このような講座に参加してきました。
「元町」とは釧路の正式な町名ではないのだけど、釧路発祥の地であり、様々な歴史遺構や関係スポットを有する米町を中心としたエリアの通称で、現地に在住される方々が、この「元町」を拠点として釧路を盛り上げるべく、様々な活動に従事されています。
そんな「元町」にあったとされる遊郭の歴史とは・・・、
場所は、米町の寺町通りにある「西端寺」前から「弁天ケ浜」へ向かう通り。
(写真の場所はこちら)
現在はごく普通の住宅街ですが、かつては、この通り沿いに多数の店が軒を連ねる遊郭街だったそうです。
「釧路市史」によると、明治4年(1871年)頃、小笠原某という人物が、南部藩から女性三人を連れてきて、当時この地を支配していた佐賀藩の役所に開店を願い出、森山、伊藤という役人がこれを許可したというのが遊郭街の始まりだそうで、現在の厳島神社近くの近所の草原に草小屋の仮座敷ができたのが最初だそうです。
道内では、例えば札幌にあった薄野遊郭がそうであったように、厳しい開拓作業を担う労働者を繋ぎ留める目的で、明治政府の許可のもとに公設遊郭が設置されていましたが、釧路では、水産業を振興し、釧路川沿いの内陸部に開拓を進めるための移民定住政策の一環として設置が進められ、水産業の他、炭鉱、製紙という基幹産業が栄えるにつれて、店の数が増えていったとされています。
最盛大正から昭和にかけての頃には、市内に散立していた店を、現在の米町に集約させ、最盛期には、公設で19の店が軒を連ね、私設のものも含めると、その数は30にもなったと言われています。
当時遊郭で働く女性、所謂「遊女」は、東北地方出身が半数以上を占め、親の借金のかたに売られたり、旅館での労働だと騙されて連れてこられた女性もおり、中には弁天ケ浜から身投げして死を遂げた人もいたそうですが、皆、苦しいながらも、家族へ送金するために誇りを持って働いていたそうです。
第二次大戦後、「売春防止法」の施行によって、昭和33年(1958年)に全店が一斉廃業し、昭和終期には建物も解体され、現在は痕跡らしいものも残されてはいませんが、今日の釧路の発展を支えた「裏面の歴史」として、正しく理解し、語り継いでいくことを目的として、今回この講座が開催されたということでした。
私も大変興味深く話を聞くことができて、参加してよかったと思います。
本当に現在は普通の住宅街。
札幌の薄野のように、遊郭の痕跡(と言っても、言われなければ分からないものですが)が残されているわけでもありませんからね・・・。
現在は公園になっている所にも、古い地図によると、店があったそうです。
古い地図によると、寺町通りから一歩中に入った小さな通り沿いにも店があったそうです。
多分この辺りではないかと思われる場所を撮りましたが、貸座敷組合の事務所もあったとか。
何の変哲もない住宅地に残されている、釧路発展の裏側の歴史。
それに思いをはせながら町歩きをしてみると、また見方も変わってくるような気がします。