以前、北海道開拓が始まった明治2年(1869年)、現在の札幌に居住していた和人一家の一つ、吉田茂八の功績を称える碑を紹介したことがありました(こちら)。
前回行ったのは積雪期だったので、雪のない時期に改めて行ってみました。
この小さな広場に、札幌開祖としての吉田茂八の功績を称える碑があります。
この場所は、札幌の「ふるさと文化百選」にも指定されています。
前回は、「ブラタモリ」札幌編で紹介されていた場所へ行ってみるという行程でしたが、「ブラタモリ」では紹介されなかったものの、、当時札幌に居住していたもう一家の和人、志村鉄一についても、すぐ近くに碑が建立されていると知っていながら行っていなかったので、忘れないうちにと思って行ってきました。
志村鉄一は、この碑にもあるとおり、元は信州の剣客で、安政4年(1857年)、石狩役所調役の荒井金助から、豊平川の渡し守、通行屋守に任命されました。
「通行屋」とは官制の宿屋で、鉄一は、通行屋に併設されていた駅逓の経営にも携わっていましたが、初代開拓使判官であった島義勇によって、豊平川渡し守の役目を追われてしまい、消息を絶ってしまいました。その理由は、碑文にもあるような旧江戸幕府との関係もあったと言われています。
碑文にあるとおり、この碑から約120メートル川下(写真の方向)に、鉄一の住宅が存在していたとされています。
史跡指定されている、志村鉄一居住の地跡の碑。
住宅街ですが、 豊平川の河川敷ということで、わかりやすい場所にあると思います。
鉄一の碑から、豊平川を挟んで、茂八の碑に向けて一枚。
反対に、茂八の碑から鉄一の碑に向けて一枚。
札幌の開祖である二人を称える碑が、豊平川を挟んで並び立っているということに、札幌の歴史の重みを感じます。
(今回紹介した三つの位置はこちら。)