まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

雛に寄せ 気分はすっかりと 山頭火

2011年02月28日 | ひなまつり

 全国的に今日は雨になったらしい・・・。でも・・・そんなには降らないだろうと思い込んで・・今日は屋島に向かった・・・。屋島山麓にある民家園の「四国村」に、この時期・・・ひな人形が飾られている。ま、ひな人形が見たい・・・て訳ではなくて、「待息所」という建物を見るのが主な目的だった・・・。

 

 ここにある小豆島農村歌舞伎舞台いっぱいに・・・ひな人形が飾ってある。新しい物からふるいものまでさまざま・・・。

 

 ざっと見ただけでも十八組くらいはあったように思う・・・。その外の民家にも・・・ひっそりと、こっそりと・・雛飾りがさりげなく置いてある・・・。人影のない古民家に・・・落ち着いた雛飾りが置いてある・・・。

 

 この橋を渡った先にあるのが、小豆島農村歌舞伎小屋を移転復元したのが先の舞台だ・・・。

  ここには、山下家住宅とか河野家住宅とか、砂糖締め小屋とか、こうぞ蒸し小屋とか・・四国各地から集められた文化財級の建物が移築・保管・公開されている。

 

 私がここに来るのは、この「待息所」を調べるためというのが一つの目的。「待息所」というのは、灯台守の住居兼事務所みたいなもの。イギリス人技師が設計したようで、内部はヨーロッパ調で、ピアノがあったり、暖炉があったり、西洋風の家具が置いてあったりする。

 

 こういう灯台も移築復元されている。過酷な島での生活に耐えられるように堅固な作りになっているのが興味深い。

 そして、もう、ひとつ、私が着目しているのが「囲炉裏:いろり」。昔の山奥には電気が来なかった。だから、囲炉裏は照明装置でもあり、暖房器具でもあり、煮炊きをする道具ということで、とても大切な物だった・・。石器時代から・・・人々の暮らしを支えてきたのが囲炉裏だった・・。まさに「トイレの神様」ならぬ「囲炉裏の神様」を大切にしたそうだ・・。

 

 さすがに・・私の家には囲炉裏はなかったが、火の持つ暖かさと優しさは・・今でも恋しいと思う・・。

 

 こういう囲炉裏が・・そこかしこの住宅には残されている。我が家にも・・こうした囲炉裏が欲しいのだけれど、最近の家は密閉されているので、へたをすると一酸化炭素中毒になってしまうので、山の旧宅に置いたまんまだ。

 

 それと、もう一つは四季おりおりの花々を見ることができる。今は梅や水仙や椿などが見えていた・・。そうそう、今日は・・・ウグイスの声も聞いた・・・。ホケ・ホケキュン~・・みたいな、まだまだ・・たどたどしいウグイスの鳴き声だった・・・。

 

 今日は天気が悪いせいか・・誰一人として歩いていない。こういう風景もまた、なぜか懐かしい・・・。

 待息所あたりから小雨が本降りになり、デジイチとコンデジをぬらさぬように坂道を滑るように山をくだって、車までたどり着いた・・・。上はヤッケ姿だったのだが、下はジャージだけだから・・しっかりと濡れた。

 

 しばらく・・・車の中で暖房であたたまり・・・濡れたものを少しばかり乾かしてから・・・うどん屋さんに駆け込んだ・・・。熱い釜あげうどんを食べて身体の中から温めようと思った。

 そ、ご存じ・・「本家わら家」さんだ・・。ま、四国村に来たのだから・・・おみやげみたいなもんだな・・。

 

 これが・・・「釜あげ小」で、右がつけ出汁の入った・・あつあつのとっくり・・。重いくらいに入っている。いくらなんでも、こんなにたくさんはいらないと思うが・・・。ま、冷めにくいのは冷めにくいんだろうけれど。

 おうどんの左がお出汁用の容器。その左がおろしショウガ。上の白いのがお茶用のお湯飲み。どんぶりの上にあるのがおねぎ・・。これでワンセット。お値段はこれのみで、410円。少しばかり値上げになってた・・。

 

 東京から来たという若者が感激したように・・・「これは最高ぉぉ・・」と感激をしていたが、讃岐にはもっとおいしいものがあるぞぉ・・・と、心の中でつぶやいていた。なんか、今日の麺は・・芯が残っているような感じだったけれど、お兄さん、分かったかいね・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


特別付録>四国村の灯台と待息所というもの・・。

2011年02月28日 | 歴史

 早くも二月の28日になって、単純に考えてみれば・・12ヶ月分の2ヶ月が過ぎてしまった・・・。

 さて、映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介監督)では、当時の燈台守の暮らしが描かれていた。四国村には3棟の退息所(燈台守の住宅)と燈台が移築されている。

 大久野島燈台は三原瀬戸航路の要所を照らす燈台として明治27年5月に点灯された。燈台は基礎が3.8mの円形で高さ5.1m直径3.1m。灯塔部は花崗岩の切石積になっており、その上に乗る塔器は鋳鉄(ちゅうてつ)製で高さ2.4メートルにもなる。

 

 旧江埼燈台は瀬戸内の難所といわれる明石海峡を望む、淡路島の北端にあった。英国の技師 R・H・ブラントンの設計により、明治4年(1871)に点燈した、わが国8番目の洋式燈台。退息所は石造で、壁体は奥行60cm程の切石を積み、木造トラスで桟瓦葺の屋根を支えた重厚な建物で、平成7年(1995)1月の阪神・淡路大震災により、石造の壁に大きな亀裂が入り、屋根瓦が落下するなど壊滅的な被害を蒙った。そこで、この四国村がこの建物を移築し、復原保存する措置をとった。

 

  この退息所は本格的な石造建築であり、建築当初の木造トラスを残すなど、洋式燈台の黎明期の貴重な建物である。

 

 

 鍋島灯台は坂出市の沖合い、鍋島にある。江埼燈台と同じく英国の技師R・H・ブラントンが設計した洋式燈台で、初点灯は明治5年(1872)であった。職員宿舎の退息所は翌6年2月に竣工し、昭和30年(1955)頃まで本来の宿舎として使用されたが、その後は海上保安本部の通信施設となっていた。

 

 入り口上にある乳房のようなものが、無線通信用の碍子(ガイシ)で、送信用二本、受信用二本を接続するもの・・。室内にもこれと同じものがあって、電線を接続して通信を行っていたもの。

 

 建物は石造で、正面に円柱6本を建てて吹きはなしとし、壁は奥行60cm程の切り石を積み、桟瓦葺の屋根の重厚な建物で、間取りは中廊下式で、暖炉のある部屋、畳敷きの部屋などがあるのが興味深い。また、外側に浴室や便所などが張り出しており、付属の物置も同様の石造となっている。この退息所は、本格的な石造建築で、正面に円柱列を建てるなど、洋式燈台の黎明期の貴重な建物となっていた。

 

 

 クダコ島燈台は愛媛県松山市の沖、クダコ水道にあった。明治35年(1902)7月に着工、翌年3月に竣工、初点燈した。燈台の無人化にともなって、この退息所は不要になったため、当四国村に移築復原されることになった。

 

 この建物はレンガ造で、外壁がモルタル仕上げ、屋根は桟瓦葺である。内部は左右二つに分け、二家族用にし、押入付き和風の部屋が配してあり、かまどもあり、また、付属する物置も退息所と同じ構造である。この退息所は明治後期の建築で、部屋も和風の要素が強くなっており、洋式燈台初期のものとは幾つかの点で異なり、わが国の燈台建築の変遷を知るうえで貴重な資料となっている。

 

 海の安心・安全をまもるという大きな使命を帯びた人たちが、過酷な自然の中で生き抜いた証しの建物ということで、大いに関心を持つべき施設群であるといえよう・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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