monologue
夜明けに向けて
 



 1991年になるとやがて「第1回アジアわたぼうし音楽祭・シンガポール大会」を採り上げるテレビ番組のプロジェクトが始動して日本代表となったわたしの家にまだNHKディレクターだった寺谷一紀 氏がカメラマンと音声担当を連れて何度かやってきた。かれは京都の洛星中学高等学校出身ということでわたしも京都出身なので親しみが湧いた。大阪人であり京都人でもあるような方だった。わたしたちの家庭生活やインタビューを何回か収録して帰った。

 代表曲に選ばれた「わかりあえる日まで」は、はじめ「By the day we see eye to eye.という題名を思いついて作った歌だった。英語で目と目をあわせることがわかりあうことになるのがおもしろいと思ったのだ。それでシンガポールは英語圏だし日本語にこだわらず英語圏の人ならだれでもわかるように元の英語にもどして英語の歌詞を作っていると宣教師のジェームズ・ラッセル師が友達の米国人牧師を連れてきた。わたしが作った英詞の表現にわかりにくいところやまちがいはないかチェックしてもらうとおおむねOKが出てそれからしばらくみんなで首をひねって細かい手直しをしてそれがすむと歌ってくれという。わたしはカラオケをかけてダメだしが終わった歌詞 を見ながらふたりのネイティヴ・スピーカーの客の前で一生懸命歌った。終わるとふたりの聖職者は「it’s a hit!」「it’s a hit!」とはしゃいでいた。
fumio


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