「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

精神的臨死体験

2009年03月04日 21時45分56秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 何を体験したかではなく、 いかに体験したかが 重要であると言われます。

 当時は 臨死体験が話題になっていましたが、

 僕が体験した極限状況は 精神的臨死体験と言っても いいものでした。

 それらを通して僕は、 何か ある絶対的な存在、

 「あるもの」 (と命名したもの) を 体感したのです。

「 僕は 特定の宗教は持たない。

 それが 『あるもの』 に対する 僕の敬虔さである。

 人間とは、 『あるもの』 のうちに 本来的に抱かれ、

 癒されるべき 存在なのではないだろうか。

 『死』 は、 『あるもの』 と一体化する

 『成就』 であると 言えるのかもしれない。

 個々の命は この世での役割を終えたとき、

 『あるもの』 の許へ帰っていく、 と僕は思っている。

 死は 終焉なのではなく、 人間が本来 抱かれるべき場への 回帰であり、

 そして 再生への希望であるのかもしれない。

 臨死体験をした人達は その大半が、 死に対する恐怖がなくなり、

 死後の生命を確信し、 限りなく自分が受容され、

 絶対的な存在との一体感、 筆舌に尽くしがたい 安らぎを得るという。

 それは、 『あるもの』 による 究極の 『癒し』 なのだろうと 僕は思う。

 僕には 肉体的な臨死体験はないが、

 精神的死に瀕していた 体験を通して 絶対的なものと邂逅した。

 これも 臨死体験に通ずる証左であると 思っている。

 また 臨死体験者は、 無条件の愛、 人類同胞意識、

 思いやりや寛容というものの 価値を見いだし、

 その後の人生観が 一変するという。

 自分の存在が 全面的に抱かれていると 感じられたとき、

 自らもまた 他のために奉ずることが できるのかもしれない。

 全ての人間は、 『あるもの』 の許で 受け入れ合い、

 支え合っている存在である。

 自ら生きるとともに、 互いに生かされ合っている。 」

(次の記事に続く)
 
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