枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

ねむの木が咲く頃

2009年06月18日 | Weblog
 私が生まれたのは、合歓の花の満開と枇杷の実が揺れる頃。女系家族であったから、祖母はがっかりしたそう。母のお腹を蹴飛ばしていたから、てっきり男の子だと思われていたらしい。年子で兄が居て、家族の関心はそっちであった。

 母の一番下の妹、伯母が子守をしてくれた。夏に生まれた児は、汗疹になる。母は田畑があるので、乳さえ落ち着いて飲ませてもらえず、そこら辺に転がされていた。腹は空くし暑いわで泣き叫んでいたらしい。

 伯母が五月蝿いので、考えたのがハンモックだった。柱の鴨居と鴨居に晒を渡し大風呂敷を結びつけ、その中に私を入れて背中の風通しをよくした。泣き止んですやすや寝たのだそう。

 伯母は当時女学校に行っていた。というから、赤子の守には辟易したのかもしれない。夕方帰宅した祖母は、祖父の使っていたハンモックを出してくれ、翌日から私はそこに入れられたらしい。物心つくようになって、一人で乗ろうとして見事に落ちた。

 次に上げてもらったはいいが、降りれなくて困った。踏み台があったが子どもには低すぎるし、用は足さなかった。勢いよくおでこをぶつけて、たんこぶを作ったくらいだ。

 合歓の花はやさしい色合いで、目立たないように咲いている。木陰が出来て涼しい風が通っていく。私は木と見れば、必ず登ってみたくなるお転婆。藁草履ももどかしく、裸足で駆け回っていた。祖母は早朝から草刈に出かけ、午前6時頃には一仕事を終えていた。草刈は牛や山羊の餌だった。

 祖母が草刈をすると、嘗めたようにきれいだった。鎌をどうすれば、あんなに見事に刈れるのか今以ってふしぎであるよ。草の刈り方も、鎌を先に出し手は必ず後に出す。また左足の膝の下に刈った草を敷きこんで、一まとめにしては負い籠に入れていたよ。

 この時期は真夏よりもむせ返る。全身汗びっしょりであった。目の中に汗が入って、手拭だけでは拭ききれない。野良着はあちこちに継ぎが当たり、地下足袋はじっとりしていた。百姓の辛さには、何の楽しみがあったのだろう。孫の成長や、家・田畑、祖先の墓など、自分の徳になることではなかったのに。

 けれども今は、祖母の守りたかった大切な物が漠然とわかるよ。自分自身の為だけではなく、この世に生存する全てが地球に住めるよう、人間としてしなくてはならなかったことなんだ。自然は神そのものなんだね。

 藪に植えてある枇杷の木に、黄色く熟れた実が見える。これを何としても食べたくて、祖母に駄々を捏ねた。祖母は柿を取る棹を持ってくると、枇杷の枝に絡ませて捥いでくれた。しかしである。顔が歪むほど酸っぱい枇杷の実であったよ。

 美味しくて甘いのは既に、鴉に食べられていた。雀も然り。散々であった。種を吐き出さずに、そのまま口に入れていると、祖母が顔色を変えた。無理やり口の中に指を突っ込んで、描き出した。

 枇杷の種は、絶対に食べては為らぬ!と祖母は気迫で言う。理由は教えてくれなかったが、枇杷の実を、二度と採ってはくれなかった。無論のこと一人で採れはしない。アミグダリン等知ってはいないから、口伝えであったのだろう。

 昨年の熟れていく枇杷の実。6月初旬だった。新聞紙を切って糊付けをして作るのを、孫が手伝ってくれました。あちこちにあげました。美味しいと評判がよかった。さてさて今年はいかが相成りますか?
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