(前の記事からの続き)
「 人間とは、 『あるもの』 のうちに 本来的に抱かれ、
癒されるべき 存在なのではないだろうか。
だが、 この世で それが得られることは 稀である。
本当に人が苦しむことを 許せる人間は 極めて少ない。
人は 他人の不幸と在ることを 嫌悪する。
不幸の重さは 隣りの人をも押しつぶす。
不幸は 人に伝染するかのようである。
人の心に 携わっている人間でさえ、
身も世もない苦悩を 自ら味わったことのない者は、
苦しみもがく人間の どうしようもない痛切を、
ついには 受け入れられないことがある。
最も癒しを求め、 分かち合いを信じた 正にそのとき、
否定される傷の深みは 無惨なまでに痛ましい。
しかし 人間には、 それでもなお 人を信じ、 受け入れていこうとする、
ほとんど祈りにも近い 『希求』が、 いつしか再び 湧き起こってくる。
多くの人に受け入れられないことを 悲しむより、
ある魂を持った人々と 通じ合えることこそが、
幸甚であると 言うべきなのだろう。
その人々の魂だけで 万人に値する。
それによってこそ 人は支えられ、 癒される。
それはまた、 人を想い、 共にあろうとするときの 力となる。
それが 『あるもの』 へと 繋がる証である。
そしてまた、 『死』 は、 『あるもの』 と一体化する
『成就』 であると 言えるのかもしれない。
個々の命は この世での役割を 終えたとき、
『あるもの』 の許へ 帰っていく、 と僕は思っている。
死は 終焉なのではなく、 人間が本来 抱かれるべき場への 回帰であり、
そして 再生への希望であるのかもしれない。 」
(次の記事に続く)