今朝は薄曇りの肌寒い朝になった。場所によれば霜の朝ではあったが、なんだか・・どんよりとした一日だった・・・。
突然だけれど・・・昨日の続き・・・。我が家のすぐ横を流れて行く水路が・・・みろく池に流れ込むのだけれど、その水路・・・を作った人が、この・・「軒原庄造」という人。幕末から明治かけて生きた人らしい・・。
我が家のすぐ前にある「かしら:堰」に作られた水門から・・・この水路に水が導入される。今は・・その補強工事が行われている・・・。おかげで・・・川はきれいにはなるが、ほたるの幼虫やら・・川ニナなどの貝がどうなるのか心配なことではある・・・。別に・・・私が心配せんでもいいことではあるけれど・・。
これが・・・我が家から20分ほどでたどり着く・・石穴の導入口。さて、ここからが問題だ。この水路の方向に向かって尾根を昇るのだが、藪こぎとかが五分ほど続く。このあたりに道はない・・。とにかく・・尾根を目指して笹畑とか雑木をかき分けて尾根にとりつく。そこから・・・しばし、尾根を西に進んで行くと・・・視野が開ける・・・。
視野が開けるというても・・・こういう・・雑木林・・。その向こうに・・・遊歩道とかログハウスが見えてくる・・、かすかにだけれど。
こういう・・・ログハウスとかキャンプ場が見えたら・・・目的地は間もなく・・・。距離的には短いのだけれど、気分的にはサバイバル・・・・。孫のはやてちゃんとかなぎちゃんも超えてきたのだから・・たいしたことはないのだが、最初にチャレンジすると・・・難しい山越えになるのかも・・。
これが・・・到着点・・・。案外と・・・穴は低くて・・・狭い・・・。途中で・・鉄分がわき出ているものか赤い水がたまっていた・・・。
文政12年(1828年)に完成した弥勒池(みろくいけ)であったが、20年間ほどは“器あれど盛る水なし”の状態が続いていた。こうしたありさまを憂慮した富田中村に住む庄屋・軒原庄蔵(のきはらしょうぞう)は、安政2年(1855年)高松藩に石穴工事を願い出たところ「石穴掘抜方御用掛」に任命され、三つ石山の岩盤を東西双方から掘り進めることになった。昼夜を問わず手ノミ一つで掘り抜く大工事であったが、着工から3年後の安政4年(1857年)に長さ191mの石穴が無事貫通し、砕石谷からの導水に成功した。この画期的な工事を完成させた功績により、後の明治2年(1869年)満濃池の底樋隧道工事を命じられることとなった。
坑口は石材と石積擁壁で保護されており、石穴はほぼ直線に貫通し、中は人がようやくかがんで歩ける程度。津田川水系の大川ダムから約500m下流の砕石谷を取水源とし、弥勒池への導水路である弥勒石穴は現在でも利用されている。
あ、注意ですけれど、この時期、私みたいに・・・この山中には入らないで下さいな・・・。土地勘とか・・山道になれていないと・・・危ないことがあるらしい・・・。ご要望があれば、私が案内しますけんね・・・。
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さて、今日のお昼は珍しい場所・・・になった。
高松自動車道の「津田の松原サービスエリア(SA)」にある上り線うどん・スナックコーナーにある「あなぶき家」。ここは・・・高速バスの乗り場でもあって、この建物裏側に駐車場があって、そこから徒歩で・・・この施設に入れる。わざわざ・・自動車道に乗らなくても食べに入れる施設だ・・・。
ここは・・温めうどんか、ざるうどんかしかない。その大・小というシンプルメニュー。その上に天ぷらを載せるかライス物を追加するか・・みたいなもの。
カウンターには・・どんぶりに一玉か、二玉入った容器があるので、それを選んで、自分でテゴで温める。その上に好きな天ぷらを載せて、ネギとか天かすとかのトッピングをして・・・会計をする。その後、かけ出しをかけておしまい・・。あとは食べて・・・容器を返却して・・・。
このお店の原型は・・・「連絡船うどん」らしい・・。連絡船うどんというても・・・多くの方が知らなくなっていると思う。その流れの「夫婦(めおと)うどん」も、もう、記憶外になってる人が多い。その話は別にして・・・、本音は・・・「あんまり・・おいしくなかった・・・」
あのころの・・おうどんは・・・なぜかおいしかったが、最近はぜいたくになったものだか、感覚がおかしくなったのか・・・感動するこころが薄くなったものだか・・・そんなにもは「おいしい!」というような味には出会わない・・・。不幸なことなんだか、幸福な事なんだか・・・。
じゃぁ、また、明日、きっと、会えるといいね。