創業者は(故)森和夫である。森をモデルに高杉良は「燃ゆるとき」(実業之日本社、1990年刊、のちに新潮文庫など)を書いた。
森は高杉の取材の要請を「私のことなんか」と2年間も断り続けた。高杉の説得を受け入れたのは「企業は公器なり」ということを読者に理解してもらいたいと思ったからだった、と言っている。
生前の森は財界活動を一切、行わず、すべての勲章を辞退した。だから世間的には無名だ。 その野人ぶりはあまり知られていないので、森和夫について書くことにする。
16(大正5)年4月1日、静岡県賀茂郡田子村(現在の西伊豆町)に生まれる。実家は代々漁業をやっていたが、父の代に冷蔵製氷業に転じた。和夫は水産講習所(現在の東京海洋大学)を卒業。応召。終戦後、捕虜生活を経て帰国した。
水産講習所時代の同級生と、横須賀市内で売りに出ていた冷蔵庫を買い取り横須賀冷蔵庫を共同で経営。東京支店の責任者だった森は横須賀冷蔵庫の負債を買い取る形で円満に独立。53(昭和28)年3月、横須賀水産を東京・築地市場に立ち上げ、冷凍マグロの輸出を始めた。56年、東洋水産に社名を変更した。
水産物の輸出と加工食品(魚肉ハム・ソーセージ)の販売が主体であったが、62(昭和37)年から「マルちゃん」ブランドでインスタントラーメンの製造・販売を始めた。 即席ラーメンへの進出が経営者としての転機となった。まず、資本構成を変えた。取引先の商社・第一物産(三井物産)から3000万円を借りて、魚肉ハム・ソーセージを製造するようになった。 第一物産に株式の80%を握られていては安定した経営はできないと考えた森は第一物産と資本提携の解消を交渉した。森が当時流行していた即席ラーメンに参入したのは、のちのち考えると、解決すべき課題の多い、困難な時代だったことになる。 即席麺をヒットさせて業績を伸ばし、第一物産の持ち株比率を最終的に20%まで下げることに成功し、63年、第一物産から独立を果たす。
■75年に日本初「カップうどん」を投入
2つ目の変更は製品構成。魚肉ハム・ソーセージから即席麺の製造に転換した。75年9月、日本初の「カップうどん」である「マルちゃん・カップきつねうどん」を、続いて「マルちゃん・カップ天ぷらそば」を発売した。「マルちゃん・うどん」は創業以来の大ヒットとなり、全国的に和風即席麺のブームが起きた。
日清食品(現・日清食品ホールディングス)の創業者で「世界のラーメン王」と呼ばれた安藤百福がインスタントラーメン業界のカリスマとして評価が定着していた。
だが、森だって負けてはいない。2人は開発競争で火花を散らした、生涯のライバルだった。 76年、森が米国に設立した現地法人「maruchan」のカップめんの製法を、日清が特許侵害だとして訴えたことで、2人の対立は先鋭化したといっていい。 普通だったら、安藤の気迫におじけづき降参する。だが、森は真っ向から立ち向かった。米国の裁判所を舞台にした両社(両者)の激しい応酬は、裁判慣れしている米国企業をも驚かせたほど激しいものになったと伝わっている。 2年後に和解が成立したが、「安藤にとって森は最もやりにくい相手らしかった」(安藤も森も知る食品業界に詳しい商社の米国法人のトップ)。
森にはこんなエピソードも残っている。 「トップとしての在職年数などで規定通り計算すると20億円以上になる自分の退職金を『高すぎる』と言って、3億円にした。あまり安くすると他の役員が退職金を受け取りにくくなるからと言われて(しぶしぶ)決めた額が3億円だった」(東洋水産の元役員)
森は2011年7月14日、95歳で亡くなった。安藤百福は07年1月5日、96歳で他界し、正四位勲二等を受章した。 持ち株会社・日清食品ホールディングスの安藤宏基社長兼CEO(75)は百福の次男。事業会社・日清食品の安藤徳隆社長(45)は百福の孫だ。 一方、「会社は公器なり」という創業者の理念を引き継いだ東洋水産の現社長、今村将也(65)は非同族の生え抜きである。 =敬称略 (有森隆/経済ジャーナリスト)
感想;
東洋水産の本を読みましたが、創業者は紳士というか、正しい信念をもっておられると思いました。就職するならこの会社と思うほどでした。
日清食品との米国でのバトルは凄かった記憶があります。いろいろな嫌がらせもあったようです。
インスタントラーメンは、確か大阪の中国人の方がインスタントラーメンを開発しと記憶しています。そのアイデアから商品化して売り出したのが日清食品でした。
インスタントラーメンは簡単、それに美味しいですね。
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