幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

コロナ第6波、自宅死555人 39%はワクチン2回接種

2022-04-28 01:45:45 | 新型コロナウイルス
https://news.yahoo.co.jp/articles/4c75e774cf3c1f3cc88be92fe62a3088c8109216 4/27(水) 21:08共同通信
 新型コロナウイルス患者のうち、流行「第6波」の1~3月に自宅で死亡した人が、少なくとも全国に555人いたことが27日、厚生労働省の調査で分かった。うち39%がワクチンを2回接種済みだった。

 ワクチン1回接種済みだったのは2%で、3回接種済みは5%。未接種の人が16%で、残る38%は接種歴が不明だった。

 年齢別でみると、80代以上が最多の55%だった。厚労省が4月に都道府県を通じて集計した。一部は未報告のため、実際の死者数はさらに多いとみられる。

感想
自宅待機中に死亡したのでしょう。
入院できていれば、多くは助かったと思います。

高齢者は死んだほうが良いと思っているのかもしれません。
・年金払わなくてよい
・高齢者の医療費が減る
・介護施設に余裕ができる

ドイツのメルケル首相 退任式で送別曲にニーナ・ハーゲン「カラーフィルムを忘れたのね」を選ぶ ”民主主義は与えられるものではなく、勝ち取り維持するもの”

2022-04-28 01:30:30 | 社会
https://amass.jp/153354/ amass 2021/12/03 12:00

ドイツの首都ベルリンで12月2日、16年間にわたってドイツを率いたアンゲラ・メルケル首相の退任式が行われました。送別の曲としてメルケル首相が選んだ曲のひとつは、ドイツのパンク&ニュー・ウェイヴのアイコン、ニーナ・ハーゲン(Nina Hagen)の1974年のヒット曲「Du hast den Farbfilm vergessen(邦題:カラーフィルムを忘れたのね)」でした。式典では軍楽隊によって演奏されています。

地元メディアによると、歴代首相では、ヘルムート・コールがベートーベン「交響曲第9番」を、ゲアハルト・シュレーダーがフランク・シナトラの「My Way」を選んでいました。

メルケル首相は、この選曲について聞かれると「この曲は自分の青春時代のハイライトだった」と語り、「この曲は東ドイツで生まれたもので、かつて私の選挙区だった地域では今でも流れている。だからすべてが今日に合っている」と付け加えています。

「ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生」
https://www.nhk.jp/p/ts/9N81M92LXV/episode/te/YV3W821LN2/ NHK初回放送日: 2022年4月18日


冷戦下の東ドイツ。抑圧された社会で生きる3人の女性がいた。見えない将来に絶望していた物理学者のアンゲラ・メルケル。体制への批判を歌にこめた歌手ニナ・ハーゲン。デモで自由を訴えた学生のカトリン・ハッテンハウワー。1989年、政府報道官のひとつの失言から始まったベルリンの壁崩壊は、巨大な嵐を巻き起こし、3人の女性の運命を変えていく。宰相メルケル誕生に秘められた、絶望の中から希望をつかんだ女性たちの物語

感想
メルケル元ドイツ首相が民主主義を勝ち取るために、勇気を持って行動した人々がいました。
そしてそれを維持する努力を続けなければならない。

東ドイツ時代に、密告、盗聴、監視社会だったそうです。
「カラーフィルムを忘れたのね」はその状況を自由のない白黒で表現したのです。
まさにそれは今のロシアでもあります。
今のロシアみたいになるともう声を上げることができません。
上げると逮捕されます。
その前に声をあげ、おかしなことはおかしいと言わないと、本当におかしな国になります。
詩織さんを準強姦した山口敬之氏の逮捕を天の声で停止した人は長官に出世。
「私と妻が関わっていたら首相も国会議員も辞める」と国会で発言後に改竄が指示され、それを直接命令した佐川氏は出世。実際に改ざんに手を染めた赤木さんは自責の念で自殺。
詳しい調査は棚上げ。
おかしなことをする政権を支持するということは、いつかおかしなことが自分に降りかかってくるのです。
その時にはもう遅いのですが。
政権が変わることで、政権も襟を正すのです。
確かに野党も情けないですが、それ以上におかしなことをしないようにする必要があるように思うのですが。

クミコさんブログ;恋のようだろう。 ”見よう見まねでピアノを作った木工職人の兄弟”

2022-04-27 17:01:44 | 生き方/考え方
https://ameblo.jp/kumiko926/entry-12739665892.html NEW!2022-04-27 10:42:21

たまたまつけたテレビで、おおと驚く番組に出くわす。
たいてい再放送で、こんなふうに出会えたことも、必然のようでうれしい。

昨日は、熊本の山鹿にあるピアノ。
大正時代に、木村兄弟という木工職人さんが作ったという。
この話、途中から見たのだが、実に素敵。

お金持ちのお嬢さんの弾くスタンウェイの音色に魅了された二人。
何度も何度も弾いて弾いてと頼み、飽きることなく何度も何度も感動する。
その当時にスタンウェイのピアノを持てたというのもスゴい話で、山鹿という地域の豊かさがわかる。

で。この木村兄弟は、飽かずにピアノへの愛着を持ち、そのうち、それなら作ってしまおうとなる。
これが、スゴい。
家具でもない、楽器、それもピアノという大きさのものを作ってしまおうなんて。

二人は、中を見せてもらい、弦も引き、鍵盤も象牙で作り、小さなピアノをついに作ってしまう。
どうやら15台ほどできたらしいが、その一台が現存する。
その音色は、驚くほど透明で美しい。

番組では、そのピアノの伴奏で地元の子供たちが唄う。
大正時代のピアノで平成の子供たちが唄う。
曲が嵐の「ふるさと」
これがまたいい。
唱歌ではない嵐の「ふるさと」が、まさに時空を飛んでいる。

行ってみたいなあ、ここ。
いつか、きっと行ってみよう。

人を突き動かす情熱に出会ってみたい。
きっと、今でもそのピアノに向かえば、ごごごごと、深く遥かに、そんな情熱が聞こえてくるはずだ。

それはきっと、二人の恋のようだろう。

感想
フリーアナウンサーの加藤綾子さんがピアノを辿る旅です。
加藤さんは国立音楽学校卒業です。
実際にピアノを弾く場面も出てきます。

東京芸大を尋ねたり、世界からピアノの修復を依頼されている人を尋ねたりと。
そしてクミコさんのブログにあった、兄弟のピアノ作り。

震災時に芸術活動は何になるんだとの意見もありましたが、人々に癒しと希望を与えてくれるのでしょう。

脇役の"業務用プチプチ"を新風で主役に「30歳でいきなり取締役」に抜擢された女性の実力 ”自分から門を叩く!”

2022-04-27 16:47:07 | 生き方/考え方
破裂音3倍のつぶし専用プチからハート型プチまで
https://president.jp/articles/-/56648 PRESIDENT Online


梱包材としてはもちろん、名刺入れやおもちゃとしても人気の「プチプチ」。杉山彩香さんは、入社時には業務用資材に過ぎなかった商品の可能性を広げ、次々とヒット作を送り出してきた。課長からいきなり取締役に抜擢された経緯とは――。

「図々しい」と言われた若手時代
杉山彩香さんが、「プチプチ」で知られる川上産業に入社したのは21歳のとき。以来、ECサイトの立ち上げや新商品の開発、「愛・地球博」への出展、他社とのコラボレーションなどに取り組み、業務用資材のひとつに過ぎなかったプチプチの可能性を大きく広げてきた。

現在は常務取締役として、全国約500人の従業員を牽引する立場だ。課長、取締役、常務取締役、工場長と、これまで就いたポジションはすべて「女性初」だった。老舗メーカーとあって、特に製造現場である工場は男性が多い。そうした環境の中で、どうキャリアを築いてきたのだろうか。

「若いころは図々しい言われたこともありました。生意気と思われていたと思います。でも、確かにその通りだなと思います。反省はしてもあまり気に病んだりはしませんでした。思ったことをすぐ行動に移すタイプで、そうやって何かを本気で形にしようと思ったらノイズが聞こえてくるのは当たり前。それが刺激や成長の元にもなっていました」

該当職種の社員募集をしていなかったのに応募し即採用
短大卒業後は、在学中に始めたWebデザインの仕事をフリーランスとして続けていたという。だが、1年ほどたったころ、ディレクションやプロデュースもやってみたい、組織に所属してみたいという思いが募り、就職先として「自分が知っているモノをつくっていて、まじめそうな会社」を探し始めた。

杉山さんのLIFE CHART
川上産業の名は、商工会議所の会員企業一覧で見つけた。プチプチの製造販売という業務内容に興味を持ち、さっそく公式サイトをチェック。これならWebデザインの経験でお役に立てるかもしれないと考え、該当職種の社員募集をしていなかったのにも関わらず、すぐに応募のメールを送った。

メールでの応募は同社初のことだったそうだが、結果は即面接からの即採用。入社後は社長室に配属され、秘書業務のかたわら公式サイトの制作を担当することになった。

個人向けプチプチ発売へ
当時の社長は創業家の2代目。1994年に、それまで「エア・バッグ」だった商品名を「プチプチ」に変えて商標登録した人物で、大変なアイデアマンだったという。

「商品名を変えたときは、社内のベテラン社員から『プチプチなんて恥ずかしくて口に出せない』と反発の声が上がったと聞いています。でも、商品が一般の方々にも認知されるようになったのは、このネーミングがあったからこそだと思います」

プリプチ文化研究所所長としても活躍しているプリプチ文化研究所所長としても活躍している(写真提供=川上産業)
2代目社長はその後も「プチプチの日」制定、プチプチの活用事例を集めた「プチプチ文化研究所」の立ち上げなど次々と斬新なアイデアを出し、杉山さんはその実行役になった。同研究所は立ち上げ時こそひっそりとした存在だったそうだが、今ではユーザーへの発信拠点として同社の看板的存在になっている。

キャリアに最初の転機が訪れたのは入社3年目のこと。自ら発案して、社内初のECサイト「プチプチSHOP」を立ち上げたのだ。ネットオークションの普及で、公式サイトに一般のお客様から「発送用にプチプチを少量だけほしい」といった問い合わせが来るようになり、それなら直接個人に販売できる場をつくろうと思い立ったのが始まりだった。

(左)つぶすためだけに開発された「プッチンスカット」(右)プッチンロールはミシン目があり、簡単に切り離せる。写真提供=川上産業(左)つぶすためだけに開発された「プッチンスカット」(右)プッチンロールはミシン目があり、簡単に切り離せる。
川上産業は、商品を企業に販売するBtoBで業績を上げてきた会社。個人に直接売るBtoCは初のことだった。営業担当者からは心配や反対の声があがったが、杉山さんは販売代理店の邪魔をするものではないこと、販売対象を個人に絞ることなどをしっかり説明して了解をとりつけ、ついに「プチプチSHOP」をオープンさせた。

これに伴って、新商品も企画開発した。プチプチを卓上サイズにして、切り離しやすいようミシン目を入れた「プッチンロール」、ミシン目で切り離すと小さなバッグ状にした「プッチンバッグ」、プチッとつぶす楽しさを味わうためだけの「プッチンスカット」の3種類を用意した。

社内で大型設備投資をどう説得したか
新商品のおかげで今まで直接リーチ出来なかった一般の顧客から直接意見が届くようになり、これを受けて数年後にはハート型の「はぁとぷち」も発売した。ただ、こちらは金型からつくらねばならず、多大な設備投資が必要だった。採算がとれないのでは? という声も上がったが、最初に発売した3種類の売れ行きが好調だったこと、購入者から好評の声が届いていたこと、今までほとんどなかったメディアからの取材実績が説得材料になった。

ラッピング用に喜ばれる「はぁとプチ」ラッピング用に喜ばれる「はぁとプチ」(写真提供=川上産業)
「自分の主観だけでなく、売り上げやお客様の声という客観的事実を伝えられたのが大きかったと思います。本当に売れるのかと聞かれたときには、絶対売れますって言い切っちゃっていましたね(笑)。『このアイデアを先にライバル企業にやられたら悔しいですよね』とも言いました」

発売後、「はぁとぷち」は見た目のかわいらしさからチョコレートメーカーや化粧品メーカーでも採用され、自らの買い物時に目に触れるようになったほど世の中に拡がった。社内を説得し、工場と何度もやりとりしながら実現させた、最初の成功体験だった。

行動力が評価され「取締役課長」に昇格
次の転機が訪れたのはその翌年。「愛・地球博」内のものづくりパビリオンに出展が決まり、そのプロジェクトリーダーに任命されたのだ。チームメンバーは全国の事業所に散らばる若手社員を中心とした数十名。初めて経験する全社横断プロジェクトに、「私にできるのかな」と不安を覚えた。

「愛・地球博」内のものづくりパビリオンに出展したプチプチだけでつくられたプチプチハウス「愛・地球博」内のものづくりパビリオンに出展したプチプチだけでつくられたプチプチハウス(写真提供=川上産業)
プチプチハウスは、野外に建設したプチプチだけで出来た家。建設は試行錯誤の連続で、本番までの過程では失敗もたくさんした。なかでも最大の失敗は、根回しに関するものだったという。

「メンバーは全員若手社員だったので、当然上司がいるわけですが、私はその上司たちに根回しするところまで頭が回らなかったんです。その結果、あちこちから『勝手に進めるな』ってクレームが入って……あのときは本当にたくさん怒られました」

だが、この失敗からは、組織の動かし方をはじめ、ディレクションやプロデュースに必要なスキルも学ぶことができた。そんな経験を生かし、翌年には社内外の知恵を結集してプチプチの活用事例をまとめた『プチプチオフィシャルブック』を発売。こうして杉山さんは、自らのアイデアを形にする経験を着実に積み重ねていった。

そして30歳のとき、いきなり取締役に抜擢される。それまでは課長だったため、与えられた肩書きは「取締役課長」。いかに飛び級的な昇格だったかがよくわかる。抜擢の理由は「今まで、これほど躊躇なく行動する人はいなかったから」と推測している。

33歳で常務取締役に
当時も今も、杉山さんのモットーは「まずやってみる」と「乗りかかった船は必ず最後まで乗り切る」。取締役への抜擢は、そうした信条と行動力が評価された結果と言えるだろう。

「驚きましたが、これまで通りやるべきことをやっていこうと、割と落ち着いて受け止めることができました。ただ、全国の事業所や工場を見る立場になるので、視点は高く持っておかなければ。その点にはプレッシャーを感じました」

中国古典を読むようになったのはこのころ。また、社員との間に距離ができないよう、対面で会話する、各々が抱える小さな問題にもしっかり向き合う、技術的にわからないことがあれば現場に直接聞く、といったことも心がけるようになった。

その後、33歳で常務取締役に就任し、30代後半には工場長や総務部長も兼務。実はいちばんしんどかったのは、この工場長時代だったという。製造工場は24時間フル稼働で、約60人いる従業員は男性が多く、年齢もバックグラウンドも違う人々が忙しさに追われながら働いているだけに想定外のトラブルも多かった。

工場現場にやってきた女性初の工場長
そこへ、女性初の工場長として赴任。

赴任先は最初が名古屋工場、次が栃木工場で、いずれも単身赴任だった。ミッションは、製造が需要に追いついていない現状を立て直すこと。不慣れな環境で、日々起こる問題を解決しながらモチベーションを上げるという難問に、心身をすり減らす日々が始まった。

「赴任したてのころは、私に立て直せるのかと、とても不安でした。でも、お客様に迷惑をかけないようきちんと製品を供給したい、現場の皆が疲弊せずに働ける環境をつくりたい、その一心でがんばりました」

毎日工場内を2万歩以上歩いた
「現場には当初、女性の工場長に立て直しなんて無理だろうという思いもあったのではないでしょうか」

だが、最終的には「意外にやるなと思ってくれたみたい」と笑いながら振り返る。

「製品を作って出荷する、という当社の源泉の部分に関われ、それを毎日あたり前のように取組んでいるみなさんからは逆に多くのことを学ばせていただきました」

現場を立て直すうえで、いちばん大事にしたのは「鼓舞」だった。毎日2万歩以上も工場内を歩いて、現場の仕事が顧客や会社にとっていかに重要かを皆に伝えて回った。プチプチグッズが雑誌に載ればその誌面を見せ、商品に対する世間の反響をフィードバックするよう心がけた。

「あなたの仕事は重要だよ、認められているよって伝えることが大事だと思ったんです。中には、そういった声掛けでモチベーションが上がって仕事への取り組み方がガラッと変わった人もいました」

工場で皆と一緒に働いた経験は、その後の商品開発やマーケティングにも大きく役立った。原料と製品のバランスを考えて戦略を練れるようになったうえ、製造現場とのやりとりも仲間同士のようにスムーズに進むようになった。

仕事と同じくらいガッツリ取り組んでいる「ライフワーク」
キャリアを振り返れば、公式サイト制作から始まって、ECサイト開設、商品開発、広報、経営、総務、工場長と幅広い領域を経験してきた。30代後半には、2代目社長から3代目社長への事業承継もプロジェクトメンバーの一員として成しとげた。会社は、入社当時と比べると売り上げも社員数も約2倍に成長した。

持ち前の行動力は今も健在で、日々新しい刺激や出会いを求めて前進を続けている。社内外から新プロジェクトを持ち込まれることも多く、「動き続けているから声がかかるのかな」とうれしそうに語る。

動き続ける姿勢はプライベートでも変わらない。20代後半からずっと、日本を拠点にアジア各国にて11か国語を駆使した音楽ライブをするバンドのスタッフを務めてきた。彼らの音楽や活動に共鳴し、ときには海外ツアーにも帯同してきたという。

今月開催した音楽フェス写真提供=杉山さん今月開催した音楽フェス
こうした活動は、今では中国や東南アジアにおける音楽交流プロジェクトにまで発展。杉山さんはそのまとめ役の1人であり、近年では日本で開催されるベトナムフェスティバルやチャイナフェスティバル、中国や東南アジアでの各都市で開催されるはジャパンフェスティバルの実行委員も務めている。

「アジアに関する活動は私のライフワーク。仕事と同じぐらいガッツリ本気で取り組んでいます。それぞれが互いの原動力にもストレス発散の場にもなっていて、私にとってはどちらも欠かせないもの。両方があるからこそうまく回っていると実感しています」

仕事にも、生活の糧以上の意義を見出していると語る杉山さん。現在は、現社長が強く打ち出している「脱炭素経営」の一翼を担っているほか、女性リーダーの育成にも取り組んでいる。今後も自分のモットーを大切に、仕事とライフワークの両面で新たな道を切り拓いていく。

■役員の素顔に迫るQ&A
写真提供=川上産業
Q 好きな言葉
まずやってみる
鼓舞
「できない理由を考えるよりも、まずやってみることを心がけています。また、自分や部下のモチベーションを上げる意味で『鼓舞』することを大事にしています」

Q 愛読書
『孫子の兵法』
『菜根譚』
「いずれも中国古典で、人の動かし方や自分の心のあり方などを学びました」

Q 趣味
アジアと音楽をテーマにした交流プロジェクト、バンド活動

Q Favorite Item
プチプチ 名刺入れ

感想
『菜根譚』が愛読書とのこと。
しぶいです。

工場内を2万歩あるいて現場を知る、現場の人を知る、現実を知る、まさに3ゲン(現場、現物、現実)を実践されてこられたようです。

プチプチを個人販売して実績をあげられても、その人を工場長に抜擢する会社もすごいです。

「同級生らのいじめ認定」大阪市の小5自殺 市教委の判断を覆す “子どもよりも自己防衛の教育委員会に存在価値無し!”

2022-04-27 16:30:00 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/71edd333a70802d84335a1be9c991cef02ece1cd 4/27(水) 13:04 毎日新聞
 大阪市立小5年の女子児童(当時11歳)が2019年、いじめを受けたと示唆するメモを残して自殺した問題で、市の第三者委員会は27日、女児が同級生らのいじめを受けていたと認定した上で、自殺に至る要因の一つだったとする調査報告書を市に提出した。「いじめは確認できない」としていた市教委の判断を覆す内容となった。

 女児は19年9月、学校を欠席して自宅マンションで亡くなった。服のポケットから見つかったメモには「学校で死ねって言われた」などと書かれていた。

 第三者委は女児が受けたいじめとして、友人に貸した金銭を返してもらえない▽亡くなる直前に同級生らから「死ね」と言われた▽苦痛を感じるような言動が同級生にあった――ことなど計8件を認定した。

 報告書は、女児が小3~4年の時点で「学校が楽しくない」と学校のアンケートに答えるなど学校生活への負担を感じていたと指摘。5年に進級するとその傾向がさらに強まるなかで、いじめの苦痛が加わって自ら命を絶つに至ったと結論づけた。

 学校側の対応についても、低学年時からの女児の言動について教員の間で情報が共有されず、注意を払うことができていなかったと批判。いじめの認識やその後の対応にも不備があったと認定した。【松本紫帆】

 ◇相談窓口
・児童相談所虐待対応ダイヤル
189=年中無休、24時間。

・24時間子供SOSダイヤル
0120-0-78310=年中無休、24時間。

・子どもの人権110番
0120-007-110=平日午前8時半~午後5時15分。

・チャイルドライン
0120-99-7777=午後4~9時(対象は18歳まで)、12月29日~1月3日は休み。
https://childline.or.jp/

感想
教育委員会の委員長など即刻首にする必要があるのではないでしょうか?
またいじめがないと判断した委員も首です。

今回の第三者委員会の判断に不服なら裁判を起こせばよいのです。

子どもよりも自己保身、なさけないと思われないのでしょうか?

学校の先生も情けないです。
教育者として恥ずかしくないのでしょうか?

きっと恥ずかしくないから、子どもよりも保身に走り、いじめがあってもなかったことにしたのでしょう。
ただ、もっと教育委員長が権限というか力を持っていると第三者委員会のメンバーを自分たちに賛同してくれる人を集めることができたのですが、そこまでは誰かさんと違って力がなかったようです。