monologue
夜明けに向けて
 



 それから『ぞうれっしゃ合唱団』の団員という方々がコーラスをするということで家に練習に来られた。それは第二次世界大戦下、軍の命令で動物園の動物達が危険ということでほとんど殺され、戦後日本中でたった2頭生き残っていた名古屋の東山動物園の象を全国の子供達が見に来られるように仕立てた特別列車『ぞうれっしゃ』の話しの合唱劇『ぞうれっしゃがやってきた』を公演するための合唱団だった。

 1992年2月16日の当日、オーディションで選ばれた出演者がパフォーマンスする第一部が終わって、第二部にわたしは出演した。『かとうみちこ』という川口市在住の女性詩人が、お話と司会をされた。かとうさんはわたしの一曲目のインストルメンタルナンバー『愛と光のテーマ』を聴いていると涙が出てきた、とおっしゃって次ぎの曲を紹介された。二曲目以降に稽古した『ぞうれっしゃ合唱団』の方々のコーラスのサポートがあった。第一回ということで主催側も聴衆もぎくしゃくしているように感じたりしたが、最後のアンコールに『わかりあえる日まで』を英語バージョンで歌った。帰ろうとするわたしのもとにご老人が歩み寄ってこられた。なにかと思うと「英語で歌ってもらってありがとうございます」と言う。わたしは、このお爺さん、英語がわかるのかな、と思った。はあ、どうも、と挨拶しているとそのお年寄りはその場にひれ伏した。なんと、土下座しだしたのだ。わたしは困って息子を見た。息子もあいまいに笑って成りゆきを見ていた。ステージの上でお互いに土下座し合っていたら珍妙な光景だっただろう。なにはともあれ、こうして第一回目の川口市ボランティア・フェスティバルはつつがなく終わって、川口市の新しいムーブメントは端緒についたのであった。この地にも新たな風が確実に吹き始めた。
fumio

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そしてその後ひと月ほど色々なところから依頼を受けて出演したり近くで行われるイベントに顔出しを頼まれて挨拶をする日々を過ごし、記憶は突然無影灯の影 に飛ぶ。それは試練の続きでわたしがこの世で経験しておかなければならないことのひとつらしい。脳内出血で死にかけてわけのわからない世界を彷徨(さまよ)い東川口病院での手術後、ひと月ほど入院生活を送った。ここにも普通、人が見ないように目を背ける世界があり脳卒中関係の植物状態の患者さんなどの姿を毎日見ることになった。わたしはここで武蔵村山病院とはまた違う辛苦を目にした。まだ死んでいないのに死後の財産分与の争いがベッドのそばで行われたりした。しかしここの看護婦さんたちは本当に天使のようだった。一生懸命患者たちに尽くしていた。民間だからだろうか。看護学校実習生や准看たちが蝋燭を持ってクリスマスに歌を歌ってまわったりして心が和んだ。人を助けるために懸命に生きている女性達の姿がまぶしかった。

 翌年1992年一月に退院して家に帰ったわたしはほっと一息ついた。まるでそのときを測っていたように電話が鳴った。それは『第一回川口市ボランティア・フェスティバル』への出演依頼だった。川口市でもボランティアの新しい風を起こす、ムーブメントをスタートするために企画されたという。その電話の熱い口調から意気込みが伝わってきた。入院さえ親以外には報らせていないはずなのにどうしてわたしの退院を知ったのか驚いた。そのタイミングの良さに妻と顔を見合わせた。妻はわたしの不在中、一度も電話の呼び出し音が鳴ったことがないと言うのに…。
fumio


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 それからしばらくすると、NHKカメラマンの山下伸一郎さんからヴィデオテープが二本届いた。一本はNHK総合テレビで『ひびけ いのちの歌声 第1回アジアわたぼうし音楽祭』と題して放送された番組そのままのヴィデオテープだった。伸一郎さんは現場で取材した立場から見て、プロデューサーの製作意図方針によって日本の代表曲二曲のうち「祈り」をなかったかのようにカットし「わかりあえる日まで」も英語の部分をカットして日本語だけであったかのように構成編集されたその作品に不満を覚えたらしい。それで自分で取材した多くのヴィデオテープを自分で編集してもう一本「第1回アジアわたぼうし音楽祭」のヴィデオテープを特別に作って送ってくれたのだ。そこにはあったことがあったままに映り、ありのままのみんなの姿が映っていた。わたしにはそれを見て欲しかったようだ。見比べるとわたしにもヴィデオカメラを通して現場から真実を伝えようとするかれの感じたことが伝わってきた。おかげでわたしはその特別編集ヴィデオテープによってのちにホームページにあの映像 をアップロードすることができたのである。

 そして、わたしがかれに「水面に描いた物語」のアルバムのカセットテープを送ると伸一郎さんはNHK山梨放送局で「ハロー・エンドレス・ドリーム」 をラジオでかけてもらったりした。なんだか心が底で通じ合っているような方だった。
fumio

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その年、1991年9月14日午後9時にNHK総合テレビで『ひびけ いのちの歌声 第1回アジアわたぼうし音楽祭』と題して第1回アジアわたぼうし音楽祭の模様が放映された。それはその丁度3年前1988年9月14日午後9時にわたしが渋谷の稽古場で首の骨を折った日付と時間で、だれがそのように設定したのかと不思議な気がする。

 番組は構成がむづかしかったらしく焦点が絞りきれず雑多な印象になってしまっていた。まるで日本代表がわたしだけであったようになぜか日本代表として一緒に出場した熊野ゆかりさんのことには一言も触れられなかった。かの女は現地シンガポールの新聞にインタビュー記事が載るほど評判が良かったのである。かの女は頸椎すべり症で身体の小さい可愛い女性だった。歌のボランティアの小園優子さんと
「この世に生まれて来るときには
叫ぶ言葉は みんな同じ 両手を伸ばして求めたものも
きっと同じ 同じはずだわ」
と感動的な代表曲「祈り」を車椅子で一生懸命歌っていた姿が目に浮かぶ。

 2003年にその熊野ゆかりさんが九月に亡くなった、というハガキが来た。それでウェブで調べると亡くなったのは九月一日の夕方だった。そして小園優子さんは2001年12月23日に急逝されていた。乳ガンで享年40才だった。本当に驚いた。ふたりとも急ぎ足で逝ってしまっていたのである。第1回というエポックメィキンブな出来事に参加していながら知らない人にとっては番組で言及されなかったことでその時存在しなかったようになってしまった。こうしてわたしがブログに書くことがかの女たちの生きた証(あかし)となるだろう。合掌。
fumio






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「第1回アジアわたぼうし音楽祭」
 各国各地域の代表曲。

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○ 「MOVE ON IN HOPE 希望の道」
プラモート・タエ  タイ

○ 「SIGN  IT  BEAUTIFUL 美しい 手の語らい」
ジュディ・ホー/ ウン・ビーホウ シンガポール

○ 「VOICE  声」
ジャファー シーテック ビン アマト スリランカ

○ 「泰山を18回巡ることを忘れるな」
リゥ ジァルイ  中華人民共和国

○ 「AH! LIGHT  ひかり」
フ・シャオファ/ フ・キアン 中華人民共和国(上海)

○ 「THIS IS OUR RIGHT 私達の権利」
カミニ・フォンセカ スリランカ

○ 「共創新天地  ホンコンを共創新天地に」
エリック チョウ ウィン ウォン/ ウン ・クォフン 香港

○ 「公衆電話」
チャン・ユー・ハオ 
演奏 ウッドペッカー 台湾(Chainise Taipei)

○ 「LESS FORTUNE 運が悪いの」
レオニーダ・パウチスタ フィリピン

○ 「TO STAND MY OWN 自分の力で」
エサー・ブトゥ・マハト/ターミ・ブトゥ。サヌシ/ワン・ツァワウィ マレーシア

○ 「LET’S MAKE A BEAUTIFUL WORLD」
チョン・スファ 韓国

○ 「 GOOD MORNING GENERATION」
アリーフ ラックマン ハキム インドネシア

○ 「祈り」
熊野ゆかり/小園優子 日本

○ 「わかりあえる日まで」
山下富美雄  日本

****************

 「第1回アジアわたぼうし音楽祭」はコンテストではなくお祭り(フェスティバル)だった。アジア各国の代表曲はそれぞれに素晴らしかった。西洋音楽と異なる一種独特の特徴があった。それは各国の代表として参加した人々が一堂に会してともに演奏することを目的とする音楽の祭であった。それでも、政治の暗い影はここにも及び中国と台湾の名称を巡って揉めて最後に折衷案として中国は「PEOPLE’S REPABLIC OF CHINA」(中華人民共和国)、台湾は「CHINESE TAIPEI」中国台北という名称で出場することで合意したのであった。


 NHKカメラマンの山下伸一郎さんは夜、ホテルで練習をするわたしたちにつききりだった。自分も出場するような熱い気迫をもってカメラをまわしているのが伝わってきた。うまく歌えると一緒に喜んでいた。そして本番の日、伸一郎さんは舞台に出て行くわたしたちを仲間意識をもって励まして後ろ姿をカメラで追った。それがこの舞台の映像 なのである。その山下伸一郎氏が昨年2008年5月5日に五十九歳で永眠された。同志のような方だったのに残念だった。あの素晴らしい時間を共有できてうれしかった。ありがとう。合掌…。
fumio

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わたしのホームページ 「ようこそMONOLOGUEへ」のインストルメンタル曲以外の全ての曲の2009年後半三ヶ月間カウントダウン。
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(2009年7月1日~9月30日
ヒット数1万3,390件中
順位   曲名  アクセス数

1位水面に書いた物語  480
2位ごめんなさい  464
3位あやかしのまち 405
4位軽々しく愛を口にしないで  293
5位女優(スター) 266
6位マイ・スィート・ライフ  240
7位ときめきFALL IN LOVE 237
8位ラスト・ランデヴー  235
9位はるかなるメロディ  234
10位それってⅨじゃない  196
11位オーロラの町から  191
12位素顔のマスカレード  170
13位Stay with me  162
14位Sentimentallady”M”  153
15位しあわせになれる  152
16位恋すれば魔女  145
17位まことのひかり  131
18位わかりあえる日まで  130
19位プロセス   96
20位NEVERGIVE UP!  80


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 今年2009年も後半に入って三ヶ月経ってしまった。昨年2008年は一年を通してのベストスリーは1位「水面に書いた物語」2位「あやかしのまち」「3位「ごめんなさい」であった。今年も同じような結果になるのだろうか。
ご愛聴感謝。
fumio

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 私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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10月25日(金)~10月9日(金)
ヒット数:1,415件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(2)<3>水面に書いた物語
第2位(1)<1>あやかしのまち
第3位(3)<2>ごめんなさい
第4位(5)<4>軽々しく愛を口にしないで
第5位(4)<13>マイ・スィート・ライフ
第6位(13)<17>わかりあえる日まで  
第7位(9)<6>女優(スター)
第8位(6)<5>ラスト・ランデヴー
第9位(7)<9>ときめきFALL IN LOVE
第10位(15)<11>はるかなるメロディ
第11位(10)<7>それってⅨじゃない
第12位(11)<8>Sentimentallady”M”
第13位(16)<15>恋すれば魔女
第14位(19)<16>素顔のマスカレード
第15位(17)<20>プロセス
第16位(8)<10>オーロラの町から
第17位(12)<12>Stay with me
第18位(18)<19>しあわせになれる
第19位(14)<14>まことのひかり
第20位(20)<18>NEVER GIVE UP!

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 今週はやはりブログ本文と連動して第4位の軽々しく愛を口にしないで と第6位にわかりあえる日まで とが躍進している。ご愛聴感謝。
fumio







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 中国系シンガポール人の運営委員長ジョン・テイ氏が残念がっていたけれどシンガポールには生駒児童合唱団は来なかった。来ていても英語では歌えない。ことばは思いを伝えるただのツール(道具)でしかない。そこが日本であれば日本語で歌えばいいし英語圏であれば英語でいい。その場に集うできるだけ多くの人(お客さん)が理解できて共感できれば良かった。
 
 舞台稽古の日、Kallang theatre(カラン・シアタ ー)のまだガランとした客席にはシンガポール側、日本側、NHK関係の運営委員が陣取って見守っている。わたしたちはパンフレットに印刷されているように英語で歌おうとした。すると異論が出て日本語で歌うべきだ、という。いや英語がいいという。それぞれの立場、持っているコンセプト(構想)がぶつかった。「船頭多くして舟山に登る」のたとえ通りに揉めだした。しばらく待っていると協議して英語日本語それぞれで歌ってみてくれ、ということになった。それでまず英語で歌い、それから日本語で歌った。それでも首をひねって結論がでない。わたしは英語と日本語半々のヴァージョンもある、と言った。それをやってくれ、というので英語日本語半々ヴァージョンを息子とMIYUKIとの三人で歌った。今回は合唱団なしで良かった。とてもこんなに簡単にヴァージョンを変えて歌ってみせられなかっただろう。なにはともあれそれでOKが出て本番は英語日本語半々ヴァージョンで臨むことになったのである。
fumio

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 シンガポール共和国は、赤道直下、東南アジアのほぼ中心でマレー半島南端とジョホール海峡で隔てられているシンガポール島と周辺の島を領土とする都市国家である。ライオン(Singa)の都市(Pura)」「Singapura(シンガプーラ)」という意味である。上半身がライオンで下半身は魚である守り神マーライオン (Merlion)が印象的だった。到着したシンガポール・チャンギ国際空港はすごく立派できれいな空港だった。唾を吐くと罰金をとられるほど国をあげて町の美化にとりくんでいるらしかった。

 案内された大会運営本部にはカメラマンの山下伸一郎さんを中心とするNHKの撮影クルーもすでにやってきていて撮影を始める。大会運営関係者との会話は英語だった。シンガポーリッシュと呼ばれる独特の英語で通訳がついた。第1日目は市内バス観光で各国の代表団が乗り込み、めぼしい観光スポットをまわった。マレーシアの代表団はわたしたちを見ると「わかりあえる日まで」を口ずさんでみせてくれた。不思議な気がしたけれどテープかヴィデオであらかじめ知っていたらしい。バスの中にギターを持ち込んできたグループもいて楽譜なしで演奏できるビートルズその他の様々な有名曲を弾いて和気藹々と楽しんでいた。でも歌詞はだれもあまり覚えていないようだった。それで昔取った杵柄(きねづか)でかれらの弾く歌はみんな歌詞なしで歌えたのでわたしがリードして歌い盛りあがった。音楽はやはり世界の言葉だった。喋らなくても歌えば通じ合える。食事は辛いものが多くてわたしの口には合わなくて腹を下してしまった。

 二日目に舞台稽古があった。日本の代表曲は二曲選ばれていた。わたぼうし大賞の「わかりあえる日まで」と文部大臣賞に輝いた、熊野ゆかりさんの作詞した「祈り」である。「祈り」は作曲した歌のボランティアの小園優子さんと熊野さんがふたりで歌っていた。配られたショーのパンフレットには「わかりあえる日まで」は「By the day we see eye to eye」として英語の歌詞が印刷されていた。シンガポールは英語圏でなのでやはり英詞にして良かったのだと思った。しかしわたしたちが舞台に立って歌の稽古に臨んだとき、異論がでたのである。
fumio

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 1991年8月,シンガポールへ出発する日の早朝、妻は寝ている部屋の引き戸がスッと開いたので息子の仕業 と思って「まだ早い」と叱ってふたたび寝入った。やがて時間になってみんなが起き出して朝食を摂るとき、息子に、あんなに早くから戸を開けて、というと「ぼくは開けていない」と否定した。おかしいと思いながらとにかく急いで身支度をして昨夜用意しておいたトランクなどを車に積み込み出発しようとした。するといくらキイをまわしてもエンジンがスタートしない。困ったことになった。飛行機の時間に遅れるわけにはゆかない。バッテリーがあがっているようだった。タクシーを呼ぼうかなどと相談しているとどういうわけか向かいの家に親戚の方が車でやってきた。わたしたちの車が動かないのに気づいて「駅まで送ってあげましょう。」という。おかげで送ってもらった駅からなんとか電車を乗り継いで空港に着いた。そこから修理工場に電話して、家の駐車場の車のバッテリー交換を頼んだ。 そして1991年8月21日(水)わたしたち一家はKallang theatre(カラン・シアタ ー)に「第一回アジアわたぼうし音楽祭」の日本代表として参加していたのである。

 出発の朝、妻の寝室の戸を開いたのはだれだったのだろう。車が使えないことを報せて早く起こして対策を建てさせようとしたのか。そしてあんなに朝早くからうちの向かいの家に車を差し向けたのはだれなんだろう…。
fumio



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 宣教師のジェームズ・ラッセル師はわたしの家に来ると宗教関係の話しをするのではなくいつも互いの青春期に聴いたアメリカの音楽の話をした。日本語があまりうまくないのでわたしと米語でそんな思い出話をできるのが息抜きになったのだろう。

 わたしは「わかりあえる日まで」を「By the day we see eye to eye」として英語で歌うのならリードシンガーであるMIYUKIの発音がどの程度のものなのか気になってわたしの歌We all need Love を歌うMIYUKIのカセットテープをラッセル師に聴いてもらった。すると、「かの女はネイティヴなのかい?」と不思議そうにわたしに尋ねる。日本人が歌っているように聴こえないようだった。それなら英語ヴァージョンで歌っても大丈夫と安心した。それから日本語ヴァージョン、英語ヴァージョン、そして日本語と英語、半々の三つのヴァージョンを練習しておいた。このときはまだ予測していなかったがそれがシンガポールの本番で役に立つことになるのである。
fumio


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 1991年になるとやがて「第1回アジアわたぼうし音楽祭・シンガポール大会」を採り上げるテレビ番組のプロジェクトが始動して日本代表となったわたしの家にまだNHKディレクターだった寺谷一紀 氏がカメラマンと音声担当を連れて何度かやってきた。かれは京都の洛星中学高等学校出身ということでわたしも京都出身なので親しみが湧いた。大阪人であり京都人でもあるような方だった。わたしたちの家庭生活やインタビューを何回か収録して帰った。

 代表曲に選ばれた「わかりあえる日まで」は、はじめ「By the day we see eye to eye.という題名を思いついて作った歌だった。英語で目と目をあわせることがわかりあうことになるのがおもしろいと思ったのだ。それでシンガポールは英語圏だし日本語にこだわらず英語圏の人ならだれでもわかるように元の英語にもどして英語の歌詞を作っていると宣教師のジェームズ・ラッセル師が友達の米国人牧師を連れてきた。わたしが作った英詞の表現にわかりにくいところやまちがいはないかチェックしてもらうとおおむねOKが出てそれからしばらくみんなで首をひねって細かい手直しをしてそれがすむと歌ってくれという。わたしはカラオケをかけてダメだしが終わった歌詞 を見ながらふたりのネイティヴ・スピーカーの客の前で一生懸命歌った。終わるとふたりの聖職者は「it’s a hit!」「it’s a hit!」とはしゃいでいた。
fumio


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 「NEVER GIVE UP!」 をレコーディングしにきた時。MIYUKIは「道に咲いてる名もない花に宿る小さな命みつめなおして」という歌詞に感動して涙が出た、という。かの女のその感性がうれしかった。普通の人にはべつになんでもない一行だろうけれど歌って発信する立場となればそんな感性が要求される。

 何週間かして奈良の「たんぽぽの家」から封筒が届いた。「第十五回全国わたぼうし音楽祭」に出場して競い合う十作品のうちの一曲に「わかりあえる日まで」 が選ばれたという。そこで大賞を獲得すると翌年に予定されている第1回アジアわたぼうし音楽祭・シンガポール大会の日本代表となるということだった。

 1990年8月5日、奈良県文化会館太ホールに着くと生駒児童合唱団の7人の女の子たちが揃いの水兵さんのような衣裳でバックコーラスをしてサポートしてくれるということで紹介された。かの女たちの喋る関西弁が人なつっこく可愛らしくてなつかしくて子供の頃をフト思い出した。その合唱団の女性先生に挨拶してそれから控え室でまずみんなで声出し練習をした。それはわたしと息子とMIYUKIにとってはいつものことだったけれど合唱団の少女たちには慣れないことらしく戸惑っていた。一旦、上ずった声を出し切ってからカセットでカラオケを流してそれぞれのパートを確認しながら歌った。合唱団と息が合うまでそれを繰り返した。他の出場者は不審そうにわたしたちの練習を見ていた。あまり見慣れぬ光景だったらしい。次々と呼ばれて控え室から出場者が出て行き最後にわたしたちの出番が来た。客席は盛況で一杯だった。妻は客席で応援してくれるけれどどこにいるかわからなかった。他の出場者は生演奏だったがわたしたちは生演奏ではなくわたしがコンピューターで作ってきたカラオケを使用した。さっきまでの稽古より本番はお客さんがいるのでみんな乗って歌えた。上出来だった。

 どの出場者の歌もそれぞれ深くて心を動かされるものだった。崎田国和さんは「いつか風のように」という詞を書いて選ばれて筋ジストロフィーというのに南九州から車椅子でやってきていた。その「手話もまばたきも唇の動きも言葉として認め合い、わかりあい」という詞に感動した。隣のベッドの僚友が気管支を切って声を失ったときに書いたそうだった。

 いよいよ審査結果が出て司会者ができるだけひっぱって気をもたせに持たせてついに大賞の名前を読み上げると同時に会場に「わかりあえる日まで」が流れた。合唱団の女の子たちが飛び上がって泣き出した。わたしは「わたぼうし大賞「作詞賞」「作曲賞」「NHK賞」の各賞状をもらい、そしてマイクの前に立ち「わかりあえる日まで」をもう一度歌った。合唱団の女の子たちはそのあいだも顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくってまともに歌えなかった。それでも良かった。MIYUKIが音頭をとって出場者みんなでそして会場のお客さんも「世代を超えて人種を超えてすべてを超えてわかりあえる日まで」と歌っていたのだから…。
fumio

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 私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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9月25日(金)~10月2日(金)
ヒット数:1,644件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<1>あやかしのまち
第2位(3)<3>水面に書いた物語
第3位(2)<2>ごめんなさい
第4位(13)<5>マイ・スィート・ライフ
第5位(4)<4>軽々しく愛を口にしないで
第6位(5)<14>ラスト・ランデヴー
第7位(9)<8>ときめきFALL IN LOVE
第8位(10)<10>オーロラの町から  
第9位(6)<12>女優(スター)
第10位(7)<9>それってⅨじゃない
第11位(8)<5>Sentimentallady”M”
第12位(12)<18>Stay with me
第13位(17)<13>わかりあえる日まで
第14位(14)<19>まことのひかり
第15位(11)<7>はるかなるメロディ
第16位(15)<11>恋すれば魔女
第17位(20)<20>プロセス
第18位(19)<16>しあわせになれる
第19位(16)<16>素顔のマスカレード
第20位(18)<17>NEVER GIVE UP!
第21位(-)<->手をかざしてごらん

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 今週は予想通りというかやはりブログ本文と連動して21位に手をかざしてごらん が入っている。ご愛聴感謝。
fumio






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 昨日、帰宅した妻が崎田さんから郵便が届いていると封筒を渡してくれた。崎田さんというのは国立南九州病院で筋ジストロフィー の療養生活をしている崎田国和さんのことである。崎田さんとは「第十五回全国わたぼうし音楽祭」で一度お会いしたことがあった。その後時折り文通をしているのだ。かれは『愛のある風景』という詩集を出版して送ってくれたり病院の患者さんと思えない活躍をされている方である。今日「第十五回全国わたぼうし音楽祭」について書こうと思ったからそれに合わせてあの時、顔見知りになって今もただひとり交流が続いている崎田さんの便りが届いたのだろうか、とあまりにもタイミングが良すぎてちよっと不思議な気がした。

 毎日新聞の募集記事を読むと「わたぼうし音楽祭」とは障害を持つ人の作った詩に曲をつけて発表して大賞を争う、というシステムらしかった。それまではそんな記事は自分に関係がないので気に留めていなかったがわたしも今回「体幹機能障害」を持ったので応募資格ができたのだ。それで一度応募してみようかと思った。そんなわけで、新たな時代を開くためにわれわれ人類に与えられたと思う二曲 NEVER GIVE UP! わかりあえる日まで をカセットテープに録音して送ったのである。
fumio

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