「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

子どものBPD (1)

2009年03月16日 14時45分35秒 | BPD,パーソナリティ障害の書籍から
 
 ランディ・クリーガーの

 「BPDをもつ子どもの 親へのアドバイス」 (星和書店) という本に、

 子どもにもBPDはある ということが述べられています。

 今まで、 子どもには

 境界性パーソナリティ障害の診断は 適用されませんでした。

 BPDは 症状が継続的 (固定的) な 状態であるのに対して、

 子ども成長の途中で、 性格や行動などは 変化するものと考えられるからです。

 しかし 「DSM-Ⅳ」 (アメリカ精神医学界・精神科診断基準) では

 1994年、 子どもにも

 BPDの診断が 下される可能性を 認めたということです。

 ただし、問題となる行動が 1年間以上続いており、

 またその行動が、 通常の発達段階, 物質乱用の影響,

 一時的なうつ状態や摂食障害などで 説明ができない、

 という場合に限られます。

 しかしアメリカでも 大半の専門家は、

 新しい診断基準の定義を 知らなかったり、

 実際にそのような子どもを 診た経験がないといいます。

 そのため、 どうしたらいいか分からずに 悩んでいる、

 BPDの子の親が 多いというのです。

 BPDの子どもは 支配したがり、 思い通りにならないと 怒鳴ったり、

 他の子の悪口を 言ったりします。

 ささいな喧嘩の域を 遥かに超えて、

 劇的な激しい怒りを 示すこともあります。

 心の底で 他の子どもを恐れていて、

 無意識的に、 相手に拒絶される前に 自分から拒絶するかもしれません。

 親は、 子どものどのような行動が 人を遠ざけているのか、

 指摘してやるといいでしょう。

 人気のある子は どのように他の子と接しているか、

 よく観察してごらんと 勧めるのです。

〔 「BPDをもつ子どもの 親へのアドバイス」
  ランディ・クリーガー (星和書店) 〕 より

(次の記事に続く)
 
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「心のネットワーク」 (4)

2009年03月15日 15時14分01秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

「それは、 アメリカで進んでいる

 『臨死体験』 の研究によっても 裏打ちされるだろう。

 臨死体験をした人達は その大半が、 死に対する 恐怖がなくなり、

 死後の生命を確信し、 限りなく自分が受容され、

 絶対的な存在との一体感、 筆舌に尽くしがたい 安らぎを得るという。

 それは、 『あるもの』 による 究極の 『癒し』 なのだろうと 僕は思う。

 僕には 肉体的な臨死体験はないが、

 精神的死に瀕していた 体験を通して 絶対的なものと邂逅した。

 これも臨死体験に通ずる 証左であると思っている。

 また 臨死体験者は、 無条件の愛、 人類同胞意識、

 思いやりや寛容というものの 価値を見いだし、

 その後の人生観が 一変するという。

 自分の存在が 全面的に抱かれていると 感じられたとき、

 自らもまた 他のために奉ずることが できるのかもしれない。

 全ての人間は、 『あるもの』 の許で 受け入れ合い、

 支え合っている存在である。

 自ら生きるとともに、 互いに生かされ合っている。

 他者に臓器を 提供するという価値観も、 ここに通じてくるのだと言える。

 『私の命』 と 『あなたの命』 は 同じひとつのものである。

 その死生観のうえにこそ 移植は成り立つだろう。

 ひとりの命は 万人に与かっているし、

 万人の命もまた 一人に与かっているのである。」


 かつての僕は、 理想ばかりが怪物的に巨大で、 その結果 精神的に破滅し、

 それまでの自分の 信念も希望も 全てを失ったのでした。

 でも その泥沼から這い上がり、

 再び零から 価値観を築いていくことができました。

 今の僕は、 現実と自分の 限界も受け入れ、

 しかし 決して妥協することなく、

 時間をかけて じっくりやっていかなければならないと 思っています。

(以上)
 
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「心のネットワーク」 (3)

2009年03月14日 22時51分27秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

「 人間とは、 『あるもの』 のうちに 本来的に抱かれ、

 癒されるべき 存在なのではないだろうか。

 だが、 この世で それが得られることは 稀である。

 本当に人が苦しむことを 許せる人間は 極めて少ない。

 人は 他人の不幸と在ることを 嫌悪する。

 不幸の重さは 隣りの人をも押しつぶす。

 不幸は 人に伝染するかのようである。

 人の心に 携わっている人間でさえ、

 身も世もない苦悩を 自ら味わったことのない者は、

 苦しみもがく人間の どうしようもない痛切を、

 ついには 受け入れられないことがある。

 最も癒しを求め、 分かち合いを信じた 正にそのとき、

 否定される傷の深みは 無惨なまでに痛ましい。

 しかし 人間には、 それでもなお 人を信じ、 受け入れていこうとする、

 ほとんど祈りにも近い  『希求』が、 いつしか再び 湧き起こってくる。

 多くの人に受け入れられないことを 悲しむより、

 ある魂を持った人々と 通じ合えることこそが、

 幸甚であると 言うべきなのだろう。

 その人々の魂だけで 万人に値する。

 それによってこそ 人は支えられ、 癒される。

 それはまた、 人を想い、 共にあろうとするときの 力となる。

 それが 『あるもの』 へと 繋がる証である。

 そしてまた、 『死』 は、 『あるもの』 と一体化する

 『成就』 であると 言えるのかもしれない。

 個々の命は この世での役割を 終えたとき、

 『あるもの』 の許へ 帰っていく、 と僕は思っている。

 死は 終焉なのではなく、 人間が本来 抱かれるべき場への 回帰であり、

 そして 再生への希望であるのかもしれない。 」

(次の記事に続く)
 
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「心のネットワーク」 (2)

2009年03月13日 20時18分25秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

「 『 もし僕が 人生に殺されたとしても、

 それでもなお、 僕は 人生に希み (のぞみ) を かけずにはいられない。 』

 苦中の僕は、 深大な感慨をもって それを感得することができた。

 人生は いつかまた 僕を裏切るだろう。

 しかし、 僕こそは もはや人生を 裏切ってはならないのだ。

 幸福なときにではなく、 最も苦しいときに、 それを感じ取ることができた。

 感じ取れるものが 自分の中にあった。

 自分はもう生涯 幸せになることはできないだろうと 苛まれていたなかから、

 絶望ではなく希望が、 憎しみではなく愛が、 自らのうちに甦ってきた。

 この底知れない希望は、 果たして何なのだろうか?

 一体どこから やって来たものなのだろうか?

 これはもはや  『あるもの』 から 自分のうちに与えられたのだ、

 としか、 僕には思えない。

 与えてくれたもの、 信じさせてくれたものの 存在を、

 僕は 渇仰しないわけにはいかない。


 僕は 特定の宗教は持たない。

 それが 『あるもの』 に対する 僕の敬虔さである。

 『あるもの』 は 一切を止揚し、 そしてまた 万物のなかにある。

 『全』 にして 『個』、  『個』 にして 『全』 というものなのだと思う。

 自己 (個) と 『あるもの』 (全) は、

 最も根源的なところで 繋がっており、 全一なるものである。

( ウパニシャッド哲学では、 真実の自我たる 『アートマン』 と

 宇宙そのものである 絶対者 『ブラフマン』 とは、

 最終的に 同一になるとされる。 )

 善と悪さえも 一体であると思われる。

 あらゆる個は 互いに 争闘し合うとともに、

 それらの相剋は あまねく 全なる存在に支えられている。」

(次の記事に続く)
 
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「心のネットワーク」 (1)

2009年03月12日 21時15分40秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
 「ジャン・クリストフ」 や 友人との出会いによって、

 長く、 重苦しい暗闇から ようやく抜け出し、

 やがて 深い傷も癒えて、 日常生活も取り戻していきました。

 僕は ある会の冊子、 「心のネットワーク」 に 以下の文章を寄せました。

「 僕には 27才のとき、 大なる挫折の 時期があった。

 孤独、 自己否定、 絶望、 嫉妬、 世に対する呪い……

 あらゆる負の感情に 蝕まれ、 僕は泥沼の底で のたうちまわっていた。

 苦しみは 人を執着させ、 悲しみは 人を過敏にさせる。

 周囲のあらゆる不実に ずたずたに切り裂かれ、

 僕は全てを見失って 喘いでいた。

 苦しみと悲しみを蕩尽し、 破滅の淵に窒息しながら、

 僕は必死になって 救いを、 癒しを、 求めていた。

 僕は あまりに苦しかったのだ。

 居るのが 苦しい。

 早く、 一日が 終わってほしい………。

阿鼻叫喚のなかで、 僕は ロマン=ロランの 『ジャン=クリストフ』 と、

 ひとりの友の 存在に出会った。

 彼らの存在がなければ、 今、 僕は 精神病院か刑務所にいたとしても、

 あるいは こうしてここに 生きていなかったとしても、 少しも不思議ではない。

 彼らの支えによって、 僕は長い苦しみを 苦しむなかから、

 『 もし僕が ここで死んでも、 自分と同じ魂を 持った人達が、

 僕のできなかったことを やっていってくれる。

 僕は魂によって 彼らと繋がっている。

 自分は 一人ではないのだ。』 ということを、

 全身全霊をもって 体得していくことができた。

 それは まさに 『宗教体験』 と 言えるものだった。

 あらゆる魂は ひとつに繋がっている。

 全ての命は ひとつのものである。

 それは 僕の 『信仰』 とも 言えるものになっている。

( その 絶対的な存在に対し、

 長い間僕は 名前を付けることができないでいたが、

 自分のうちに  『あるもの』 という 言葉が生じてきた。 )

(次の記事に続く)
 
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「おくりびと」 (二度観)

2009年03月11日 23時42分43秒 | 映画
 
 今日、 新宿ピカデリーで 「おくりびと 」 を観てきました。

( メンバーズカードのポイントで。  (^^;) )

 僕は若いとき以降、 同じ映画を 劇場で2度観るのは 本当に久方ぶりです。

 平日の昼でしたが、 ほぼ満席でした。

 今回は 脚本の完璧さに唸りました。

 正にオスカーに値する シナリオです。

 様々な死のエピソードが、 テーマに合わせて 見事に構成されています。

 まず最初は、 目を背けたくなるような死で、

 この仕事の大変さを 見せつけられます。

 次に、 死を美しい旅立ちに変える 納棺師の貴重な技を 見せてくれます。

 一方、 妻たちの偏見や誤解, 死によるいざこざで、 主人公は先行き不安。

 その間に、 ユーモラスな死などを挿入し、

 死が自然なものとして 観る者の心に染み渡ります。

 突然の 共通の知り合いの 死によって、

 納棺師の 厳かさや優しさが伝わり、 誤解は解けていきます。

 そして、 父の死で 感動を誘うラストへ 向かうわけです。

 石文 (いしぶみ) などの小道具も 実に巧みに効いています。

 エピソードの 大波小波のリズムも秀逸。

 また、 いつも銭湯で 顔を合わせるおじさんの、

 職業が分かる瞬間も 絶妙です。

 1回目に観たときより 大分泣けました。

( 僕は以前は ドラマ性で感動していましたが、

 近頃はシーン (映像) を観ただけで 涙が出てくることがあります。

 音楽を聴いたり ダンス (舞踏) を観たときの 感動と共通します。 )

 人の死を送る映画が、 日本が世界に誇れる 作品の誕生となりました。
 
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記事削除

2009年03月09日 19時48分04秒 | 「BPD家族会」
 
 昨日の 「BPD家族の会」 の記事ですが、

 代表者の方に 問い合わせたところ、

 ゲストの臨床心理士の方の 許可が取れていないということで、

 記載を取りやめることに なってしまいました。

 良い内容だっただけに、 削除しなければならないのは とても残念です。

( 昨夜 随分時間をかけて、 連載用に4日分の 記事を書いたのですが。 )

 これからもまたよろしくお願いします。 m(_ _)m 
 
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言葉の宝石たち

2009年03月06日 20時20分06秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 当時の僕は 色々な書物などに 救いを求め、

 いくつもの珠玉の言葉に 出会いました。

 それらを紹介します。


パスカル 「パンセ」

「 人間とは、 一体 何という怪物であるか。

 何という珍奇, 妖怪, 混沌、 何という矛盾の主、 何という驚異か。

 万物の審判者にして 愚鈍なるみみず。

 真理の受託者にして 曖昧と誤謬の泥溝。

 宇宙の栄光にして 廃物。

 誰がこのもつれを 解くだろうか。 」

「僕等は 何も確実には知りえないが、 又、 全く無知でもありえない。

 僕等は 渺茫(びょうぼう)たる 中間に漂っている。 」

「 彼が 己を高くしたら、 僕は 彼を卑下しよう。

 自ら卑下したら、 高めてやる。

 彼が 己を不可解な怪物と認めるまで、 いつでも彼に抗弁してやる。 」


林 語堂 「人生をいかに生きるか」

「私は、 どんな人間でも、 賢者の知恵から 愚者の知恵へと進み、

 まず 人生の悲劇を感じ、 ついで 人生の喜劇を感じ、

 笑う哲学者となるまでは、 これを賢明とは呼ばない。

 なぜかといえば、 我々は 笑える前に 泣かねばならないからである。 」


小林秀雄

「 文学者の告白病-- 告白文学が成功する場合は 非常に少ない。

 自己反省というのも 自惚れ鏡のようなもので、

 むしろ 自己韜晦(とうかい)の術だ。 」


ウィルヘルム・ シュテーケル (精神分析学者)

「 一般に、 未成熟な人間の特徴は、

 理想のために 高貴な死を、 選ぼうとする点にある。

 これに対し、 成熟した人間の特徴は、

 理想のために 卑小な生を、 選ぼうとする点にある。 」


二宮尊徳

「 大きな夢を 真実ならしめんがための 第一の能力は、

 夢を持つ 大きな能力。

 第二に、 それを持ち続ける能力。 」

「高くて 固くて 狭い心ではなく、

 低くて 柔らかくて 広い心。

 これだ。 」

(続く)
 
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苦しみと創作

2009年03月05日 21時29分14秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

「 (苦しみを通して) 人の痛み, 弱さが分かるようになった。

 これは極めて月並みだが 本当のことだ。

 人の話が 聞けるようになった。

 作品は 低い視線で描かなければ 伝わらない

 所詮 人の苦しみは分からない。

 自分が 人を苦しめているとしても。

 生きているかぎり (肉体があるかぎり)  人間は限りがある。

 囚われがある。

 人は 苦しまないと考えない。

 因果なことだ。

 不幸なときにこそ 偉大な芸術ができる。

 平和な時代には 天才が出てこない。

 しかし、 それでも 人間は平和なほうがいい。

 苦しみと、 人を幸福にする創作との 矛盾。

 何故 人間は苦しまないと 成長しないのか?

 何故 物質的世界と 精神的世界があるのか? 

 この世の 役割とは何か? 

 人間には何故精 神世界のことが分からないのか? 

 何故 死を恐れるのか? 」


「 かつて 僕が一人 世界から隔絶されて、

 絶望と孤独に 苛まれていたときのことが 思い出されてなりません。

 何週間も 人と会うこともなく、 声を出すこともなく、

 そんな生活が 何ヵ月も続くなかで、 自分だけが 取り残された焦燥感に、

 文字通り 『居ても立ってもいられない』  苦しみに喘いでいました。

 そのとき僕が 必死にすがりつこうとして もがいていた

 『ジャン=クリストフ』 の一節。

『 人生は 苦悶と残忍との 無限な総和の上に立ってることを、

 彼はだれよりも よく知っていた。

 人は 他を苦しめずには 生きてゆけない。

 眼をつぶったり 言葉でごまかしたりすべきではない。

 人間の不断の努力は、

 苦しみと残虐との総和を 減ぜんとすることにあらねばならぬ。

 それが 人間の第一の務めである。』 」
 
(次の記事に続く)
 
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精神的臨死体験

2009年03月04日 21時45分56秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 何を体験したかではなく、 いかに体験したかが 重要であると言われます。

 当時は 臨死体験が話題になっていましたが、

 僕が体験した極限状況は 精神的臨死体験と言っても いいものでした。

 それらを通して僕は、 何か ある絶対的な存在、

 「あるもの」 (と命名したもの) を 体感したのです。

「 僕は 特定の宗教は持たない。

 それが 『あるもの』 に対する 僕の敬虔さである。

 人間とは、 『あるもの』 のうちに 本来的に抱かれ、

 癒されるべき 存在なのではないだろうか。

 『死』 は、 『あるもの』 と一体化する

 『成就』 であると 言えるのかもしれない。

 個々の命は この世での役割を終えたとき、

 『あるもの』 の許へ帰っていく、 と僕は思っている。

 死は 終焉なのではなく、 人間が本来 抱かれるべき場への 回帰であり、

 そして 再生への希望であるのかもしれない。

 臨死体験をした人達は その大半が、 死に対する恐怖がなくなり、

 死後の生命を確信し、 限りなく自分が受容され、

 絶対的な存在との一体感、 筆舌に尽くしがたい 安らぎを得るという。

 それは、 『あるもの』 による 究極の 『癒し』 なのだろうと 僕は思う。

 僕には 肉体的な臨死体験はないが、

 精神的死に瀕していた 体験を通して 絶対的なものと邂逅した。

 これも 臨死体験に通ずる証左であると 思っている。

 また 臨死体験者は、 無条件の愛、 人類同胞意識、

 思いやりや寛容というものの 価値を見いだし、

 その後の人生観が 一変するという。

 自分の存在が 全面的に抱かれていると 感じられたとき、

 自らもまた 他のために奉ずることが できるのかもしれない。

 全ての人間は、 『あるもの』 の許で 受け入れ合い、

 支え合っている存在である。

 自ら生きるとともに、 互いに生かされ合っている。 」

(次の記事に続く)
 
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真の甦生

2009年03月03日 19時55分32秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

(11/13)

「 悪い時は 全てが悪い。

 やっとうまく いきそうになっても、 僅かな偶然で だめになる。

 よい時は 全てがよい。

 うまくいきかけたことが やっぱりだめになりそうになっても、

 偶然が重なって うまくいく。

 去年も、 今年も、 事態が好転しかけたとき、

 これでうまくいく、 これで立ち直れると思った。

 いや、 必死で思おうとした。

 今思えば、 それは 懸命なやせ我慢だった。

 上向いてきたと 自分に言い聞かせ、 一生懸命 自分をだましていたのだ。

 我ながら何という けな気さだったのだろう。

 今は、 今は 本当に立ち直った。

 この嬉しさは本物だ。

 ああ、 生きていて本当によかった。

 これが人生というものか。

 魂が正しければ、 心が誠実ならば、 それは いつか必ず実を結ぶ。

 人にも通じる……。

 自分で 思い込んだものではない。

 他人を説得させずには 耐えられないものではない。

 ただ 自ら嬉しいのだ。

 誰にも納得させなくとも、 ただ自ら嬉しいのだ。

 自分を確信するのだ。

 人に理解されないということが、

 分かってもらいたい人に 拒絶されるということが、

 一体どれだけの力を 僕から奪っていたのだろう。

 どれだけ僕を 卑しくしていたことだろう。

 人に受け入れられるということが、 人に伝えられるということが、

 今 どれだけ大きな力を 僕に与えてくれることか。

 どれだけ活気づけていることか。

 僕はいずれまた 失敗するだろう。

 また どん底に落ち込むだろう。

 はっ!!  そしたらまた 立ち直るさ!! 」

( '85.3/7)

「 人間は、 不幸である時、 苦しい時に、

 いかに多くのものを 身につけていくことか。

 どん底にある最中には、 全てがうまくいかない。

 全てが分からない。

 しかし そうしてあがきながら、 誰も気付かないうちに、

 人はいかに 豊かになっていくことか。

 正常ならば 気付かないようなことを、 感じないようなことを、

 苦しい時には 敏感につかみ取る。

 苦しみから這い上がった時、 それは誰にも分からない形で 必ず実を結ぶ。

 人は、 苦しいときほど 豊かである。 」

(次の記事に続く)
 
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限界

2009年03月02日 20時52分24秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 やがて マンガ同人誌の活動が 再開されました。

 僕は 以前と変化していましたが、 実際にどういう言葉を 伝えたらいいのか、

 メンバーとの 新たな接し方を 試行錯誤しました。

 様々な対応を、 具体的に考えれば考えるほど 分からなくなり、

 ついに 頭がオーバーヒートしてしまったのです。

(6/26)

「 考えれば考えるほど、 僕の頭は悪くなる。

 感じれば感じるほど、 僕の心は鈍くなる

 思えば思うほど、 僕の意志は弱くなる。

 信じれば信じるほど、 僕は小さくなる。

 疑えば疑うほど、 僕は誤る。

 知れば知るほど、 僕は知らなくなる。

 会えば会うほど、 僕は孤独になる。

 求めれば求めるほど、 僕は裏切られる。

 誠実になればなるほど、 僕は人を傷つける。

 愛すれば愛するほど、 僕は悲しくなる。

 生きれば生きるほど、 僕は苦しくなる。

 ……僕はまだ、 生き方が足りないのだ………。 」

「全ての理解は、 誤解からきたものだ。

 全ての信念は、 無知からきたものだ。

 全ての真実は、 幻影からきたものだ。

 全ての世界は、 偶然からきたものだ。

 ……それでも僕は、 求めている………。

   それでも僕は、 信じている………。 」

「ああ、 何という不安定。

 あと、 ちょっとでいいのだ。

 あと ちょっとさえあれば。

 絶大な自信と、 絶望的な否定は 紙一重。」

(次の記事に続く)
 
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復活

2009年03月01日 22時32分07秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

(2/8)

「 そうだ、 そうしよう。

 僕は 苦しんで生きるが正しい。

 だが 君達はそうではない。

 君達は、 僕の苦しみなど 知る必要はない。

 僕はそれを秘めよう。

 理解などされる必要はない。

 そして、 僕は君達を愛そう。

 君達を喜ばせよう。

 君達も、 僕を、 僕の作品を、 愛してくれ。

 僕は創作に 我が身を捧げる。

 さあ、 苦しみよ、 来るがいい。

 悲しみよ、 僕の身を貫け。

 僕は、 受けて立ってやろう。

 おまえたちが 来れば来るほど、 僕は強くなっていくのだ。

 集まれ、 分かち合える人々よ! 

 我々は 一人ではないのだ。

 理解者たちよ、 無理解者たちよ、

 何度もまとめて 僕の所へ来るがいい。 」

(2/13)

「 ああ、 人間て こんなに変わるもんだろうか。

 人間の心って、 何て不思議なんだろう。

 かつて、 僕は道を歩いた。

 街が 褐色になって 僕にのしかかってきた。

 周りを歩く人間は 全て自分の敵だった。

 呼吸が苦しかった。

 歩くのが苦しかった。

 今 僕は道を歩く。

 街が 柔らかい銀白色に 暖かく輝いている。

 周りの人間を皆 優しく見られる。

 歩くのが嬉しい。

 こんなに 感じられるようになったのが 嬉しいのだ。 」

(2/14)

「 僕は、 こんなに 失敗することができて、 よかった。 」

(2/16)

「 僕は、 彼女や彼らが 僕から得たより数倍も、

 いや、 数十倍も 多くを得た。

 彼女らよりはるかに 豊饒となった。

 彼女らのなかに 僕はいない。

 しかし、 僕のなかに 彼女らはいる。

 ありがとう。 」


「ジャン=クリストフ」 読了

「 生涯の終わりに及んで、 かつて 孤独なことがなかったと、

 もっとも一人ぽっちのときにも 孤独ではなかったと、

 みずから考えるのは なんといいことだろう!…… 」

(次の記事に続く)
 
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