このブログは、私が元気で生きていますよ・・・という意味で毎日、情報発信をしているものですので、巨大地震や津波があっても、私が元気なうちは書き続けるものですから、その旨をご理解ください。このブログの更新が止まった時には何かあったかな・・と思って下さい。そういう意味で、最後の末尾の文章が付け加えられております。
朝方から午後にかけては暖かい春の日差しに満ちた日になった・・・。朝方は・・・集落内を散歩したり、空き缶や燃えるゴミの片付けなんぞをやっていた・・・。
でもだ・・。物音一つしなくて・・・、人影が全くない・・・。まるで・・・津波が通り過ぎた町のような不気味さ。ただ・・違うのは・・・景色がそのままであるということ・・・。この島には・・・私だけしか残っていないかのような静けさの町・・・・。
午前10時過ぎのフェリーで塩飽史談会の加藤先生がやってきた。史談会の大きな目的の「塩飽年表」の作成の最後の確認らしい・・。それはとりもなおさず、この「さぬき広島」の歴史の確認作業でもある。
で、午前中は・・この「地福寺:じふくじ」さんで歴史・縁起の確認のために和尚様からの聞き取り・・・。しかしながら・・寺社仏閣というものは、ろうそくや線香、護摩焚きなどの火から出火して火災になることが多く、また、兵火や失火などで燃えることが多く、定かな記録が残っていない。このお寺もそういうことで、昭和以前の記録はほとんど残っていないとのこと・・・・。
昼食後は・・・コミュニティセンターでの資料の確認と修正打ち合わせ・・。パワーのある加藤先生だわ・・。80歳を過ぎているのかな。
正しい記録を正しく書き残すこと。それが歴史を作っていくことになる。書き残されないできごとは決して歴史にはなり得ない。どんな形でもいいから・・・書き残しておきすれば、それはいつか・・・後生において歴史になる・・。そんな・・先生の意気込みだ。
午後からは・・・このさぬき広島の政治や神社の基礎を作ったという「山崎さん」宅を訪問して、昔のお話を聞いた・・・。
戦国時代には、阿波の三好氏の配下・十河存保軍に敗れた西ノ庄城の城主香川民部少輔景信らが海に逃れ、広島の立石や江の浦にすみついたのは、天正九年(1581)の七月十三日のことであった。島に香川姓が多いのはそのためだといわれる。
立石には寛正三(1462)年のころから旧族平尾伝右衛門と称する者がおり、香川民部少輔景信はこの平尾家に身を寄せていたが、その間に娘が生まれた。この娘が成長して讃岐原田の平尾河内守基家の次男平尾伝右衛門信定と養子縁組して立石の平尾氏を継いだ。信定は浦長となり、平穏無事に暮らせるのは神のおかげと、応神天皇をまつり、八幡神社とした。
これがその・・香川民部少輔景信らのお墓だと言われている。そこへもお参りしてきた。実に立派なお墓が・・山中の奥深い場所にひっそりと残されていた。
この・・杖をついたおばあさんが・・前当主の礼夫人。右側の婦人が・・そのお嫁さん。香川家を継いでいる人だ。真ん中の婦人は・・・あの天霧城に住んでいたという香川一族の末裔で、しかも・・この島に住んでいた人に嫁いでいる。で、この礼子夫人が叔母さんだという・・・。驚きの再会になったらしい・・。今は広島のコミニュティセンターに勤務してて、少し上の写真でマスク姿で資料を確認している人だ・・。
そんなんで、島でのお仕事は終わったので、明日のお昼過ぎには島を出て・・・屋島の娘の家に寄ってから帰ることになる・・。
じゃぁ、また、明日、きっと、会えるといいね。