幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「河合隼雄のカウンセリング講話」 ”創造の病気”

2020-03-25 15:15:55 | 本の紹介
・「カウンセリング教室」の方が「時間」「人間理解」などについて述べることによって、カウンセリングの基本的なことの説明を中心としていたのに対して、本書は「女性」「芸術」「禅仏教」「中世の物語」「病」というさまざまな題材を切り口にして、カウンセリングの本質を明らかにしようとしているところが特徴的である。

・実際カウンセリングをしたいという人には女性が多いです。それから、受けたいという人も、特に大人の場合は女性のほうが多いのではないかと思います。

・一人の人に会うのとたくさんの人に会うのとどちらがしんどいかと言うと、一人の人に会う方がはるかにエネルギーを使ってしんどい。本当にそうなんです。

・男性のもっている女性的なファンクションと言ってもいいし、女性のもっている女性的なファンクションと言ってもよいのですが、それによって、一人の人、そして一人の人の心を考えるということです。

・「マニュアルどおりにやればうまくいく」と思う人がいるようですが、まず、そういうことはないと私は思っています。

・クライエントの心の中でもオーケストラは鳴っています。口は一つですから「先生のところへ来ても、ぜんぜんよくなりませんわ」と言ってみたり、「もう死にます。これが最後です」と言ったりしますけれど、心の中ではオーケストラが鳴っているのですから、そのすべての音を私が聴きとらなければ心理療法をやっているとは言えません。その人の口から出てきている言葉以外の、心の中に鳴っている音を自分はちゃんと聴いているだろうか、とオーケストラの演奏を聴きながら、私はよく思います。ですから、心理療法を本気でやろうと思われるなら、できるだけ芸術の世界に接してほしいと言いたいです。本当にできるかぎり接してほしいと思います。

・自分の人生の中にある「X」を生きるために、人は結婚したり子どもを産んだり、職業を選んだり、金を儲けたり、人を騙したり、いろんなことをやっています。なかには、人を殺す人まで出てくる。しかし、心理療法で大切なのは、私に言わせると、その人がいま拒食であるとか、いま学校へ行っていないとか、いま人を殺してきたのだということよりも、もっともっと底にある「X」をこの人は本当にどう生きようとしているのだろうかということです。その「X」を、この人は本当にどう生きればいいのだろう。

・上田閑照先生の「禅仏教」は、非常に役に立つと思います。

・カウンセリングに来た人が、「うちの父親は嫌なやつだ」とか、「友だちにものすごく嫌な人がいる」とか、「社長がわからず屋で困ります」とか、いろいろ言われます。それはみな、自分というものをだれかの関係のなかで言っているのです。・・・。そういうときにその人が本当に言いたいのは、社長やお父さんやお母さんを変えて行こうというのではなくて、それらとは関係なく、自分は「うん、おれや」という感じがしっかりとつかめるようになりたいということです。しかし、人間というのはなかなかそうはいかないので、いろいろ周りのことで悩みをもってくるのだと思うのです。

・「言葉から出て、言葉に出る」上田閑照先生
リルケの言葉(清岡卓行訳『薔薇ぐるい』より)
https://ameblo.jp/hanagaku01/entry-11544228595.html
Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter
Soviel Lidern
薔薇よ おお 純粋な矛盾 瞼の
こんなたくさんの重なりのしたで
だれの眠りでもないという よろこび
    
「薔薇、おお!」それから「純粋な矛盾」
名詞が来てからそのあとに説明が来ますね。

・「言葉から出る」というのは、「ぼくは学校へ行っていないんです」と聞いて、「学校」や「ぼく」ということから離れて、いっぺ
ん外へ出るということです。離れて、「おお!」と思わないといけないのです。「おお!」というところへ出てから、その次に、もの(言葉)を言っていかないといけない。

・沈黙がもたらすもの
「いっぺんガシャンとつぶれて、もういっぺんつくり直す」という言い方をしましたし、あるいは「言葉から出て、言葉に出る」というような難しい言い方もしましたが、その間の何もないところに「沈黙」があります。「言葉から出て、言葉に出る」という間に、沈黙がある。あるいは、それまでの体系がガシャンとつぶれるところで「沈黙」がある。そこから新しいものが生まれてくるときに「言葉」が生まれるわけです。この「沈黙」は、カウンセリングでも非常に大事なものだと思います。

・気づきの場を提供する
「先生はどういうしつけをうちの息子にしてくれたのでしょうか。すごく礼儀正しくなりました」と言われるのです。
それで、「どうしてですか」と聞きますと、息子はそれまでは家に帰ってくるとき電話をかけてきますが、「何時に着く」と言うだけでした。親父さんは息子の言ったきた時間に駅まで車で迎えに出るわけです。そして、息子の荷物を車にのせてやっても、何も言わず平気で座って一緒に車に乗って帰ってきていた。
ところが今回は、「帰る」と連絡してきたときに、「何時に帰るので、すまないけど迎えに来てくれるか」と言ったそうです。お父さんは、何か風向きが変わったなと思って、迎えに出て荷物を持とうとしたら、「ありがとう」と礼を言われた。それで、「これは、大学の先生に、すごい礼儀をしつけされたらしい」と思われたようです。だから、私に「どんなしつけをしていただいたんですか」と言われたのです。でも、私は何もしていない。ただ話を聴いていただけです。それでは、何が起こったのか。言うなれば、その人は自分で問答していたのです。私に「あんな親父、死んでしまえ」と言いながら、思ったあとで「その親父が、自分の授業料も生活費も全部面倒みてくれているんだ」と問答して、自分で考え、また考えしながら電車に乗って帰ってきたので、父親に対してすっかり態度が変わったのです。

・私が非常におもしろいと思ったのは、禅独特の話の仕方、言葉があるという点です。
著語(じゃくご);短い語句が自分の宗教的理解を示す
拈弄(ねんろう);公案を自由に批判して見解を示す

・「今昔物語」「宇治拾遺物語」

・昔話がいまの話になるとき
「こぶとりじいさん」と言うと、鬼にこぶを取ってもらう話です。鬼に取ってもらうなんて、そんな馬鹿なことがあるかと思われるかもしれませんが、まあ、非常に大きいこぶがあれば、いまなら医者に行って手術して取ってもらうことになると思います。それでも、手術ではなかなか取れないこぶというものがあるものです。みなさんのなかに、目の上のたんこぶのある人はおられませんか(笑)。「あいつさえいなかったらええのに」「あいつは目の上のたんこぶや。あいつさえいなかったら、おれはいま頃もっと出世していたのに」とか、「あおの人は悪口ばっかり言って困る。何とかしたい。もう、取って捨てたい」とか。なかには、嫁と姑でお互いに相手のことを、「たんこぶや」と思っている人がいるかもしれません。そのたんこぶが、いつどうやって取れるかという話です。

・人生の夢
やっぱり人生には夢がないといけません。いまを生きているだけではなくて、自分の人生に夢がなかったらおもしろくない。その夢というものをいった自分はこれからどう生きようとするのか、どう生きていくのか、ということです。

・この世とあの世のつながり
「日本霊異記」にあった話ですが、ある人が死んであの世に行きますと、あの世になかなか上等の家が建っています。「これ、どうしたんですか」と聞くと、「これはあなたがこれから住む家です。あなたがこの世でいろんなことをやっている間に、ちゃんと向こうに家ができているのです」という話があります。

・偶然こそが大切
「わらしべ長者」の話から
この人の場合は、観音様が出てこられた。そして、「何でもいいから手に入ったものを大事にせよ」ということで、偶然わらしべが手に入るのです。私はこの頃、その「偶然」というものがすごく大事なことではないかと思っています。

・「何もしない」という頑張り
私のところに来られる人のなかに、私に話をしたらもう絶対助かる、と思って来られる人がいます。私に話をしたら、私が「はい。こうしたらよろしいです」と答えを言ってくれると思っている人がいます。ところが、私は「答えは何もありません。答えはないけど話は一生懸命聴きますので頑張りましょう」と言うだけです。なかには、「何や、あれ、カウンセリングとか言っても何にも助けてくれないし、『何にも答えはないけども頑張りましょう』などと、人を馬鹿にしているのではないか」「あんなやつには、もう頼ってもしようがない」と思って帰る人もいます。
あるいは、なかにはこう思う人がいます。「だけどあの人はものすごくわかってくれる。この私の、悲しい気持ちをあれだけわかってくれて、あれだけ同情してくれたのだから、せめて手紙の一本ぐらいはくれるだろう」と。手紙ぐらいは来るのではないかと思う人が結構いるようです。
そして、例えば「次は来週の木曜日に会いましょう」となったとき、その木曜日までの間に手紙が来たら、あいつのところへもう一度会いに行こう。また手紙もよこさないようなやつだったら、次から行かないでおこうと思う人がだいぶおられます。
この気持ちわかります。だれからも見捨てられて、もう死のうかと思っているのに、あの先生だけは話を聴いてくれた。そこまでわかっているのだったら手紙の一本くらいくれるはずだ、と思うのです。そう思って郵便箱をいつも見ていた。
そこへ手紙が来ます。喜んで見ると、私からの手紙ではない。いままで忘れていた友達からの手紙で、「一度会いに来ないか」と書いてある。「どういうことだろう」と思って、最近二十年ほど会っていなかった友だちに会いに行くと、向こうも「何かしらないけれど、おまえのことが気になってな。今日は泊まっていけ」と言います。そして、泊まって、御馳走になって、いろいろ話をしていたら友だちがすごく同情してくれて、「いますぐにはできないけど、一緒に何か考えようじゃないか」と言われ、その人はものすごく喜んで帰ってくるわけです。
そして、「カウンセラーというのは薄情なもんだ。手紙の一本もくれないけど、まあ、『こんないい友だちが現れた』ということぐらいは話にいかないとな」と思って、次も私のところに来ました。そして、「正直に言うと、先生は、手紙ぐらいくださると思っていましたけれど、何もしてくれませんでしたね。ところが、友だちがこんなことをしてくれたんですよ」と言うような話をしているうちに、だんだん元気になるのです。
そういうときに、「偶然」というものはすごいなと思うのです。そして、「手紙を出さなくてよかったな」と本当に思います。実際のことを言うと、何度書こうと思ったかしれません。これを書かなかったら、ひょっとしたら相手は死ぬかもわからないのです。私だけが窓口で、あれだけ話を聴いたのですから、私から「手紙が来る」と絶対思っているだろうということは、だいたいわかります。それで何回も書きかけたのですが、何かわからないけれど「出さないほうがいい」と思ったのです。というのは、われわれがそれをやり出しますと、私は観音様ではなくて人間なのに、観音様の代理のようになってしまいます。あっちへ手紙を出し、こっちへ手紙を出し、あっちへ走り、こっちへ走りということになりますが、これは絶対にずっとはできないことです。とてもできないことをやり出しますと、私自身がつぶれてしまうか、ぐちゃぐちゃになってしまいます。それで、私という人間ができることを考えます。私ができることは、人の話は聴くけれども手紙を出すことはできない。そういう気持ちがあって、私が手紙を出さなかった。そこへ友人の手紙が来て、「こんな友人ができた」というので、この人は心がすごく踊ります。その心の動きで、「世の中はまだ捨てたもんじゃない。おれにはまだ脈がある」と思って、その人が違うほうへ動き出すわけです。・・・。うっかり私が先に手紙を出していたら、友だちの手紙が来てもそれほど喜ばなかったかもしれません。こういうおもしろい偶然が作用して、人間は救われていくというところがありません。

・「遺産過多」;
「あなたの病気は診断名がついておりまして、それは『遺産過多』(胃酸過多)というものです」と言いました。
「遺産をたくさんもらいすぎて困った」という人の相談
(おごれとか寄付しろとか、しないといろいろ言われ、憂うつになって相談に来た)

・「クリエイティブ・イルネス(創造の病)」
人間の幸福や不幸というのは、本当に不思議なものです。病気にもそういうところがあります。病気のことで、私が非常に感心して拠り所としている考え方あります。「創造の病」という考え方です。創造というのは「ものを創り出す」「クリエイトする」ということで、「創造の病」は英語で「クリエイティブ・イルネス」と言われます。私は、この「創造の病」という考え方が非常に好きです。「創造の病」というのはこのエレンベルガーという人が言い出したことです。
エレンベルガーがフロイトやユングの伝記をよく調べてみると、フロイトもユングも中年の時期に相当な心の病気にかかっていたことを知ります。・・・
フロイトもユングもそういう病になって落ち込んで、そこから回復したときに、自分が病を克服したことを基本にして、非常に創造的な仕事をします。

・クリエイティブな仕事をしている人たちは確かに病気になっている人が多い。しかもその病気が、必ずしも心の病とは限らず、体の病にかかっている人たちもいることがわかりました。

・夏目漱石は心も患っていますが、体の病にもかかっています。胃潰瘍で、血を吐いて死ぬというところまで病んでいます。ところが、漱石は奇跡的に助かります。そして、そこから彼の作風はがらりと変わりました。修善寺で胃潰瘍の病気をするまでは、「我輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」といった作品を書いていたのですが、病気のあとの最初の作品は、「こころ」だったと思います。それから話が非常に深くなって、「道草」「明暗」などが書かれます。

・自分の人生を創造する
どんな人も自分の人生を創造している。その証拠に、ここにいる人、一人ひとりが全部違う人生を歩んでいます。
どの人にも「創造の病」ということがあるのではないか。その病を、体の病気や心の病気というだけにせず、もっと拡大解釈したらどうだろうか、と私は思うのです。たとえば事故にあうことがあります。また、思いがけないところで大失敗をしてしまったり、会社でなぜか左遷されてしまうといった不幸や運の悪いことは誰にでもあります。自分は何も悪いことをしていないのに、部下が悪いことをしたために地位を奪われることもある。・・・
われわれが「嫌だな」と思うようなことをすべて「病」と呼ぶと、人間誰しもいろいろなところで「創造の病」を経験している。

・もつれた糸をほどく
「・・・だからあなたも、職場も家も子どもも親や夫も、何かみんなもつれているのですから、一本の糸を引っ張ってはいけません。職場が大事とか実家に帰るとか、一本の糸を引っ張らずに、もつれた糸はふわふわってやっていたらほどけてきますよ」と言ったことがあります。
その人は、「なんとのん気なことを言う人だ。こちらは死にかかっているのに、ふわふわとは何事だ」とあとで言っておられましたが、本当にほどけていくときというのはふわーっとほどけてくるのですから不思議です。

・うつ病は大変なことでしたが、それを乗り越えていくなかで人生が変わっていく。そう思うから、私はその人が来ていろいろ愚痴を言われても、辛抱して聴いていられるのです。
しかし、ただ単に聴いているだけではだめで、どこかで私も「よし対決してみよう」と体調を整えて待つくらいのファイトがないと、変わらないところがあるんですね。それがちょっとちぐはぐになると、命が関わるような仕事になるので大変です。

感想
知識をたくさん持っていても、その知識に囚われない。
またその知識を相談者に伝えることもされない。

聴くこと。
一人ひとり違うので、その人の状況を先ず聴く。
聴いて、相談者自らが気づくようにもっていく。
その持って行き方が多くの知識と経験に裏付けされている。

その人のこころに種を蒔き、肥料と水を与えてその人の中で芽がでて成長するのを見守っている。
時は太陽のような光を与えている。

でも時には摩擦を起こすことも厭わずに。

河合隼雄さんのカウンセリングにそれを感じました。

「創造の病」
病からいかに学びに変えて行くか。
病のままだとそれはネガティブなままですが、病から考え方、行動が変わると、その病がきっかけで知る新しい人生もあるのでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/50b5d100a458c180c223153e84d2e20b
「河合隼雄のカウンセリング教室」 ”カウンセリングの神髄”


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