英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

『八重の桜』 第37話 「過激な転校生」

2013-09-16 10:54:52 | ドラマ・映画
「良いものは良い」
これに対し、「ならぬことはならぬのです」は、全く違うことを言っているような感じがするが、それをそのままひっくり返すと「良いものは良い」
……まさに、数学でいう「対偶」。ある命題が正しければ、その対偶も正しい。



熊本バンド、乱入!
「自分を愛するように、汝の隣人を愛せよ」
「人を裁くな。そうすれば、あなたも裁かれることはありません。神以外、人を裁き、断罪することはできないのです」

 八重を「鵺(ぬえ)」と揶揄し、教師や学友を見下す。
 キリスト教を熱心に信仰するが、仁・義・礼などが全く感じられない。
 いったい、キリスト教の何を学んできたのだろうか?

  私は熊本バンドについて何も知らないが、悪く描き過ぎではないのだろうか?

そして、ついに襄に「学校改革要求」を突きつける。

これに対し、襄は
「国(人々)を愛する心とは、自分を愛するように目の前にいる他者を愛することだと、私は信じています。自分自身を愛するように、汝の隣人を愛せよと。
 型通りでなくてもいい。歩みの遅くてもいい。気骨ある者も大いに結構。
 良い者は良い。
 しかし、己の為に、他者を排除する者は、私は断固として許さない。

 我が同志社は、いかなる生徒も決してやめさせません。それにはあなたたちも含まれています。
 その信念がある限り、私が止めることもありません。
 どうか、互いを裁くことなく、共に学んでいきましょう」


しかし、熊本バンドは
「ここまでの事をして、そういう訳にはいかんとです。
 我々はやめさせていただきます」
と立ち去る。

「一緒に作っていきませんか?
 ここはあなたたちの学校です。教師任せにしないで、自分たちで変えていけばいい。どうか力を貸してくなんしょ」


 わっ、出た!
 私は襄の説得で充分だと思ったが、真打(ヒロイン)、登場!



 それでも、人前で涙を流す男を情けないと蔑む熊本バンド。
 あれ?ヒロインの言葉も効果なし?

と思ったら、
 徳富猪一郎(ジャーナリスト志望)が、
「俺は、かっこつけんと、生徒の為に涙を見せる先生を、男らしかと思った」
と、襄や八重をフォロー。
 更に、八重の仕立てた(縫った)着物を連中に見せ、自ら羽織った。

 私は襄の言葉と八重の縫った着物だけで充分だと思う。(八重の言葉は要らない)

しかし、今週は何と言っても……
「新島 鵺にございます」
であろう。

【ストーリー】番組サイトより
 襄(オダギリジョー)の求婚を受け入れた八重(綾瀬はるか)。しかし槇村(嶋政宏)は、キリスト教徒である襄と婚約した八重を女紅場から解雇しようとする。キリスト教に入信しないことが雇用継続の条件と迫る槇村に、八重は夫の考えを認めて支えていくことを宣言。そして、教え子たちに後ろ髪を引かれながらも八重は女紅場を後にする。
 そのころ、中央政界から離れた西郷(吉川晃司)は、薩摩に戻って学校を開いていた。生徒の大半は、職を失い、日本のありように不満を持つ士族たちで…。
コメント (2)
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