山里
くさもきも しげきはるべは くるひとの たちよるかげの たよりなりけり
草も木も しげき山辺は 来る人の 立ちよる陰の たよりなりけり
山里
草も木も茂った山辺は、山にやって来る人がその陰を立ち寄るよすがとしているのであるよ。
山を越える旅路にある人々が、鬱蒼と茂った草木の木蔭や葉陰でいっときの涼を取る絵柄でしょうか。
山里
くさもきも しげきはるべは くるひとの たちよるかげの たよりなりけり
草も木も しげき山辺は 来る人の 立ちよる陰の たよりなりけり
山里
草も木も茂った山辺は、山にやって来る人がその陰を立ち寄るよすがとしているのであるよ。
山を越える旅路にある人々が、鬱蒼と茂った草木の木蔭や葉陰でいっときの涼を取る絵柄でしょうか。
藤の花
なごりをば まつにかけつつ ももとせの はるのみなとに さけるふぢなみ
名残をば 松にかけつつ 百年の 春のみなとに 咲ける藤波
藤の花
河口に立つ松にかかる藤の花は、永遠に変わることなく巡って来ては去って行く春の終わりに、その名残を惜しんで咲いているのであるよ。
「なごり」は「(春の)名残」と「(藤波という波の)余波」、「みなと」は「(春の)おわり」と「(藤がかかる松が立っている)河口」のそれぞれ両義になっていて、わずか三十一文字の中に巧みに二重の意味を詠み込んだ歌ですね。
おなじ六年、八条の右大将、本院の北の方七十賀せらるるときの屏風
春、人の家の松
かはらずも みゆるまつかな むべしこそ ひさしきことの ためしなりけれ
かはらずも 見ゆる松かな むべしこそ 久しきことの ためしなりけれ
おなじ承平六年(936年)、八条の右大将が本院の奥方の七十歳の祝賀を催された際の屏風歌
春、人の家の松
松は少しも変わらないように見えるなあ。松が、久しく変わらないことの象徴とされるのはもっともなことだ。
「八条の右大将」は、時平の長男藤原保忠(ふじわら の やすただ)のこと。「本院」は時平を指し、その「北の方」は時平の正室で第54代仁明天皇の系譜に属する廉子(れんし/やすこ)女王のこと。
おなじ六年春、左衛門督殿屏風の歌
冬
おもひかね いもがりゆけば ふゆのよの かはかぜさむみ ちどりなくなり
思ひかね 妹がり行けば 冬の夜の 川風寒み 千鳥鳴くなり
おなじ承平六年(936年)、左衛門督殿の屏風の歌
冬
恋しい思いに耐えかねて女のもとに行くと、冬の夜の川風が寒いので、千鳥の鳴く声も身に染みて聞こえて来るよ。
「左衛門督(さゑもんのかみ)」は、忠平の長男藤原実頼(ふじわら の さねより)のこと。
この歌は、拾遺和歌集(巻第四「冬」 第224番)にも入集しており、秀歌として名高い一首です。
年のはて、雪
わがやどに ふるしらゆきを はるにまだ としこえぬまの はなかとぞみる
わが宿に 降る白雪を 春にまだ 年越えぬ間の 花かとぞ見る
年の終わり、雪
私の家に降る白雪を、立春になってもまだ年が明けない間に咲いた花かと思って見る。
この歌は後拾遺和歌集(巻第六「冬」 第415番)に入集していますが、そちらでは清原元輔(きよはら の もとすけ)作とされています。事情は015、158と同様で、元輔が屏風歌の作例として手元においていた貫之歌を後人が誤って元輔の家集に加え、後拾遺集はそれをそのまま元輔作として採録したとの説が有力とされています。なお、後拾遺集では第五句が「はなとこそみれ」となっていますね。