monologue
夜明けに向けて
 



そしてその後ひと月ほど色々なところから依頼を受けて出演したり近くで行われるイベントに顔出しを頼まれて挨拶をする日々を過ごし、記憶は突然無影灯の影 に飛ぶ。それは試練の続きでわたしがこの世で経験しておかなければならないことのひとつらしい。脳内出血で死にかけてわけのわからない世界を彷徨(さまよ)い東川口病院での手術後、ひと月ほど入院生活を送った。ここにも普通、人が見ないように目を背ける世界があり脳卒中関係の植物状態の患者さんなどの姿を毎日見ることになった。わたしはここで武蔵村山病院とはまた違う辛苦を目にした。まだ死んでいないのに死後の財産分与の争いがベッドのそばで行われたりした。しかしここの看護婦さんたちは本当に天使のようだった。一生懸命患者たちに尽くしていた。民間だからだろうか。看護学校実習生や准看たちが蝋燭を持ってクリスマスに歌を歌ってまわったりして心が和んだ。人を助けるために懸命に生きている女性達の姿がまぶしかった。

 翌年1992年一月に退院して家に帰ったわたしはほっと一息ついた。まるでそのときを測っていたように電話が鳴った。それは『第一回川口市ボランティア・フェスティバル』への出演依頼だった。川口市でもボランティアの新しい風を起こす、ムーブメントをスタートするために企画されたという。その電話の熱い口調から意気込みが伝わってきた。入院さえ親以外には報らせていないはずなのにどうしてわたしの退院を知ったのか驚いた。そのタイミングの良さに妻と顔を見合わせた。妻はわたしの不在中、一度も電話の呼び出し音が鳴ったことがないと言うのに…。
fumio


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