枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

晩秋の景色

2020年11月04日 | Weblog
 秋もそろそろ冬への移行で気温は20℃。外で未だ咲いているランタナを、今の内にと引っ越した。オリズルランも入れておこうとパソコンの部屋に持ち込むのを、すばるが油断なく見ている。駄目だよぉ、これに手を出しちゃいけません。なんで?ここに居れたら餌だろう、と隙を狙って覗き込むのが怪しい。ぜぇ~たいに駄目です!!いいよ留守にやるから。

 寒さの厳しい時期には内に入れれば、部屋も狭くなって居場所に困るが、さて枯らすのもどうかな?と仕舞う。人間の勝手で植えられたり、土に合わなくて枯れたりする。新井素子のグリーンレクイエムを思いだす。ショパンのレクイエムもCDを買って聴いた。ピアノよりもヴァイオリンの方が好みだが、演奏者にも因るなぁ。チャイコフスキーも映画で観て。

 孔丘。数日かかって読んだが難しい。論語自体が理解し難いものであるから、高校の授業でも眠気を誘った。小学校での野外授業と中学校での遠足では、靴下の替えを持って行っての正座である。講釈を聴くどころの気分でない。足の痺れに立てなくて、殆どが前倒れ騒然である。何をすき好んで小難しい話を、然もその年齢で理解させようと言うのが間違い。

 隣市なので割と近いこともあり、学校にすれば手近な場所でもあるのだが、孔子がそうであったからと今時の青年が同じとは限るまい。この歳になってやっとこさ、解りかけてきているのだから、無駄ではないが無理だった。だが宮城谷昌光の解釈には納得でき、そうであったのかと読み終えた。天空の舟 晏子 太公望 夏姫春秋 楽毅 新三河物語等文庫で。

 今朝は青空が一斉に広がっており、布団を出して干す。暖房を未だ我慢しているので、ふかふかになるのがうれしいし気持ちが好い。然し、腕が上がらなくなったりの症状も出て、ちょっとしたことでよろめいたりもするので、何をしているかを記憶させてから行う。咄嗟に動くと難儀な事が待ち受け、治るのも日数を要する。あちこち騙しての基本的動作である。

 弁当を作って届け、Aさんちで水を分けて貰い、図書館と銀行とに寄って帰宅する。Aさんちの水は、枇杷葉茶を沸かすのと珈琲を淹れるのに使うが、断然味が違うのである。安物の珈琲でさえ来客は美味しいとよろこぶ。猫舌なので何時も冷まして飲むが、途中で帰るとは言わないのがうれしい。自分でもカルキ臭さを飲もうとは思えず、有難く貰いに行っている。

 今年は、雨に祟られてはいたが松茸の出来は良いだろう。雷も結構鳴っていたのも繁殖するそうだ。枇杷葉もそうだが、木の生り物には裏作があるので、交互で生っているらしい。自然の成り行きだろう。毎年だと樹も疲れてしまうのだから、生らない年があってもと思う。個人的には身体を冷やす物は遠慮して、余程の事がない限り口にしない。頑固なのです。

 黒揚羽の幼虫。柑橘類に卵を産むとは気づかず、ちょろちょろし始めてびっくりした。日高敏隆・蝶はなぜ飛ぶか参照に。

 
コメント
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