた。被告人の更生とは離れている。優生思想が、私たちの社会にゆきわったっている。
植松被告はこう告げたという。
「自分は、正義を実践している」


 犯罪は、社会を反映しているし、社会の縮図でもある。最近日本の自殺率はここ2,3年下がっている。だが日本国内を覆う閉塞感は、不定形の構図を国内に形づくっている。植松被告の事件は、精神鑑定で異常、と片づけられる問題ではない。日本社会から急速に失われつつある事態。
 この国には、高まる軍国化志向の管理主義と並走する底知れぬ差別と偏見が不気味にゆきわたりつつある。左翼、右翼をひっくるめて、緊急事態を多用してニッポン差別偏見社会というシステムが完成している。-了=

③ 自立する市民運動の成熟

ケース1 山本太郎

 現在2020年において、東京都知事選に挑んだ宇都宮健児・山本太郎両氏の今までの市民として意欲的な実践は特記に値する。山本太郎氏が2019参院選に、日本共産党大阪選挙区の辰己幸太郎候補を宣伝カーに同乗しマイクで語り続けた応援のスピーチは、他の共産党員のスピーチよりも迫力があった。山本氏は神奈川選挙区でも共産党あさか由香候補を前川喜平氏・山口二郎氏と街頭で応援演説をした。それらの事実からすれば、2020都知事選での山本太郎氏出馬を野党分断だと決めつける一部宇都宮候補支援者の批判は背景もわきまえていない。
 立民党は山本太郎氏に都知事選出馬を促し続けた。先立つ京都市長選の真っ最中からの働きかけなので、市長選応援をないがしろにしていると顰蹙をかった。それでもコロナ感染症の急激な拡大で、サラリーマンがホームレスに陥り、窮乏化する現実を見た山本氏は、実際はれいわ新選組代表として衆院選準備に取り組んでいたがそれを停止し、都民の暮らしを救援するために立民党枝野代表ら首脳部と交渉に入った。山本氏は従来消費税を廃止する政策だったが、5%説を柱にした。相手は妥協しなかった。もうひとつ、衆院選準備との兼ね合いで「れいわ東京」候補と申し込んだ。だが立民党側は「無所属」を譲らなかった。もう告示直前だったので山本太郎氏は単独で立候補に臨んだ。なお以上の記述は直接に山本氏の選挙街頭演説で傍聴した内容である。

ケース2  宇都宮健児

もう一方の宇都宮健児候補は立候補を非難するどころかそれぞれ政策論争で競いあいましょうと応じて、一度も山本候補を選挙期間中も選挙後も非難も批判もしなかった。ここに宇都宮健児氏の独自のひそかなポリシーがあった。
以下やや長くなるが宇都宮健児氏について記したい。

宇都宮健児、日本社会改善への長く明確な闘い
ー20200801うつけんZOOMライブー
 以下は東京都中野区の市民団体が開催したZOOMライブでの宇都宮健児氏の発言を聴写したものである。20008年8月1日のほぼ午後2時~4時に開催された。(文責 櫻井智志)
❶知事選を語る
 冒頭宇都宮さんは語った。韓国の視察をおこない立候補する決意を固め、それが2016年前回知事選。結果は辞退したが、今回満を持して2020年立候補した。結果は小池知事が現職でコロナ問題を、安部政府に比べよくやったと都民にうけとめられた。だが候補のテレビ討論会が一度も行われなかった。

 「れいわ新選組との共闘について。」出馬会見の頃は市民の要請を受けて、ひとりで出馬した。後から、政党が次々に応援してくれた。誰でも政策を掲げて立候補すべきと思う。選挙戦をとおして一層候補者が政策を磨きあうことが大事だ。

 「都のコロナ対策」。小池さんはオリンピックが延期決定まで対応しなかった。日本の検査は先進国中35位。 世田谷区がニューヨーク形式を取り入れ電話による申し込みでいつでもどこでも検査に応じている。政府はPCR検査を徹底する必要がある。財政力があるのに、GoToトラベルをやり真剣に取り組んでいない。
 コロナ患者を受け入れる病院ほど経営的に赤字になっている。都立病院公社病院は経営にこだわらずコロナに取り組んでいる。独立行政法人化は、民営化であり病院をだめにする。 
 国民都民に貧困化が増大している。15兆4000億の財政を都はもっている。これは北欧一国の予算なみ。都が貧困化にとりくめば解決できるのに、できていない。知事の考えが希薄である。

❷日本の政治の特質

 砂川事件の問題のときに、最高裁に市民の抗議は集まらなかった。安保闘争のときに国民が立ちあがった。日本は市民革命としていまの憲法をかちとったわけでない。
 警察は行政に属し、検察は司法に属す。黒川検事長の定年は行政が口を出すべきではない。安倍首相はそれを正しく理解していないし、国民が結果的に許す結果になっている。#検察庁案の改定に反対です、のツイッターが広がって世論にも広がる。
 国際人権規約では大学まで授業料を無償にとうたっている。その予算をどうするか、税金、法人税をもっと論議して改定すべき。国民は論議せずわかっていない。税金をどう使うか、もっと国民が関心をもち考え合う必要がある。

❸都民に応える

 少人数学級。教師が十分に取り組むには30人以下の人数にすべき。教師数や学校数を増やすべき。デンマークなどでは、教師が知識をつめこむのでなく、子どもの自らの学びを援助すべき。 
 ジェンダー平等。女性が半数なのにその人権が認められていない。また、多様な性のありかたを人権保障から考えるべきである。
 生活保護は憲法25条で「健康で文化的な生活を国が補償する」と明記している。
 健康法。小中は野球をやっていた。中二から大学まで卓球をやっていた。いまは歩くことを重視している。 「自己責任」「生活保護」自己責任という言葉は、昔はあまり使われなかった。困難な状況に置かれている人々を分断する役割をはたし、政治家を免責することばとなっている。
 兄弟が高齢になり、飢餓死して発見された。生活保護を福祉事務所に申請していなかった。生活保護を権利として受け止め、福祉もまわって援助すべき。韓国ソウル市では、それが実現している。
 人権について。個々の人間に尊厳が保障され世界的国際的な人権規約に謳われている。日本社会で実現されているのか.建前で言っていても、人権侵害の言動をくりかえす政治家もいる。
 差別によって貧困で苦労している人々の存在を、大学で知った。そこから弁護士をめざした。サラ金問題で悲惨なめに追い込まれていることに、個別救済だけでなく立法運動に弁護士として取り組んできた。
 法律を変えるために、自民党や公明党の半分以上をロビー活動として弁護士会としてとり組んできた。

❹今後の展望

 都知事選は終わったけれど、課題に社会運動として取り組んでいきたい。都議選は、都議会の7割は小池さんの与党。コロナ、カジノ、教育、家賃補助制度、など課題は来年の都議選の課題。 つぎの知事選は自分のことも含めその時の状況による。

「私たちにできること」
都議会や区議会の傍聴。要望。一緒に考えること。投票率の低
さは外国スウェーデンなどに比べても低すぎる。民主主義が根付いていない。投票率は民主主義と密接。日本では政治に関心をもつことに高校生でも偏見をもたれることを変えたい。
「座右の銘」
真理は寒梅のごとし (新島穣)
「将来の夢」
市民活動家として実践を弁護士活動ののちもやっていきたい。
保守や中道も加われるような運動を。韓国のパク・クネ大統領弾劾運動は、リベラルだけでなく保守や中道も一緒に動いた。韓国に近いのがオール沖縄の取り組みです。翁長さん自身が自民党です。
「最後に」
サラ金問題に取り組み弁護士と立法化するまで30年かかった。そう簡単に変わらないけれど誰かが変えることで社会は変わっていく。戦後ほとんど自民党政治なのはなぜかを考える必要がある。地方の市町村議選から国政まで粘り強く変えていかなければ。<了>


ケース3 自主自立の市民運動群像

 戦後史でも、市民社会論争がさかんだった頃、日本は「市民社会」を形作る経済的社会構成体が形成されておらず、市民も「臣民」を抜け出してやっと公民的状態だった。政治家の中で日本共産党委員長の志位和夫氏が「市民」「個」「個性」について着目し、それをベースに「市民と野党の共闘」を政策として位置づけている。
 首都圏反原発連合(写真)やそれをいかした全国にある市民連合は、新たな市民像を感じさせる。一つの政党の枠組みの中にある市民団体も大衆化にとって意義はある。
だが「市民連合」「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」「九条の会」をはじめ市民が自ら考え立ち上げていく動きは、若い世代でも高齢者世代でも広がっている。

➃ 野党政党の健闘と検討

 国会では、立民党・国民党・共産党・社民党など国会対策に野党が共闘しあって国民の気持ちや要求を活かして取り組んできた。
 社民党が、緊急事態法に「与野党の別なく」賛同に加わったのは反対である。だが沖縄県で多くの県民に支持され、オール沖縄の有力な政党として健闘していること、福島みずほ党首が平和と護憲の理論派として言行一致の政治家であることを応援したい。私は日本共産党を選挙で支持し続けている。 
 ただベースは #国民統一戦線 の理念である。3層からなる。1:護憲リベラルを軸とする野党の結集グループ。2:日本共産党と共闘するれいわ新選組、緑の党、新社会党。3:保守本流と護憲保守のグループ。この3つが重層的に統一戦線を結成し、反安倍反極右政権に闘う。一気に実現できずとも持続。
 当面は、政権構想で抗争せず。新型コロナパニックの政治で、個人の人権と国民主権の民主主義の立場から、専制管理主義を強権発動する安倍政権に、第二次大政翼賛会に巻き込まれぬ声を拾い集めていきたい。#地方自治体首長選や衆参一人区では平和人権護憲派を、議員選では日本共産党を主に応援したい。
立憲民主党の福山哲郎、国民民主党の平野博文両幹事長と連合の相原康伸事務局長は8月27日、都内で共同記者会見し、新型コロナ禍を踏まえた新たな社会像について、3者が共有する「理念」として発表した。原発政策などに関しては「低炭素なエネルギーシステムを確立する」とした。
立民国民にも連合の影響は大きい。テレ朝労組が民放労連から脱退したが、テレ朝労組を非難する前に、労組が追い詰められている現在は人が進歩する労働の権利を放棄させる。労働の根本的危機であることを市民が認識しなければ。

➄ 民主的立憲政権を樹立するための変革主体形成

 今の情勢のもとでは、民主的立憲政権を樹立することは困難である。それは野党側の個々人が、烏合の衆と似た不安定さをもっていて、個人として日本の改善にとり、自己の思考や感性に多数依存、空気に続く流される風潮が多いことが主な原因である。
 たとえば沖縄で平和運動センター続く流される代表の山城博治、ひとりで闘うことを決めて意を決して都知事選に出馬した宇都宮健児、山本太郎、そのような人格像が求められている。
 また国民民主党の馬淵澄夫元国土交通相は、東京都知事選(7月5日投開票)に立候補したれいわ新選組の山本太郎代表の街頭演説に駆け付け、支持を表明した。国民は自主投票を決めているが、党所属議員が山本氏の応援に入るのは馬淵氏ひとりだった。組織に自分なりの信念を表明するくらいの主体がなければ、あっと言う間に自民党入りした議員もいた。
 民主党政権で厚労相に就任した長妻昭は、毅然として厚労省の官僚におもねずに任期最後まで貫いた。また小澤一郎氏は政権交代に賭けて深謀にたけ、自民党幹事長を振り切って野党で一貫して実践し続けた。毀誉褒貶するがこのかたの存在はいまの日本に重要な意義をもっている。<了>

(近日中の『「民主的立憲政権樹立の探求」下』へ)

【色平哲郎氏のご紹介】ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎

2020-08-22 13:17:28 | 転載
色平哲郎氏のご紹介で、山岡淳一郎氏著書『ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)』を知った。深い示唆に富み感銘を受けた。原文の章に仮題のみ付して、色平氏の紹介文章だけを以下に記す。ぜひ店頭でご購読をお薦めします。(櫻井智志)
構成
➀エイズと人間宣言
➁若月俊一の厳しい闘いと結実
➂世界の医学研究と日本の「医局講座制」
➃SARS発生克服の歴史と17年後のコロナ登場



本文開始
Ⅰ:エイズと人間宣言
【ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎、225p】
 1994年8月、「横浜国際エイズ会議」が開かれた。壇上にはカーテンが下ろされ、客席から日本人被害者の姿は見えなかったが、アメリカや欧州の被害者は実名を公表し、顔をさらして聴衆と向き合う。アメリカ人男性のスピーチが聴衆の心を揺さぶった。「私は昔、エイズであることを隠していました。ところがある日、娘にこういわれました。『お父さんはいつも私たちに正直に生きろといっているわね。そのお父さんが、なんで病気のことを隠しているの』。娘のこの言葉はショックでした。この日から私は、自分がエイズであることを隠すのをやめたのです」

  高校を卒業したばかりの川田龍平(現・参議院議員)は、「このスピーチを聞いて、僕もみんなの前で話をしたいと思うようになりました」と著書「日本に生きるということ」に記している。川田のほかにも18歳の日本人青年が実名公表を訴えていたが、親の仕事や兄弟の結婚、就職などでの差別を考えると踏みきれず、ひっそりと亡くなった。
「そんな悲しくて辛い最期にならないために、一人でも多くの人が胸を張って歩ける世の中にしたい。このとき僕は、はっきりした人生の目標ができたのです。『薬害エイズの真実』のシンポジウムが終わった後、参加した各国の被害者と相談して、『ノー・モア・サイレンス』というアピールを出すことになりました。


 『もう黙っているのはやめよう。声を出して訴えていこう』という宣言です、、、僕は、この瞬間に実名を公表する決意を固めたのです」と、川田は自著で述べている。
1995年、3500人もの「人間の鎖」が厚生省庁舎を取り囲み、96年には厚生省前での座り込み運動が3日間行われる。厚生大臣の菅直人(のち首相)は国の法的責任を認め、山が動く。96年3月29日、7年にわたる裁判で和解が成立した。

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Ⅱ:若月俊一の厳しい闘いと結実
【ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎、156p】


 話の舞台を、戦争が終わる前の信州、千曲川沿いの南佐久郡臼田町(現・佐久市)の佐久病院(現・JA長野厚生連佐久総合病院)に移そう。
こんにちの佐久総合病院グループは、高度専門医療と救命救急を担う「佐久医療センター」(450床)と地域に密着した「佐久総合病院本院」(309床)、南佐久の中核病院である「小海分院」(99床)を中心に老人保健施設や訪問看護ステーションなどを傘下に収め、信越地方有数の医療複合体に発展している。「農民とともに」をスローガンに掲げ、国際保健医療にも熱心で「地域医療のメッカ」と称されているが、そのころはまだ診療所に毛が生えたような病院だった。ここに敗戦の5か月前、3人目の医師として

 若月俊一(わかつきとしかず、のち院長、名誉総長:1910ー2006)が赴任して、山あいの町は驚天動地の医療革命の最前線に変わった。庶民にとって医者にかかるのは身上を潰すほどの「ぜいたく」なのに、若月は誰でも診る。それどころか「手術」までして命を助けてくれる。驚くなという言うほうが無理だった。若月は、1936年に東大医学部を卒業している。東大分院外科の大槻菊男教授のもとで修行を積んだ。徴兵された若月は、軍医見習士官として牛込の陸軍軍医学校で学ぶ。ノモンハンに出征する前、十代で患った肺結核がぶり返し、「東一(臨時東京第一陸軍病院)」に半年間入院した。退院して除隊の命令が届いた。人の運命は不思議なものだ。あの石井四郎と若月は面識があった。後年、若月は「石井軍医のことは知っていた。酒席の誘いも受けた。部隊にも勧誘されたが、母親の体調がすぐれないとか何とか、ごまかして逃げた。同期の戦友はみんな死んだよ」と語っていた、と佐久病院の医師が教えてくれた。石井から逃げて運命が変わったひとりだろう。太平洋戦争中、若月は「大衆の中に身をひそめて大衆とともに闘うことが本すじ」と考え、石川島造船所や立川飛行機、石川県の小松製作所などの軍需工場に入った。診療をしながら労働災害の調査をし、学会で何度か発表をした。
それが特別高等警察(特高)の目にとまる。治安維持法違反の容疑で、東京の目白警察署に勾留された。まる1年、留置所に入れられ、毎日、尋問で責め立てられて、唐突に釈放される。恩師の大槻教授を訪ね、若月は畳に手をついて詫びた。そのときの大槻の反応を、自伝『村で病気とたたかう』にこう記している。
「いや、君が主張したようにこの戦争はどうも負けらしい。
東京もまもなく焼野原になるだろう。僕は天皇の侍医だから、天皇といっしょに東京にとどまって死ぬつもりだ。しかし、君のような新しい考えをもっている者は、生きのびて国民のために尽くしてくれないか。国破れて山河ありというが、たとえ日本が負けても日本の民族がほろびるようなことはあるまい。新しい日本の再建のために、山の中で農民のために働く気はないか」
こうして信州・臼田の佐久病院への赴任が決まったのだった。


 臼田の町は、北に浅間山、南は八ヶ岳連峰がそびえ、高山列車の小海線がコトコト走るのどかさと、旧天領の封建的な気風が入り交じっていた。若月は地域で唯一の外科医だった。手術治療をしなくては意味がない。しかし手を消毒する滅菌水の設備もなかった。どうにか設備を整え、3か月後には乳がんの手術を行う。外科治療は外来だけでは無理なので、病院内の物置を片づけ、患者を入院させた。臼田の人たちは目を白黒させて驚く。というのも、それまで臼田や近隣の町村の農民は医療に手が届かなかった。医師は、遠い小諸や長野から呼ばなければ診てもらえない「ぜいたく」な相手だった。医師に往診を頼むことを、「芸者をあげる」に似たニュアンスで「医者をあげる」と言う。
よほどの資産家でなければ、医者をあげての大盤振る舞いはできず、手術など夢の夢だったのである。若月の診療は衝撃的だった。『ノルトマン、キルシュネルの手術書』全10巻や『ドイツ医学中央雑誌』と首っ引きで帝王切開から慢性中耳炎、泌尿器の病気と、あらゆる手術を行う。しかも手術場に観覧席を設け、患者の家族に手術を必ず見学してもらい、術後の経過を一緒に見守った。当初、手術に恐怖心を抱いていた人たちも、その効果に目をみはる。青年団や婦人会と連絡を取って、「出張診療」にも出かけた。若月の名は近郷近在に知れわたる。戦争が終わり、町にも虚脱感が漂ったが、若月の診療は止まらなかった。農民でも手術が受けられて、医療に革命が起きたようだった。
しかし、1946年に佐久病院に従業員組合が結成され、初代組合長に若月が選ばれて上部団体の長野県農業会(のち解体されJA農業協同組合)と団体交渉をしたあたりから、雲行きがおかしくなった。農家の「純粋青年」たちが、病院は臼田の秩序を壊す、と反感を持つ。メーデーで若月組合長は「労働者農民の統一戦線をつくろう」と演説し、医師や看護師が白衣のデモ行進をすると、即座に反動が現れた。

 長野県警察で長く特高を務め、公職追放された人物が、事務長の肩書で佐久病院に赴任してくる。地元の保守勢力は、露骨に病院運営を妨げた。
「命が惜しくば直ちに臼田を撤退すべし」
「汝の一族に鉄槌下るべし」と脅迫文が舞い込んだ。
新聞に「病院はアカの巣窟である」と載る。長野県農業会本部は、組合を解散しなければ病院を閉鎖する、と脅した。若月は病院長に就任し、農業会本部との十数回の激しい交渉を重ね、前代未聞の「労働協約」を結ぶ。病院の診療体制は、辛うじて守られた。

 戦後民主主義の価値観がぶつかる混乱期に若月は感染症差別ともわたり合った。そうして佐久病院に「伝染病棟」を建てると言いだしたのだ。またもや町は上を下への大騒動となった。『村で病気とたたかう』をもとに「伝染病棟」建設の顛末を再現しておこう。

「避病舎」と外科手術

若月には、臼田に腰を落ち着けると決めたときから気がかりなことがあった。町のはずれの小さな神社のそばの「避病舎」だ。平屋のそまつな建物で、障子は破れて、畳はぼろぼろ、便所は汚い。井戸にポンプはなく、釣瓶(つるべ)で水をくみ上げる。伝染病にかかった人は、ここに入れられ、一日一度だけ医者の往診を受けた。三度のお粥は保健婦(現・保健師)がこしらえる。農繁期には建物を消毒し、託児所にも利用するのだが、あばら家同然で不衛生きわまりない。伝染病患者は姥捨(うばす)てのような処遇を受けていた。町の衆は「避病舎」ではなく、「死病舎」と陰口をたたく。そのころ、農村には赤痢にジフテリア、腸チフス、発疹チフス、天然痘と伝染病がはびこっていた。若月は、他人ごとではないと思い、寒気がした。

 ある夜、「先生! 先生! 急患です。子どもが大変です」と保健婦が駆け込んできた。眠い目をこすりながら起きていくと、「避病舎にいるジブテリアの子どもが死にそうなんです。喉(のど)のなかが腫れ上がってつまって、夜中になって急に息ができなくなりました。ヒイヒイいって、だんだん顔が紫色に腫(は)れあがってきました。
チアノーゼです。まるで喉を締め上げられているようで、とても見ていられません」と保健婦は息せき切って喋り、若月に手術を哀願した。
「先生の手で気管を切開する手術をやっていただけませんか。たぶん助かります」
若月は気管切開術の経験がなかった。
ジフテリアは、ジフテリア菌による急性感染症である。患者や無症候性保菌者の咳などの飛沫を介して感染する。潜伏期間は2ー5日。感染しても症状が出るのは1割で、多数の無症候保菌者を介して感染する場合がある。症状は、咽頭(いんとう)や喉頭(こうとう)の病変が多く、発熱に嘔吐、頭痛、咳に始まり、扁桃(へんとう)や気道に「偽膜」が形成されて呼吸困難をきたす。

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Ⅲ:世界の医学研究と日本の「医局講座制」
【ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎、102p】

 1914年12月15日の衆院本会議では政友会の代議士で医師の若杉喜三郎が賛同者31名とともに提出した「質問主意書」の説明を行った。若杉自身、東京帝国大学医科大学の卒業生である。「青山学長は私情をもって公事を犠牲にし、医科大学長として衛生行政の運用と伝染病の研究を著しく阻害した。その他の教授も平然として後任者を送り込み、反省するどころか、学閥をつくって地位の安泰を図っている。伝研には世界的な発見があるのに大学教授には業績がなく嫉妬心を持っているだけである。配下の助教授、助手は教授の鼻息をうかがっている。こういう薫陶を受けた学生が社会に出ることを考えると、大学は広く世道人心に悪影響を及ぼしているといえる。なぜ政府は大学の教授に対して懲戒を加えないのか」この問責への政府の回答は、「質問のごとき事実なし」の一行であった。

 しかし、若杉の質問は、医学界のパターナリズムの弊害を鋭くえぐっていた。世界の研究所は、コッホ、パスツール、北里のような強力なリーダーを頂点に部下が総力を結集している。かたや東京帝大医科大学では、内科や外科の講座ごとの教授は同格同等で、それぞれの教授の下に助教授、助手の序列ができ、「教授の鼻息」が過大視された。
いわゆる「医局講座制」の権威主義が、医学界をおおい尽くしていた。明治の初め、お雇い外国人の教官に師事した日本人学生は、卒業後、ドイツを中心に海外へ留学した。
かれらが帰国すると、次第に外国人教官にとってかわる。

 明治中期、帝国大学は、20の医学講座を設け、16人の教授を就任させた。教授たちは附属病院では各診療科のトップに収まり、助教授、助手を従えて「医局」を束ねる。こうして診療と、教育の講座が重なり、どちらも医局単位で行われて、医局講座制ができあがった。医局講座制は効率よく医学を浸透させるメリットを持つが、結果的に閉鎖的で家父長主義に染まった医師集団を生んだ。教授の胸三寸で、配下の働き先や序列が決まり、忠誠心が試される。若杉の青山糾弾には、私情で左右される医学界への怒りがこもっている。伝研の文部省、東京帝大への移管は、別の見方をすれば、総合研究が医局講座制に呑み込まれたといえるだろう。教授が診療と教育を支配する医学界の強権的体質は、やがて軍靴の音の高まりとともに日本の伝染病研究を、戦慄の人体実験へとねじ曲げる。

 第一次世界大戦中、戦火が及ばない日本は連合国側で「大戦景気」を謳歌した。開戦後わずか5年間で日本の国内総生産は約3倍に増え、工業生産高は5倍増を記録する。「輸出」が成長の原動力だった。産業界は欧州に軍需品を送り、生産体制が崩れたイギリスに代わってアジア諸国に綿製品を売る。日露戦争の戦費調達で借金まみれだった日本は、一躍、債権国に変わった。「世界のなかの日本」「一等国の仲間入り」と民草は喜んだ。


 だが、またしても戦争から平和への時代の変わり目に恐るべき伝染病がパンデミックを起こし、世界は震え上がる。史上最悪のインフルエンザ、「スペイン風邪」が襲来した。

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Ⅳ:SARS発生克服の歴史と17年後のコロナ登場
【ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎、239p】

 SARSは発生から約4か月も隠された。2002年11月、広東省仏山市の村で管理責任者を務める男性が地元の医院で「原因不明の肺炎」の治療を受けた。SARSの第1号患者だった。あっという間にアウトブレイクが起きる。患者は高熱を発し、筋肉痛や喉の痛み、悪寒を訴え、呼吸困難に陥った。人工呼吸器が装着され、胸部のX線写真にはまっ白な肺が映っていた。11月27日、WHOのGOARN(地球規模の感染症に対する警戒と対応ネットワーク)の一員であるカナダの国際保健衛生専門家が、中国のインターネット・メディアの観察と分析をとおして「インフルエンザのアウトブレイクが起きている」とWHOに報告した。数日後、WHOは、中国当局に照会するが、反応は鈍い。胡錦濤(こきんとう)が共産党総書記に選ばれたばかりの中国政府は、感染症の流行を伏せようとし、他国の介入を嫌う。2003年2月、ようやく中国側は、広東省で肺炎が流行し、305人が感染して5人死亡という簡単な情報を出す。肺炎の原因はクラミジアという微生物で、感染は収束したと付け足した。
だが、実態は正反対だった。

 3月初旬、WHO西太平洋事務局(WPRO・本部マニラ)の専門家らと中国疾病予防管理センターの研究者との会議が北京で開かれ、感染者が倍増し、死者が25人に増えたと報告される。ベトナムのハノイでは、商談にやってきた中国系アメリカ人男性が発症し、フレンチ病院に入院した。男性は人工呼吸器につながれたまま容態が悪化して、家族の強い要望で香港の病院に転院した後、亡くなる。男性は香港のホテルでウイルスに感染していた。男性の治療に当たったフレンチ病院の医師と看護師が次々と倒れる。院内感染で20人以上の職員がベッドに横たわった。同僚の医師や看護師が感染を恐れて逃げ出すなか、WHOハノイ事務所のイタリア人医師、カルロ・ウルバニは患者のなかに入って診療をつづける。ウルバニはフレンチ病院を閉鎖して現場にとどまり、患者を治療しながら世界中の研究者にウイルスの正体をさぐる情報を送りつづけた。ベトナム政府と交渉し、ハノイで未知のウイルスが広まっている事実の公表に踏み切らせる。香港の病院でも院内感染が拡大した。WHOは3月12日、ウルバニの情報をもとに非定型肺炎の症例に関する「グローバルアラート(世界への警告)」を出す。カナダのトロント、シンガポール、インドネシア、フィリピン、タイと患者発生の報告が続々と入る。3月15日、謎の肺炎をSARS(重症急性呼吸器症候群)を名づけた。すべてが「時間との勝負」だった。そしてウルバニは、、、ハノイで初めて男性患者を診てから27日目に急逝した。ウルバニ自身も感染していたのだ。人工呼吸器を取りつけて息も絶え絶えのウルバニは最期にこう言い残したという。

「My wife, my children.」
ウルバニには同郷の幼なじみの妻と、二人の息子と一人の娘がいた。


権力の面子が犠牲者を増やす

 現場での決死の努力とはうらはらに中国政府は、その後も非協力的だった。WHOは2003年4月2日、過去にない荒療治を行う。中国の広東省と香港への「渡航延期勧告」を出したのである。世界貿易機関(WTO)に加盟して世界市場とリンクした中国にとって渡航延期の措置は痛手だった。WHOの女性事務局長グロ・ハーレム・ブルントラント(小児科医・元ノルウェー首相)は、中国を名指しで責めた。「WHOと国際的な専門家たちが、より早い段階で支援できたほうがよかったのは明らかです。WHO事務局長として言いたい。世界のどこであれ、次に何か新しい、奇異な疾病が察知されたとき、できるだけ早く、わたしたちに関わらせるべきです」隠蔽を許さない強いメッセージだった。
たとえ中国からの拠出金が減っても正論を言わなければ世界の保健衛生の根幹が崩れるという危機感がにじんでいる。胡錦濤政権の面子はつぶれた。渡航延期勧告で人や物資の流れが制限される。SARSは流行した約8か月の間に8098人の症例が報告され、774人が亡くなった。病原体のSARSコロナウイルスは、致死率約10パーセントの強い毒性をもっている。感染者の8割は軽症で2割が重症化した。17年後に現れる新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のプレビューだった。
<了>


【大阪は町民自治と自立の反権力のシンボルのまち】

2020-08-20 17:31:04 | 言論と政治
箕面市長市議選挙2020.8.20

Ⅰ #2020大阪府箕面市長選住谷のぼるの闘いは 大阪維新の会を箕面市で食い止める闘い

前回の箕面市長選の結果は
倉田 哲郎 無所属 39,787票 当選
住谷 のぼる 無所属 9,327票 落選
である。得票率は8割対2割。今回は大阪維新が推す無所属、共産党が推す住谷のぼる候補、N国の候補の3人が立候補している。
今回の選挙で、府知事大阪市長を独占する大阪維新の会に対して、住谷のぼる候補が「みんなの会」を母体に最後まで戦い抜き大阪維新政治にどれだけ気魄をもって闘うかが最大のエネルギーである。

➀市議選神田たかお名手ひろき村川まみ #全員上位当選が最大の市長選戦略
  
➁#大阪自民良識派元公明・創価学会民主派に大胆に 呼び掛け宣伝戦術に協力を
  
③#立民国民社民れいわ新社緑と全面共闘


Ⅱ #箕面市議選 #神田たかお #名手ひろき #村川まみ の全員上位当選は重要な市長選戦略

❶選挙戦術

➀ 村川まみSNS方式を他候補も取り入れるPR

➁SNSは印象的なアピールの工夫をし、実際の顔見せと相乗効果を

③三候補は自分の宣伝にさりげなく他の二人の候補、住谷のぼる候補の名前を入れる


❷共産支持層の外側にもアピールする勇気を
  

❸大阪府政―箕面市政にしぼって共産党政策―大阪府~箕面市を具体的でわかりやすくPR

TBS終戦スペシャルと現代世相の非常口

2020-08-15 20:55:40 | マスコミ報道への私見
第1章   女性たちの8・15

➀#17歳の女性が志願し神風特攻後続隊に所属。桜花・福龍など美辞に飾られた精神主義の片道だけの特攻。戦争末期に人間が爆弾となってアメリカ軍に向かっていくことが美化され当たり前の空気が醸成されていた。このような「空気」は今も日本を覆う。意図的に空気を醸成する恐怖。

➁「国のために潔く死ぬ」という。潔く死ぬとは、どんな内容か?生命を軽々しく投げ出し軍事的作戦に悪用されたことではないのか。「8・15閣僚靖国参拝」に4人の閣僚が公式参拝した。高市総務相・小泉信次郎環境相・萩生田文科相・後藤沖縄・北方相。戦争の亡霊を引き出す4人の閣僚。落選運動で軍国主義国家づくりの居直りからNO!を表明しよう。個人でなく、国家の中枢を担う閣僚の見識を欠く欠陥大臣達。

③戦地にむかう兵士にも、出征兵士を送り出す国防婦人会も、真面目で真剣、人柄も善人だったろう。真面目であり、#お国のことを真剣に思うことがなぜ悪い?#それを私たちが自ら問うことをなければ、私たち自身が「真面目で真剣に」「お国のために」熱狂する恐怖の事態もありうる。
 栗原貞子さんのお顔を拝見しあっと思った.詩「産ましめんかな」は文学的にも反核文化でも戦時中に防空壕で若い妊婦が激痛と闘い周囲の協力で無事出産する様子を詩にした。これは曲がついて歌として「ノーモアヒロシマコンサート」で拝聴したことがある。

第2章 綾瀬はるか「戦争」を聞く

➀「原爆はすごい差別だった」「真珠湾攻撃で恋人を喪った」上皇陛下は天皇の時に4つの忘れられてはならない日があるとおっしゃった。
「8月15日敗戦記念日」
「8月6日広島に原爆が落とされた日」
「8月9日長崎に水爆が落とされた日
「6月23日沖縄慰霊の日」

➁栗原貞子『生ましめんかな』
 https://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/database/KURIHARA/umashimenkana.html

こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。(後略)

③「長崎爆心地で少女は何を見たか」
綾瀬さんは、その少女を訪ね、いまは老境にある龍千江子さんから被爆直後の長崎でのできごとを聞く。写真からわかった菅原耐子さんの家に訪ね一緒に長崎にむかう。被爆した女性への差別はすさまじいものだった。
菅原耐子さんの味わった体験は筆舌に尽くせものだった。龍千江子さんの温かいこころが菅原さんにも共有すえうものだった。ひととひとの繋がりに温かいコミュニケーションが生まれた。

➃6月23日、沖縄慰霊の日。沖縄戦ははげしい戦闘だった。しかしその前に対馬丸事件がおきた。対馬丸に乗船した沖縄県の疎開児と教師はアメリカ海軍潜水艦の魚雷によって撃墜された。アメリカの軍艦に撃墜された沖縄の疎開児たちは、どの子もどの子も顔を海に沈め生きているひとは誰もいなかった。犠牲者1482人。1998年海上慰霊祭が行われた。
番組冒頭、なぜ綾瀬さんが戦争を毎年取材するか、親子の深い会話が流された。<了>


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第3章

資料TBSTVホームページ転載

番組内容
[第一部]
関口宏が女子高校生とともに「女性たちと戦争」を考える。女性たちが経験した戦争の現実とは?
終戦の日の前日に「日本は負ける」と知らされた女性アナウンサー、特攻に志願した17歳の少女、そして満州で集団結婚式を行った「大陸の花嫁」…。
戦争に翻弄された彼女たちの証言に、令和の女子高校生は何を感じるのか?
[第二部]
10年にわたって多くの戦争体験者から証言を聞いてきた綾瀬はるか。
日本人が忘れてはならない4つの日を中心に、これまでの取材を振り返るとともに、貴重な“戦争の記憶”を語ってくれた方々にリモートで再会する。
差別を乗り越え、証言を続ける被爆女性の覚悟。そして長崎の爆心地で撮影された少女の写真に秘められた物語。
コロナ禍でも戦争を語り継ぐ意味とは?

専制とレジスタンス

2020-08-12 00:02:58 | 言論と政治
櫻井智志ツイッター転載 #news23   2020.8.11

専制とレジスタンス


櫻井智志@民主的立憲政権の樹立
@satoshitoday
3分
#news23 安倍政権が「黒い雨」訴訟に広島地裁が下した道理をふまえた判決を控訴するという。呆れて言葉もない。核兵器禁止条約に加わらない、原発には再稼働をすすめ、福島原発被害者を援護しない。アメリカには言いなりになり沖縄に米軍がもちこんだコロナになんの抗議も言えない。被爆者の敵である。



櫻井智志@民主的立憲政権の樹立
@satoshitoday
29分
#news23 #周庭さん逮捕 中国共産党は大きな誤謬を犯した。中国民衆は言いなりに従う清王朝の時代とは異なる。天安門事件の勃発、青年たちを銃撃で弾圧。無言の中國民衆がたちあがる時がくる。一揆主義でなく生産力の発達に伴う国民の交流の進化は全体主義批判に他国民と共に天を革める時がくる。

民主的立憲政権樹立の探求(上)    櫻井智志

2020-08-06 19:58:40 | 社会思想史ノート
構成
❶2014年の提言(上)・・・・・本稿
❷2020年の実態(中)
❸民主的立憲政権樹立の構想(下)


Ⅰ:2014年の提言~国民統一戦線への展望 

➀ 主題と拙著『座標―吉野源三郎・芝田進午・鈴木正』

  2014年1月。私は『座標―吉野源三郎・芝田進午・鈴木正』を、発行いりす・発売同時代社から出版した。そこでは古在由重と三人の思想家から、変革主体形成の在りかたをまなび、主体の生き方を土台として、「国民統一戦線への展望」を終章で明記した。

目次

序 章 歴史的現代と古在由重

第一章 私たちはどう生きるかー吉野源三郎
 第一節 吉野源三郎との邂逅
 第二節 継承者としての緑川亨と安江良介
 第三節 『追悼集 安江良介 その人と思想』を読む

第二章 人類生存哲学の思想―芝田進午
 第一節 たぐいまれな実践的知識人 芝田進午
 第二節 現代に対峙する〈芝田学〉のトルソ
 第三節 予研=感染研裁判闘争と「人類生存の思想」
 第四節 「人類生存の哲学」構築の礎

第三章 自立的精神への探求―鈴木 正
第一節 自由と抵抗の思想家たち
第二節 日本近代思想の水脈
第三節 自立性と独立心の思想史学

終 章 国民統一戦線への展望
(終章1~7の後半4~7を以下➁~➄に掲載)

➁ 1960年安保闘争

1960年安保闘争は、戦後日本の国際外交のありかたを問うとともに、戦前に臣民として社会的存在を規定されていた国民の主権者としての生き方を問う闘いであった。私が学んだ高校日本史教科書でも、明治維新いらいの民衆闘争史でも最大の規模の闘争として歴史に残る大規模な民衆闘争であると位置づけられていた。
 最近論壇に活発な民主的論議を促している論客である孫崎亨は、外務省の国際情報報局長や防衛大学校教授を歴任し、体制側の重要な位置を占めていたが、現在の問題提起は革新的で圧倒的である。孫崎は日米安保条約を遡る日米地位協定を改革することを唱えている。また、60年安保闘争についても、アメリカからの扇動がおこなわれたとする。私はこれらの新たな論点を留保しつつ、通説の安保闘争の経過を通して安保共闘の意義を述べたい。
 国会では圧倒的な議席数をほこる保守勢力に比べて、社会党共産党の議席は少ない。それがあれだけ大規模の国民的闘争を決行できたのは、まさしく草の根の国民的闘争としての闘争の質があったからである。当初はあまり闘争も盛りあがらず運動の側は、悲観的な見通しであったと聞く。それが何度もの統一行動をくり重ねて、アメリカ首脳部の来日をストップさせて、首相の退陣にまでおいこんだ。これだけの運動を遂行し得た共同闘争は大きな意義をもつ。
 同時に、戦後の変革で大きな勢力のひとつとして、「全学連」があげられる。「全学連」には日本共産党の指導がなされたが、日本共産党と対立して日本トロツキスト連盟が57年1月に結成され、10月に名前を変えて革命的共産主義者同盟となった。58年12月には日本共産党から除名された学生党員たちが共産主義者同盟(第一次ブント)をたちあげた。反共産党系の「全学連」運動についても丁寧な検証が必要である。島成郎、唐牛健太郎、森田実などの指導部は俗称代々木系全学連に対する反代々木系全学連のリーダー格だった。安保条約が自然承認を迎え、安保闘争は敗北感のなかで終わった。安保闘争の主導権争いや政治闘争は、決して単純には割り切れないものがあり、沖縄で地域精神医療に取り組み続けた島成郎やいまも青年たちを「森田塾」として指導している森田実らのその後の生き方には、敵のスパイ、跳ね上がりと決めつける安易さを否定するだけの重みがある。
それでも、たくさんの全国の学生運動を、共同と連帯のもとにどのように指導したかということにおいては、ブント全学連や革共同の中核派や革マル派などは、社会状態を認識しどう変革するかの構想力においてあまりに貧弱だった、と私は考える。彼らを「トロツキスト」と呼び批判する日本共産党の側が、すべて正しく誤謬がないとも思わない。国民的な大闘争であったから、勝利も敗北も、正義も誤謬も、すべてひっくるめて、この60年安保闘争からその後の民衆闘争が学ぶものは大きい。
 私はこの闘争の詳細な論述をこの終章でおこなうつもりでとりあげたいのではない。日本社会における統一戦線運動の今後の展望を見通すために、安保闘争に立ち返って問題点をまなぶ重要な闘争として考えている。

③ 地域自治体民主化闘争

 京都の蜷川府政は1950年から続いていた。これは社共統一というよでりも戦前のファシズムに反対し、戦後の民主化のエネルギーを活かした先駆的自治体だった。
 1963年からは社会党員飛鳥田一雄の横浜市長が続いた。1967年に「明るい革新都政をつくる会」のもとに美濃部亮吉が都知事となった。71年には、大阪府で黒田了一府知事が誕生し、川崎市、吹田市、高松市、小金井市、恵那市、立川市でそれぞれ革新統一自治体が生まれた。
 1972年には、沖縄県、埼玉県が革新統一自治体となった。73年には名古屋市、日野市で革新統一候補が勝利した。74年には、香川県、滋賀県で革新統一知事が誕生した。75年では東京、大阪、神奈川の革新知事が当選している。77年には名古屋市で社共統一が勝利を収めている。このようにして、全国の多くを革新自治体が占めた。

 これらの革新統一自治体はやがて次々に自民党や民社党、公明党、社会党右派が推す候補にやぶれていく。『社会資本論』などの創造的な学問で著名な宮本憲一は、革新自治体の成果とともになぜ退潮したのかについて、「革新自治体の退潮は、『シビルミニマム論には、重大な弱点がありました。基本的には産業政策と財政政策が抜け落ちており、経済的不況がくると弱さを露呈しました』」(『地方自治の歴史と展望』自治体研究社、1986年)と捉えている。
 宮本も含めて、多くの専門家は衰退の原因として内部的要素とともに、外部からの攻撃や社共関係の悪化、自民・公明・民社などの政党の動きにも触れている。
 私は、革新自治体がせっかく革新統一戦線を構築しながらも、革新統一戦線政府樹立という国政レベルでの共闘と政治主体確立が未完成に終わった結果、国政に取り組む革新政党の政治家たちが、国から自治体へ支援をおこなうことができなかったことに、革新統一自治体敗北の大きな原因があると思う。
 それでも、革新統一戦線によって太平洋メガロポリスと呼ばれる広範な地域を自治体選挙闘争に取り組み成就した運動の歴史は、戦後史におけるかなり意義の深い重要な成果と見る。

 ➃ 2014年における統一戦線の具体像探求

 現在(2014年当時)、日本社会は、東日本大震災が明らかにした地震列島にはりめぐらされた原子力発電所により、異常きわまりない人間と自然に及ぼす壊滅的危機にさらされている。同時に、世界史的に意義をもつ非戦不戦の憲法も、自民党政権とそれを支持する亜流政党とによって、解釈改憲・明文改憲の総体によって骨抜きにされる現実的事態に追い込まれている。さらに、唐突な「特定秘密保護法」の強行採決がなされた。それに対して、民主党から共産党までの野党が国民的闘いを土台に優れた共闘を国会内外で見せた。

 反動政治の危機を国民の側が意識しているのと同様に、この国の支配層は民衆がその危機を解決することを、可能な限りの策略や陰謀で阻止しようとしている。革新統一戦線による太平洋メガロポリスが燎原の火のように広がって、自治体から革新統一戦線政府へと国政の変革に及ぼうとするその瞬間に、日本の支配層は徹底的に日本共産党のウイークポイントを叩くとともに、社会党と公明党に政党合意を結ばせ、社会党が共産党とは政治共闘を組まないようにさせた。参院選東京選挙区で見事当選した山本太郎に、テレビ放送局は政府批判の発言におよぶと突然CMに切り替えるなど唖然とするような抑圧を行った。週刊誌はスキャンダルとして一斉に山本太郎の私的問題をあることないことスクープでセンセーショナルに取り上げた。彼が真剣に主張している正論を潰すために。

 参院選東京地方区の日本共産党吉良よし子は、首都圏脱原発再稼働反対行動に、笠井亮衆院議員らとともに参加し続けた。大震災で東京から沖縄へ移住した三宅洋平は、音楽家であるが、音楽活動とともにスピーチし、緑の党比例区から参院選に出馬した。若者たちは彼の真剣なスピーチに耳を傾けた。緑の党総体の得票が少なかったので、当選にはならなかったが、得票そのものは自民党の下位当選者たちよりもはるかに多く15万票近く獲得した。新たな統一戦線運動は、このような草の根からわき出てきた民衆運動を視野にいれる必要がある。

 革新統一戦線は社会党と共産党が主になって結成した。いまは中曽根政権の謀略的政治支配によって、国労など公労協は完全に弱体化し、社会党の多くは民主党に移り、社会民主党はなかなか健闘しているが、2012年総選挙では社共ともに惨敗。参院選で共産党が躍進したのに、社民党は2議席確保にとどまった。
 元京都市長選候補者で京都府立大総長だった広原盛明や神戸の元教師佐藤三郎らの「護憲円卓会議」は、護憲勢力の活性化を心がけて健闘している。

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【2014年の提言~国民統一戦線への展望粗案】

 私は、日本共産党はまず日本共産党として結束し発展すればよいと考えるようになった。革新統一戦線の時は社会党と共産党がほぼ互角か共産党の議席が少ない状態だった。いま社会党にあたる勢力が、社民党、新社会党、緑の党、みどりの風、社会大衆党などの「護憲リベラル」結集勢力と思う。一党にまとまらなくとも、イタリア版オリーブの木形式でもよい。「護憲リベラル」として結集すること。そのうえで日本共産党と提携したらどうか。その提携に一緒に戦える保守政党人なども結集していく。
 政党政治が今の日本の議会制民主主義の根幹だが、「議会制独裁主義」が広がっているいま、国民的規模での統一戦線を3つの段階を考えて構築したらどうだろうか。

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➄ 統一戦線と変革主体形成

 ここで、統一戦線の主体をになう個々の個人の存在のありようについて付言したい。

 序章(『座標』序章 歴史的現代と古在由重)で見たように、古在由重から各節で論じた吉野源三郎、芝田進午、鈴木正らに共通する特徴がある。それは、どんな思想や教条が正しいかを言い張ることよりも、他者に開かれているという点である。小宮山量平は、「統一体質」と「分裂体質」とを表象した。20世紀に、中国で分裂し闘争していた国民党と中国共産党は、目前の侵略国家日本軍に対して「国共合作」を成し遂げて、ついに日本軍を破って中華人民共和国の建国にたどりついた。ヨーロッパでもコミンテルンのディミトロフが提案した「反ファシズム統一戦線」は、第二次世界大戦をはさんで、イタリアのファシズムやドイツのナチズム、日本の天皇制軍国主義に闘う集団的主体の形成に取り組んだ。

 21世紀の今日に、統一戦線を結成するためには、日本共産党においての組織論の民主集中制は継承され検証されてきたものであるけれども、国民ないし日本に定住する民衆全般にわたる組織論としては、「円卓の論理」「フォーラムの論理」がふさわしい。統一戦線のテーブルにつく全ての個人と集団が対等に意見を述べ、行動の決定においても、少数派の意見が行動に反映される必要がある。諸個人は自らの見解を披歴するとともに、他者の意見を十二分にわきまえて納得し、行動においてはそれぞれが他者の存在を認めながら、一致点を追求する必要がある。統一戦線が成立するためには、積極的に相手の存在と見解とを尊重して吸収できるだけの確固とした人格が、成員に形成されていなければならない。

<了>(近日中の『「民主的立憲政権樹立の探求」中』へ続く)

宇都宮健児、日本社会改善への長く明確な闘い

2020-08-02 07:43:28 | 言論と政治
宇都宮健児、日本社会改善への長く明確な闘い
ー20200801うつけんZOOMライブー

 以下は東京都中野区の市民団体が開催したZOOMライブでの宇都宮健児氏の発言を聴写したものである。20008年8月1日のほぼ午後2時~4時に開催された。(文責 櫻井智志)


❶知事選を語る

冒頭宇都宮さんは語った。韓国の視察をおこない立候補する決意を固め、それが2016年前回知事選。結果は辞退したが、今回満を持して2020年立候補した。結果は小池知事が現職でコロナ問題を、安部政府に比べよくやったと都民にうけとめられた。だが候補のテレビ討論会が一度も行われなかった。

「れいわ新選組との共闘について。」出馬会見の頃は市民の要請を受けて、ひとりで出馬した。後から、政党が次々に応援してくfれた。誰でも政策を掲げて立候補すべきと思う。選挙戦をとおして一層候補者が政策を磨きあうことが大事だ。

「都のコロナ対策」。小池さんはオリンピックが延期決定まで対応しなかった。日本の検査は先進国中35位。 世田谷区がニューヨーク形式電話いつでもどこでも検査に応じている。政府はPCR検査を徹底する必要がある。財政力があるのに、GoToトラベルをやり真剣に取り組んでいない。
コロナ患者を受け入れる病院ほど経営的に赤字になっている。都立病院公社病院は経営にこだわらずコロナに取り組んでいる。独立行政法人化は、民営化であり病院をだめにする。 
国民都民に貧困化が増大している。15兆4000億の財政を都はもっている。これは北欧一国の予算なみ。都が貧困化にとりくめば解決できるのに、できていない。知事の考えが希薄である。


❷日本の政治の特質

砂川事件の問題のときに、最高裁に市民の抗議は集まらなかった。安保闘争のときに国民が立ちあがった。日本は市民革命としていまの憲法をかちとったわけでない。
警察は行政に属し、検察は司法に属す。黒川検事長の定年は行政が口を出すべきではない。安倍首相はそれを正しく理解していないし、国民が結果的に許す結果になっている。#検察庁案の改定に反対です、のツイッターが広がって世論にも広がる。
国際人権規約では大学まで授業料を無償にとうたっている。その予算をどうするか、税金、法人税をもっと論議して改定すべき。国民は論議せずわかっていない。税金をどう使うか、もっと国民が関心をもち考え合う必要がある。

❸都民に応える

少人数学級。教師が十分に取り組むには30人以下の人数にすべき。教師数や学校数を増やすべき。デンマークなどでは、教師が知識をつめこむのでなく、子どもの自らの学びを援助すべき。 
ジェンダー平等。女性が半数なのにその人権が認められていない。また、多用な性のありかたを人権保障から考えるべきである。
生活保護は憲法25条で「健康で文化的な生活を国が補償する」と明記している。
健康法。小中は野球をやっていた。中二から大学まで卓球をやっていた。いまは歩くことを重視している。 「自己責任」「生活保護」自己責任は昔はあまり使われなかった。困難な状況に置かれている人々を分断する役割をはたし、政治家を免責することばとなっている。
兄弟が高齢になり、飢餓死して発見された。生活保護を福祉事務所を申請していない。生活保護を権利として受け止め、福祉もまわって援助すべき。韓国ソウル市では、それが実現している。
人権について。個々の人間に尊厳が保障され世界的国際的な人権規約に謳われている。日本社会で実現されているのか.建前で言っていても、人権侵害の言動をくりかえす政治家もいる。
差別によって貧困で苦労している人々の存在を、大学で知った。そこから弁護士をめざした。サラ金問題で悲惨なめに追い込まれていることに、個別救済だけでなく立法運動に弁護士として取り組んできた。
法律を変えるために、自民党や公明党の半分以上をロビー活動として弁護士会としてと入り組んできた。

❹今後の展望

都知事選は終わったけれど、課題に社会運動として取り組んでいきたい。都議選は、都議会の7割は小池さんの与党。コロナ、カジノ、教育、家賃補助制度、など課題は来年の都議選の課題。 つぎの知事選は自分のことも含めその時の状況による。
「私たちにできること」
都議会や区議会の傍聴。要望。一緒に考えること。投票率の低さは外国スウェーデンなどに比べても低すぎる。民主主義が根付いていない。投票率は民主主義と密接。日本では政治に関心をもつことに高校生でも偏見をもたれることを変えたい。

「座右の銘」
真理は寒梅のごとし (新島穣)

「将来の夢」
市民活動家として実践を弁護士活動ののちもやっていきたい。
保守や中道も加われるような運動を。韓国のパク・クネ大統領弾劾運動は、リベラルだけでなく保守や中道も一緒に動いた。韓国に近いのがオール沖縄の取り組みです。翁長さん自身が自民党です。

「最後に」
サラ金問題に取り組み弁護士と立法化するまで30年かかった。そう簡単に変わらないけれど誰かが変えることで社会は変わっていく。戦後ほとんど自民党政治なのはなぜかを考える必要がある。地方の市町村議選から国政まで粘り強く変えていかなければ。<了>