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島根県松江の李白酒造の「李白 純米吟醸 超特選」です。
李白、といえば中国の詩人
ですが、この酒蔵の名前は李白酒造のHPによれば同じ松江出身の若槻礼次郎が命名したそうです。
松江が生んだ政界の巨星、故若槻礼次郎氏は、また“詩を愛し酒を愛し”とりわけ松江のお酒、李白を愛されました。昭和五年、晴れのロンドン軍縮会議にも、李白の菰樽をたずさえて朝夕愛飲されました。清酒李白の名は、克堂こくどう若槻礼次郎氏がみずから酒仙李白に因んで命名された由緒ある酒名です。
なるほどラベルには
李白一斗詩百篇
長安市上酒家眠
という漢詩の一部が印刷されています。
肝心の味は、非常に木目細やかでなおかつあっさり過ぎず濃すぎず、淡麗と濃醇の間の微妙なバランスを保った非常に美味しいお酒です。
一時期の「淡麗辛口」ブームでは、あっさりりしているほどえらい、という時代があったのですが、最近は焼酎やワインブームに押された結果、逆に玄人(というか単なるのんべ)好みの香りや味わいのある酒が評価されていて、うれしい限りです。
実はこれ、デパートで駐車場の無料券目当てに酒蔵の人がキャンペーンをやっていたところを見て試飲もせずに買ったのですが、クリーンヒットでした。
売り子さん曰く、酒蔵の規模があまり大きくないので、限られた店にしか置いていない由。確かに飲み屋でも見たことがなかったので、掘り出し物感が強い買い物でした。
ところで上のラベルの漢詩は李白の作でなく、同じく中国唐代の詩人杜甫が李白を評した詩(八仙に因んで当代の名だたる酒客八人を選んで作った『飲中八仙歌』の一部)です。
そこで思い出して本棚にある『李白と杜甫』(このブログを始める前に読んだのでエントリはありません。)をパラパラとめくってみました。
僻地に生まれ、立身を目指しついには玄宗皇帝に召抱えられながらも自由な創作を求めた李白と、下級官吏の家に生まれ出世を目指しながらも最後まで縁遠かった杜甫という同時代(李白の方が11才ほど年長だが一時期交流があった)の代表的な詩人の人生と詩作を対比させながら描いている著作です(著者は別のエッセイでひとことで「ネアカの李白とネクラの杜甫」と言っていますが。)。
そして、杜甫の「李白一斗詩百篇」についてこう言っています。
李白の詩の九割がたは酒と女だ、と誰かが悪口を言ったように、確かに李白には酒の詩が多い。しかし・・・この詩を作ったのは李白の精神にたくわえられたエネルギーであり、酒はそのきっかけを作ったにすぎない。たとえて言えば李白の精神はダムの貯水池にたくわえられた厖大な量の水であり、酒がその水門の戸を引いたのである。
(中略)
杜甫が<飲中八仙歌>で「李白一斗詩百篇」と言ったのはそこのところである。李白は酒一斗飲んで詩百篇作る。一斗はおろか十斗飲ませても一篇の詩もできぬやつもいる。水門をいっぱいに開いてもちょろりの水も流れぬからっぽのダムであり、つまり只の酒食らいである。李白のばあいは、ひとたび一斗の酒を与えて水門を引けば、言語は壮大なエネルギーを荷って奔騰し、詩百篇すなわちここに成る。文学にとって甚だ飲ませがいのある酒なのである。さすがに杜甫は李白の創作のからくりをよくのみこんでいた。
酒は「場」や「機会」を提供する、それをどう生かすかは個人の器次第ということですね。
この「李白」は凡人を安楽にさせるに足る十二分な魅力を持っています。
その魅力に安住するという楽しみ方でいいのか、それとも己がこの酒をきっかけに解き放つべき何かを持っているかが問題ということです。
酒飲みとしては耳に痛い問いかけであります。
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