一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「新総理に期待」の悪弊

2010-06-07 | まつりごと
菅内閣誕生ということで、早速こんな記事が。

菅新首相「期待」59%、民主は回復 朝日新聞世論調査
(2010年6月5日22時57分 朝日新聞)

ここ数年私たちは小泉改革に期待して失望し、後継の自民党政権に期待して失望し、民主党への政権交代・鳩山内閣に期待し失望し、そして今、菅内閣に期待しようとしている。


でも現状の日本が立ち直るにはトップ一人でどうにかなることなのだろうか。
うまくいかないからダメ、というのでは、(今や諸悪の根源になっている)企業の成果主義と同じではないか。
企業のトップならそれでもいいかもしれない。トップが短期的な収益優先で会社をガタガタにしたとしても、株主としては最終手段として株を売るという対処もできるから。
ただ総理大臣に対する国民は企業にたとえれば「従業員兼株主」なので、収益を上げる(財政を豊かにする)ことと給料を上げる(国民への配分を増やすまたは負担を減らす)という相反する要求を持つ。
しかも大半の人は国外に逃げようがないので「いいとこどり」はできない。

高度経済成長のときはパイが増え続けていたので、自民党政権に文句(選挙で「社会党躍進」とか)を言えば不公正な富の配分の是正や民意を反映した再配分がなされてきた。
そういうときは極端な話、派閥の論理だろうが何だろうが「政争」をもっともらしく楽しみながら気分で投票していてもよかった。(そして、マスコミも「永田町インサイド」を追っていればよかった)

バブル崩壊以降、分配するパイがなくなってきても、国民は当然のように時の政権に要求しかしてこなかった。
金融危機を解決しろ、雇用を守れetc.
そして政権も、相変わらず玉虫色の未来(最近ではマニフェストと言う)をうたい、国民にトレードオフを迫ることはなかった。
例外的に小泉内閣は「改革」を標榜し、郵政選挙で圧倒的な支持を得たが、結局国民は小泉改革を支持していたわけではないようだ(「小泉改革」は一部の権益とのトレードオフを迫ったという点で巧みだったのかも知れない)。


早「失われた20年」になろうとしている今、経済・財政問題は到底首相一人の「リーダーシップ」で解決できる状況にはない。
ここでリーダーシップを発揮するということは、限られたパイを誰に与えるかを明確にすることで、それは現在と将来(年配者と若者)、都市部と地方、産業間に優先順位を付けるという選択をすることになる。


問題は、首相のリーダーシップなのではなくて、われわれが優先順位付け・トレードオフを求められる覚悟があるかどうかなのではないだろうか。
その覚悟を決めれば、マニフェストを見る目、結果を評価する目も自然と磨かれるはずだ。
(そして報道の質も上がるはず。)


団塊の世代が「株主」でしかない年金受給者になり、また「従業員」である就職氷河期以降定職を得られていない団塊ジュニアが40代になる前の(そして、数は少ないが年金収支がチャラの僕の同世代が「逃げ切りモード」に舵を切る前の)ここ数年が最後のチャンスだと思うのだが。


そんな中で僕が菅新総理に期待するのは、施政方針演説で「『あれもこれも』は無理です」とまず国民に宣言することである。


コメント
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