枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

感性の持ち方

2009年06月24日 | Weblog
 雨が降れば天気がいいと言い、天気が続けば雨が降ればと文句を言う。人間とは、なんと勝手な生き物なんだろう。夏には暑く冬には寒い。その四季に応じて草花や木々が育ち、命を受け継いでいっているのだ。

 なんの不足をいうのだろう?快適で便利で、人間だけに都合のいい生活には面白みがないとは考えないのか?人間中心の地球になってしまえば破滅は近い。

 先日も大型の鼠を訓練して地雷発見させ、爆破装置の元を遮断させる。という試みのニュースが載っていたけど、胸が痛んで遣り切れない。これをロボットでさせてほしいよ。

 鼠だって生きているよ。鼠に生まれていたらば逃走しちゃう。訓練を受けられるくらいの、高度な頭脳を持っているとすれば、鼠自身で行動することだってできちゃうって思うのね。

 ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』。鼠が1匹生きようが死のうが科学者にとってはどうでもいいことで些細な気にも留めない出来事。主人公は言うアルジャーノンには僕が花束をあげられるけど、僕が死んだら誰が持って来てくれるのだろう。DVD『真心を君に』。チャーリーを演じるクリフ・ロバートソンの演技が見事だったよ。

 辻井伸之さんへのインタビューに。「目が見えたら・・・」という愚問を発した質問者がいたが莫迦か!と思ったよ。こういう人には、彼の演奏は聴けない。目が見えないことで、常人がする努力よりも練習時間や工夫はされたと思う。

 けれども目が見えないから、優勝されたのではないでしょう。ピアノと一体化し、生かされている喜びや、想いを音階で表現できた感性が、人々の心を打ったのではないのですか?

 ベートーベンは、耳が聴こえなくなっても、幼い日に感じていた自然の魂を奏でていたのでしょう?宮城道夫にしても和波和孝さんも、目は見えなかったけれど心は何等変わりはなかった。寧ろ私たちの方が、心を曇らせて見えなくし感じられなくしているのではないかしら?と静かな怒りが沸きました。

 以前、和波さんの演奏をお聴きしたくて、娘と出かけた時のことです。チケットには開場時間と、開演時間とが明記されていて聴衆はほとんどが健常者でした。車椅子はせいぜい2組です。時間がきて演奏が始まりました。

 あっと思ったのは次の瞬間です。扉が開いて堂々と、入場してくるマナー違反者が居たのです。それも最善列の真ん中にです。彼が、見えないから入って来たのでしょうか?なんという失礼な行為でしょう。

 和波さんは演奏を乱されることなく弾き終え、そのことには一切触れませんでした。でも目が見えない彼には、はっきりと空気の流れが変化したことに気がついていたと思います。彼の心の優しさを胸が痛くなるほど感じました。彼の奥様は健常者です。ピアノを傍で弾かれています。いつもご一緒です。

 演奏会に遅刻しても、演奏中は入場しない、させないのが基本です。せめて1曲終わってから、そっと入られて来られればどんなによかったことでしょう。目が見えなくとも空気はわかります。扉を開く緊張感や、演奏者に対する礼儀として一礼するなど心の目は感じ取れていますよ。

 辻井伸之さんは、きっとそういうマスコミの企みがわかってらしたようですね。普通でなくても同じでなくても、みんな違っていていいのです。彼の今後の活躍を祈ります。敢えて言えば、私はヴァイオリンの方が好きです。

 マリス・ヤンソンスの指揮で、五嶋緑のヴァイオリンがあるんだけど、誰か一緒に行かないかなぁ・・・。

 どくだみの中で、かくれんぼしているような枇杷苗。ここに3本あるよ。でも見つけられない。まるでジクソーパズル。ちょっと油断すると隠れてしまう。
 自生の枇杷の種なので、育ち具合がイマイチみたい。農薬をしないから、新芽を狙って青虫がうようよ。奴らも生きているんだね。
コメント (3)
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