幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「人はどう死ぬのか」久坂部 羊著 ”多くの臨終に立ち会って来られた終末医療の医師からのメッセージ”

2025-02-11 17:44:00 | 本の紹介
・家族や自分の死が間近に迫ったとき、最良の方法を選び、亡くなったあとに悔いを残さないようにするには、やはり死の実際を知ることが大切でしょう。
 だから私はこの本を、「死に関する新しい教科書」のつもりで書きました。
 大丈夫。恐くありません。不吉でもありません。慣れます。ときに笑えます。死には滑稽な側面もありますから。
 一回きりの死を失敗しないために、多くの人が死の恐怖から解放され、上手な最後を迎えられることを、心より願っています。

・看取りのコツは「慌てず、騒がず、落ち着かず」だと、伝授されました。
「慌てず」というのは、新米だと見破られないためで、「騒がず」というのは、騒ぐと医療ミスを疑われかねないからですが、あまりに落ち着いていると、患者さんを見捨てているように受け取られるので、適度な緊迫感が必要なため、「落ち着かず」ということになります。
 もう1つのポイントは、あまり早くに臨終を告げないこと。

・助かる見込みがあるのなら、病院で治療を受けたいと言う人は、悲惨な延命治療になるリスクを受け入れる必要があります。

・足るを知る。これが私が父(医師)から受け継いだ上手に死ぬための秘訣です。

・人の死が人生における厳粛かつ重大な出来事であるのはまちがいありませんが、ある意味、自然なことでもあり、受け入れることはさほどむずかしいことではないと私は思います。
 逆に言うと、死を恐れたり、いやがったたりする人は、死に接する機会が少ないから、拒絶的な気持ちになるのではないでしょうか。

・死の恐怖の理由は、自分が消えてしまうことの恐ろしさや、家族や親しい人との別れの悲しさ、自分の実績や人生の結果が無になることの口惜しさなど、いろいろあるのでしょうが、最大の理由は、死後がどうなるかわからないという不安でしょう。
 死んだあと、どうなるかわかっていれば、心の準備もできますし、ある種の納得も得られるはずです。
 死後の世界については、“何モナイ派”と“何カアル派”に大きく分けることができます。

・ほんとうに死は恐いものなのでしょうか。

・死の恐怖は幻影
 当たり前のことですが、死んだら何も感じません(一応、死後“何モナイ派”の立場で話を進めます)。・・・
 死の恐怖の理由に、自分の存在の消えてしまうことや、親しい人との別れ、二度と楽しい思いができないことへの未練などもあるのでしょうが、死ねばそういうことを感じる自分も消えてしまうのですから、恐怖を感じようにも感じられません。
 すなわち、恐れているのは、死を意識している今の自分だけということになります。
 私は朝、目を覚ましたときに、よくこう思います・
-昨夜、眠りについたまま死んで、今朝、目が覚めなかったとしたら、死ぬのはぜんぜん平気だな、と。・・・
 死んだあとに地獄のようなものが待ち構えているのなら、そこへ行くのを恐れるのもわかりますが、何もないものを恐れる理由がどこにあるでしょうか?
つまり、死の恐怖は実態のない幻影です。
 私はそう考えますが、理屈では感情は抑えられないという人も多いのでしょう。

・死の恐怖を免れる方法は二つ。
①死のことをなんか考えないようにすることです。
②人によっては少々つらいでしょうが、死と向き合い、できるだけリアルに死を意識して、死の恐怖に慣れる方法です。・・・
 苦しみから目を逸らして、最後にツケを払うか、早めに苦しい思いを乗り越えて、人生をうまく仕舞うか、いずれかということです。

・心肺停止でだれにも看取られずに亡くなりかけていたKさんを、見事、蘇生させて、家族が死にに目に会うことを実現させられたと、いささか誇らしげに書いてあったように記憶します。
 たしかに家族は喜んだかもしれません。きっと感謝したことでしょう。しかし、亡くなったKさん本人はどうだったでしょう。
 一般に心肺停止の蘇生処置がどういうものか、具体的に知らない人が多いでしょうから。・・・
 人工呼吸のための気管内挿管は、咽頭鏡というステンレスの鉤付きの器具を口に突っ込み、舌をどけ、咽頭を持ち上げて、口から人差し指ほどのチューブを気管に挿入しします。意識がない状態でも、反射でむせびますし、咽頭を持ち上げるとき、前歯がてこの支点になって折れることもままあります。そうなれば口は血だらけになります。
 そのあとのカウンターショックは、裸の胸に電極を当てて、電流をを流すもので、往々にして皮膚に火傷を引き起こします。心臓マッサージも、本格的にやれば、肋骨や鎖骨を骨折させる危険性が高く、Kさんのように高齢でやせている人なら、骨折は一本や二本ですまなかったと想像されます。

・死に目より大事なものは、ご想像の通りそれまでの時間、すなわちふだんです。

・死に目に会う必要はないなどと、言うつもりはもちろんありません。ただ、死に目に会うことに執着してしまうと、さまざまな弊害があることを知ってほしいと思います。

・メディアはウソは報じませんが、都合のいいことしか伝えません。世間の共感を得て、メディアとしての信頼を高め、最終的には収益につなげることが目的だからです。・・・
 老いと死に話をもどせば、気持ちのいい情報ばかりで安心するのは危険です。不愉快なことでも知っておいたほうがいいこともあるし、より成熟した人間としては、イヤなことにこそ目を向け、しっかりと心の準備をしておくべきでしょう。実際、それは起こり得るのですから。

求めない―― すると 失望しない
求めない―― すると 心が静かになる
求めない―― すると それでも案外 生きてゆけると知る
求めない―― すると いまじゅうぶんに持っていると気づく

・視野を広く持てば、すべてはうたかたの諸行にすぎず、目先の比較で一喜一憂しても仕方がないとも言えます。
 できれば、人生の最後の残り時間には、思い切り自分に都合よく、自己肯定の悦楽に身を任すのも悪くないでしょう。
 いや、どうしてもそうはできないと言うのなら、今一度、感謝の気持ちに立ち戻ることも一法です。これも父に教わったことですが、感謝の気持ちを深めれば、不平も不足も不満もかすみ、自分に与えられた多くの恵みや親切、幸運に気づき、穏やかな気持ちになれる可能性が高いです。
 何やら最後はお坊さんの説教のようになってしまいましたが、やはり上手な最後を迎える秘訣は、いろいろな方策を求めることではなく、自分の都合を捨てて、あるがままを受け入れる心のユン日が肝要ということではないでしょうか。

感想
 小学校の5年生頃、「死んだらどうなるんだろう?」と考え不安が大きくなり始めました。
 『夜と霧』の著者でロゴセラピー創始者のヴィクトール・フランクルが9歳のとき父親の死を経験して、「死」というテーマについて深く考え始めたとそうです。
私は、 「死」を考えないようにしてきました。
私も深く考え始めていたら、・・・。

「死」は恐怖です。怖いです。
居ても立っても居られない気持ちになることもあります。
 そのときは他のことを考えて気を逸らすことをしていました。
歳をとり、今は「やりたいことをすることが、死の恐怖を和らげるのではないか」と思えるようになりました。それは38歳で胃がんになり胃を2/3切除し、死と対峙したからかもしれません。
 「時間は有限」と気づき、学生時代にやってみたかったボランティアを始めました。
その前から「目の不自由な人に手紙や本を読むボランティア」は始めていました。
そして「入院児との遊びのボランティア」も始めました。そのきっかけは、将棋や囲碁などをやれる人を募集していたからです。文京区のボランティアまつりに日本語ボランティア(来日している人に日本語を教える)を仲間と一緒に紹介したとき、他のボランティアの展示を見て出会いました。まさに将棋や囲碁は私の趣味でした。

 生きているから「死を恐れる」のだと気づきました。この本にも書かれています。
もう一つは、死後の世界があると信じることではないでしょうか。
わからないことだらけです。
『パンセ』パスカル著に下記がありました。
神の国があるかどうかは分からない。
神の国があると信じて生きる。
 ⇒神の国があれば「やったー」(天国/極楽)
 ⇒神の国がなければ、何もないだけ
神の国がないと信じて生きる。
 ⇒神の国があれば「しまった!」(地獄/閻魔様)
 ⇒神の国がなければ、何もないだけ
だったら、神の国があると信じて生きた方が良い。

 『蜘蛛の糸』芥川龍之介著
夏、蝉がよく道でひっくり返っています。
そのとき、まだ生きていると助けて草の上や木に止まらせます。
死んでいると道の端に移動します。
助けた後、「もし地獄に落ちたら、数十匹の蝉が私を助けに来てくれる。また増えた」とにんまりしています。
 犍陀多は道ばたの小さな蜘蛛を一度だけ助けたのです。
一匹は少なかったです。
もっとたくさん助けていたら、蜘蛛の糸も太かったと思います。 

アルフォンス・デーケン先生が「死生学」を日本で始められました。
それは「死」を忌み嫌い、避けるよりも、「死」を考えて生きた方がより良い人生を送れるとの確信から始められました。
その通りだと思います。
デーケン先生の講演を何度か聞きましたが、常にユーモアたっぷりのお話でした。
『よく生き よく笑い よき死と出会う』など、デーケン先生の本を何冊か読みました。 

胃がんになり時間は限られていることを実感しました。
やりたいことは将来できるとの保証はありません。
だったら今からやることなのだと思いました。
そして周りの目を気にすることよりも、やりたいと思ったことをすることが「死の恐怖」を和らげることも知りました。
もちろん何をやりたいと思うかがその人にとってだけでなく社会にとっても意味があるかどうかが問われますが。
その人を知るには、その人が大切な「時間」と「お金」を何に使っているかを知ればわかると言われています。

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