・ねたきもの(いまいましいもの) 幼稚な心で使えば、便利なツールも“凶器”に
愛人のところに送るはずのメールを、私のところに送ってきたバカな男友達もいる。愛人と私の名前がたまたまアドレス帳に並んでいたのだろう。あとから思えば、タイトルの『また来週ネ』を見たときに、「ネ」のカタカナ遣いにわずから違和感を覚えたのだった。さして深く考えもせず、指が反射的に開封してしまったのだが、読まなければよかった。
いい年をしたオッサンのハートマークだらけの恋文を、図らずも見てしまった私の後ろ暗さをどうしてくれよう。「相手が違います」と真面目に返すか、そのまま知らんふりを通すか、バカバカしくも真剣に悩んだが、彼の面子を潰さないためには軽口を叩くしかない。『私はだあれ?』と題して、『こんなにも愛されていたなんて』とだけ書いて返したら、大慌てで電話をかけてきた。なにはともあれ、送信先が妻でなくてよかった。
・わろきもの(劣った感じのするもの) はやり言葉を無自覚に使う前に
ある日のお茶の間の会話である。
A子「ねえ、お母さん。このお菓子、全然おいしい!」
母 「A子ちゃん、『全然』はね、『全然おいしくない』っていう風に使うのよ。その言い方は、とてもおかしいわ」
祖母「母さんや、『とても』はね、『とても理解できない』と使うのだよ!」
・言ひにくきもの(言いにくいもの) わが子の”不始末“を始末できない親
報われない恋の呪縛が解けると、小さな幸せが細胞の隅々にまで行き渡る。
「胸のときどきするもの・・・髪を洗い、お化粧をして、薫りのよい香のしみた着物などを着たとき。そういうときは、別にみる人もいない所でも、自分の心のなかは、やはり心地よい気持ちになる。」
・めでたきもの(すばらしいもの) 「抜け道」を当然に思う恐ろしさ
「推薦」と「AO」により、学科試験の網目を潜らずに合格した者の数は、私大ではついに全合格者の五割にまで跳ね上がった。・・・
これが「抜け道受験」でなくて、なんだというのか。・・・
そんなことを思っていたら、案の定、教授陣が悲鳴を上げた。「抜け道組」の大半が、大学の講義についていけないのだ。
・つれづれなぐさむもの(所在なさがやわらぐもの) 意味もない無愛想は人を鬱屈させる
「所在なさがやわらぐもの。物語。碁、双六。・・・果物。男の人で、冗談が言えて、話のうまいおが来たときには、物忌のときだって、家のなかへ入れてしまいたくなる。」
・とりどころなきもの(とりえのないもの) 生まれつき歪んでいる者などいない
私も家族のなかで、鬱屈した思いを持っていた時期がある。幼少期のことだ。
三つ違いの姉が、目鼻の整った愛らしい顔をしていて、真っすぐな黒髪を額で切り揃えると、まるで「市松人形」みたいに綺麗だったことが、幼心にも劣等感になっていた。私はというと、子どものくせに眼光鋭い奥目で、神経質な顔をしていた。おまけに、わずかな風にも逆立つしゃりしゃりの細い赤毛をしていて、お世辞にもかわいいとは言えない風貌だった。
どこへ行っても、だれと会っても、姉のことは「まあ、かわいい!」と覗き込むのに、私のほうを向いた途端に、言葉に詰まる。そのときの大人の表情を、いまも覚えている。あとに続く「元気な子」「しっかりした子」という付け足しのほめ言葉は、私のなかでは「不細工」と言われたに等しかった。・・・
祖母が、母に、「最期にかわいそうな子を産んだなあ」と言ったのを、襖越しに聞いたのが決定的だった。私は大いに傷ついたのだ。
だが、この祖母は、私をとても愛していた。「かわいそう」と口にした直後から、俄然張り切って、私の教育を恥円たのである・
「あんたは、顔が不細工なんやから、笑顔よしになりなさい」と、口に割りばしを噛ませて口角を上げる練習をさせたり、「立ち居ふるまいだけでも美人におなり」取って、頭に本を載せ、背筋を伸ばして畳の縁を歩かせたり、声の出し方から、お辞儀の仕方から、まるで社交界にデビューする小公女のように、毎日毎日、レッスンを行ったのだ。
その成果が、いまにも生きているかはともかく、そうするうちに、私は、私なりの自信を身につけた。容貌には負けない「とりえ」を祖母がつくってくれたのだ。
笑顔で話すから、愛嬌が容貌を実際よりもかわいく見せる。胸を張って行動するから、表情に輝きも生まれる。「生き生きしてるねぇ」とほめられることは、「きれいだね」と同意語になった。自分で自分を好きになれたのだ。
生まれたときから、ひがんだ根性をしている人などいない。なにかに傷つき、その瑕を隠すために、拗ねた顔と意地悪な行動で身を守っているつもりなのだ。だれだって、愛されたいに決まっている。
大人が、子どものなかに、なにかひとつ「とりえ」を見出してやることは、その子の将来を明るくする。それは、「ほめて育てる」というような単純な手法ではなく、場合によっては、私の祖母のように、欠点を容赦なく指摘し、手厳しい訓練を重ねる形を取ることもあるだろう。祖母なればこそ、孫かわいさに、毎日毎日、手を抜かずに教えてくれたのである。
・心ゆくもの(気持ちのよいもの) 「生」の手触りは、人と人との間にある
私も、大学受験に失敗して上京した予備校の寮生活で、世間と没交渉の日々を送ったことがある。受験の不安が重くのしかかり、寮生は、ライバル意識で神経がピリピリしていた。殺伐をした空気のなか、じっと身を潜めるようにして部屋に籠り、朝から晩まで勉強していると、頭が変になりそうだった。孤独が精神を蝕んでいたのだろう。隣の小学校で鳴くジージーという蝉の声が「死ね、死ね」と聞こえたり、夜明け前の鶏のコケコッコーが「アホちゃうかぁ」に聞こえたり、自分でも、我慢の限界に達しているとわかった。
私は、思い切って、他の寮生と話をすることにした。迷惑がられてもいい、嫌味を言われてもいい。無理に用事をつくって、立ち話程度の会話を試みた。確か、はじめは、「鉛筆削りを貸して欲しい」という程度のきっかけだったと思う。お礼に、かわいいイラスト入りの消しゴムを上げたら、喜んでくれた。
そうして、少しずつ話してみると、意地悪そうに見えた隣人は、私と同じく地方の出身で、都会に不慣れな臆病者に過ぎなかった。お互いに、素朴な本性を隠し、強く見せたいがための虚勢を張っていただけなのだ。
人は、人のなかに入ってはじめて「人間」になる。大親友というほどもつながりでなくてもいい。価値観が合うとかなんとか、大仰にに構える必要もない。極端に言えば、ただ声を発することのできる相手、というだけでいいのだ。さらりと世間話が交わせる程度の相手がいれ、それでしゅうぶん救われる。
「気持ちのよいもの。ひとりでやるせない気分のときに、たいして親しいというわけでもなく、かといって疎遠でもない客人が来て、世間話をし、近ごろあった出来事の、おもしろい話でも、原の立つ話でも、奇妙な話でも、あれやこれやと話題豊富に、仕事のことでも私事でも、よく事情に通じていて、聞き苦しくない程度に得意そうに話してくれるのは、本当に胸の晴れる思いがする。
感想;
とても読みやすい日本語です。
荻野文子(あやこ)さんは高校の後輩です。
前の会社に高校(田舎)の後輩が私が入社してから約20年後に途中入社しました。
私が入社したときの人事課長(後人事部長)が、私の高校名を覚えてくれていて、「今度、西脇高校の後輩が入ったよ」と教えてくれました。
通常、卒業大学は覚えていても高校までは覚えていません。
当時の人事課長は同じ兵庫県の加古川東高校(公立高校で進学校)出身で同じ播州(播磨の国)だったのです。
当時、西脇高校は東大には数年に一人進学できるかどうかの学校(卒業生の約半数は就職)でした。
経団連の会長、十倉雅和住友化学株式会社代表取締役会長は西脇高校、東大です。
彼の弟が高校に入学したとき、先生方が「十倉の弟が入ってきた」と話題になったと聞きました。ひょっとしたら、弟も東大に進学できるかもの期待があったのです。
校長先生が朝礼で「東大に進学した。それで小野高校(当時同じ播州の進学を競っていた高校)の校長先生に自慢したよ(小野高校は東大に誰も進学できなかった)」と嬉しいそうに話していました。そんなに東大に卒業生が入るのが嬉しいのかと思いながら聞いていました。今では小野高校に進学実績では明らかに差を付けられ、西脇地域の勉強できる子は1~2時間かけて小野高校に通っています。
その弟が十倉好紀東京大学特別栄誉教授 です。彼は先生の期待通りに東大に進学しました。十倉好紀氏は私の高校同級生になります。一緒に古典を勉強しました。
大学一年の夏に彼の家で同級生が何人か集まりました。
大学の下宿に理学部物理学科の同級生がいて、当時話題になっていた”超伝導”の本を貸してくれて読んでいました。彼は東大の理1(主に数学とか物理進学)だったので、超伝導の話をしたら知りませんでした。「なに聞いたことないの? 物理なんだから知っていた方が良いよ。今注目の分野だから」と言ったことがあります。私が言ったことは忘れているかと思いますが。
彼は電子型高温超伝導体の発見など多くの業績をあげ一時はノーベル賞候補にもなりました。彼に超伝導のきっかけを与えたと、一人で勝手に自慢にしています。(笑)
唯一の高校の後輩なので、すぐに連絡しました。
その後輩の同級生で親しかったのが荻野文子さんでした。
当時すでに東進ハイスクール「古文のマドンナ」として人気を博していました。
この本に、荻野文子さんは男友達が多いとご自分から述べられており、気さくな感じの方のようで、清少納言的な感じの方(会ったことはありません)のようです。
実家が書店だったこともあり、本をよく読まれていたのでしょう。
清少納言(『枕草子』/天皇の后定子<藤原道隆の娘>に仕え)⇔紫式部(『源氏物語』/天皇の中宮彰子<藤原道長の娘>に仕え)
二人は比較されます。定子と彰子は敵対関係でした。結局兄の道隆が失脚し、弟の道長がわが世の春を迎えます。
望月の歌 藤原道長作
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
古典には枕草子は受験の問題に『徒然草』と同じようによく出題されるのでよく読みました。
源氏物語はほとんど受験に出ないので読まなかったです。
本をよく読むようになってから瀬戸内寂聴さんの『源氏物語』を読みました。
『枕草子』は宮廷の日常生活の人と人との交流が描かれていて、その題材から荻野文子さんがご自身の経験などを紹介されながら書かれています。
『マドンナ古文』シリーズは440万部の超大ベストセラーになっています。
当時も今も人間関係は楽しいこともあるけれど難しいことも多かったようです。
清少納言の人生も波乱にとんだ人生だったようです。
今NHK大河ドラマで紫式部が描かれていますが、清少納言はどのように描かれているのでしょう?
批判の中にある本音
「それにつけても清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようでございますね。あそこまで利巧ぶって漢字を書き散らしていますけれど、その学識の程度ときたら、よく見ればまだまだ足りない点だらけです。
彼女のように、人との違い、つまり個性ばかりに奔りたがる人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただ「変」というだけになってしまうものです。
例えば風流という点ですと、それを気取り切った人は、人と違っていようとするあまり、寒々しくて風流とはほど遠いような折にまでも「ああ」と感動し「素敵」とときめく事を見逃さず拾い集めます。でもそうこうするうち自然に現実とのギャップが広がって、傍目からは『そんなはずはない』『上っ面だけの嘘』と見えるものになるでしょう。
その「上っ面だけの嘘」になってしまった人の成れの果ては、どうして良いものでございましょう」(山本淳子編『紫式部日記ビギナーズ・クラシックス日本の古典』角川ソフィア文庫)
かなり手厳しい批判であり、筆誅といえるようなこき下ろしようだ。教養をひたすら隠して宮仕えしている紫式部にとっては、平然と教養をひけらかし、なおかつ、いまだ宮中で評判が高い清少納言が憎々しく思えたのだろう。
ただ、そんな批判の中に、「本当は私もあなたのように他人を気にせず、自分をさらけ出してみたい」という羨望せんぼうの気持ちが見え隠れしているような気がしなくもない。
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ここまで清少納言を批判しているのは、紫式部は清少納言の明るく、気さくに殿方とも話しできるのを嫉妬していたように思います。
枕草子に下記がありました。
第253段
私の才能にケチつけてくる人がいるらしいけど、自分のことを差し置いてこんなにまでもどかしい物言い(悪口)なんてありえない!とか
私の才能にケチつけてくる人がいるらしいけど、自分のことを差し置いてこんなにまでもどかしい物言い(悪口)なんてありえない!とか
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紫式部のことを言っているのか誰のことを言っているのか、才能があり自由奔放な清少納言の生き方に嫉妬したり批判する人がいたのだと思います。
清少納言の素晴らしいところは、批判されても気にせず自分を貫きとうされたとこではないでしょうか。
ただここまで批判する紫式部の人格にも影があったように思います。
紫式部を演じている吉高由里子さんは、どちらかというと清少納言的な性格の方のように思います。紫式部は外向的な人ではなく内向的な性格だったようです。それが『源氏物語』を生み出したように思います。
平安時代の宮中の人間関係も難しかったようです。
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