まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

いまだから がんばろう にっぽん

2011年03月23日 | 自然

 春は名のみの風の寒さよ~・・・と・・歌いたくなるような朝・・・。ここんところずっと、ウインドブレーカーの上下を離せない・・・・。少しばかり暖かいかなぁと油断をしたら・・・セーターやジャージの隙間から冷たい空気が飛び込んで来る・・・。東日本の寒さはいかばかりだろうかと案ずる毎日・・・。

 

 今日・・・阪神甲子園球場で・・「選抜高校野球大会」が始まった・・。高校生の夢をこわさないためと、郷土に勇気と元気をもたらすためにと・・。その・・・選手宣誓でも、大会のスローガンにも・・・「がんばろう!日本」という言葉があった・・・。

 

 「春はセンバツから・・・」。いろんな意見があることだろうが、これらの高校生にとっては「千載一遇」の機会。この春がなければ・・・彼らの青春はなかったも同じ・・・。あこがれの甲子園の切符を手にしたものの・・・巨大地震と未曾有の津波で、その切符が泡となってしまうのか・・・。それをかなえてやりたいという関係者の思い・・・。

 

 震災の中でボランティアをやっていたという東北高校が、地域に応援されて・・・甲子園にやってきた。そして、みんなと一緒に「黙祷」をした・・・。思わずに・・・涙が流れた・・・。涙が・・・あふれた・・・。球場全体から大きな拍手が送られた・・・。

 それは・・同時に・・・郷土代表と言うことで、全国から応援の声や拍手が届く・・・。やはり・・・、春はセンバツからだ・・。

 

 プロ野球の開幕がどうだ、ナイターがどうだというてるが、そんなものはどうでもいい・・。商業野球はいつだっていいじゃないか。今だからやらなければいけないっていうものじゃないし・・・。

 さて・・・、今日のお昼は・・・と走ってみたが、あいにくと・・水曜日が定休日というお店が多くて・・。

 で・・・、香川県の東端まで走ってしまった・・・。というても、日本一狭い香川県だから・・・そう、たいした距離ではない。

 

 ここは・・・なんとも味気ない名前のうどんやさんで、そのものずばりの・・「うどんや」というお店。「名前のないうどんや」というお店も何軒かあるけれど・・・、「うどんや」という名前のお店も何軒かあるんだろうかね。記憶にはないのだけれど・・・。

 

 ここのメニューもシンプルなもので、何をたべたらいいもんだかと・・・。で、珍しそうなものを選んだら・・・、あんまりと珍しくなくなった・・・「たまごとじうどん」・・・仕方が無いね・・・。これが・・300円で、いなり寿司2個で160円。しめて・・・460円か・・・。

 

 麺もお出汁も・・・おいなりさんもおいしかった・・・。このお昼のおうどんが・・・今の私の・・「至福の時」みたいなもんだ・・・。あとは・・・ブログを書き上げたときのビールかな・・・。

 さてだ・・・。今日の夕方に・・・「びでおちゃん・・おるんなぁ~」という声が・・・。「やえちゃんからも案内があるけんど、あきちゃんもみぃちゃんにもいうとるけん・・・」

 

 集落内の「地神さん」の例祭の案内らしいが・・・まるで、子供会の案内みたいな・・・。70とか80とかのお年の人をちゃんづけだし、このわたしも・・・いまだに・・ちゃんづけだ・・。子供の頃の「目線」が・・・そのまま、成長しとるんだろうかね・・。こういうのは・・・なんとかせんといかんがな・・・とは思うけれど、どうにもならんものだろうか。

 

 神奈川にいる弟から電話があって、電車も交通機関も順調に動いているし、資料館や博物館も開いているし、乾電池も使うことなく余っているし、ガスボンベもお米も充分にあるので、何も心配しないで来てほしいという連絡があった・・・。自分の着替えだけを持ってくればいいというので、来週頭の28日からお江戸に行ってくるからね・・・。

 

 しつこいけれど、再確認の意味で・・・。

 

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


特別付録>突然の停電・・・。

2011年03月23日 | 歴史

 私が毎日お邪魔している「ポテトさん」の「ポテトのポテト日記」が印象にのこりました。

 それを・・・私風に書いてみようと思ったものです。

 私が子どもだった頃 よく停電になった。香川県の山の中の一軒家だったから、大雨や台風の日には、いきなり停電になった。当時は・・風で電線が樹木や竹に当たると、それだけでショートして停電になったし、大雨が降ると・・それだけでショートして電気が止まった。台風とか雷が鳴って、トランスという変圧器に落雷して、ヒューズが切れて電気が止まった・・・。

 

 停電になると、めいめいが仏壇からろうそくを取り出して、マッチで火を付けた。父母の頃にはランプを使っていたらしいが、ランプは廊下の片隅でほこりをかぶっていた。私がものごころついた頃から・・・各部屋には裸電球がぶら下がっていた。

 

 ストーブというものはなく、火鉢が熱源になった。炭に火をつけて、それで手を暖めた。そうそう・・小学校にはダルマストーブがあって、石炭当番というものが決められて倉庫から石炭を運んでいた。

 

 火鉢の炭の炎も灯りにはなったが、本を読むほどではなかった・・・。その炭を土を焼いた「番屋こたつ」というこたつに入れて、ふとんをかけて足を入れて暖をとった。お湯を入れたゆたんぽも愛用した。

 

 

 停電になると、そのろうそくのあかりの中で、兄弟三人が・・・息をひそめて嵐の過ぎ去るのを待った。なにか・・・いつもと違う恐怖感で過ごした記憶がある・・・。

 ろうそくの炎が揺れると・・・天井や壁に映っているこどもたちの影もゆらゆらと揺れて‥‥。それが余計にこどもたちの恐怖心をかき立てた・・・。家の裏側には深い竹藪があって、それが大風で波のように大騒ぎしてごうごうという音を立てて大騒ぎしたし、それらが巻き起こす風が障子の隙間から吹き込んできて、さらにろうそくの炎を揺らした・・・。

 停電の夕食には母の作ってくれたおにぎりを食べている・・・ぼうず頭の自分の姿が浮かんで来る。釜屋(かまや)という台所には「おくどさん」というかまどがあって、マキを燃やして煮炊きができた。かまどから漏れてくる炎のあかりで、煮炊きすることができた。プロパンガスが入ってきたのは遅かった。

 

 昭和30年代・・・都会では電化生活が進んでいたのだろうが、私のように 田舎で育ったものにとってはミキサーだの掃除機だのというものは耳にすることもなかった・・・。電気を使うものと言えば・・・ラジオかアイロンくらいなものだった・・・。

 

 停電になると・・・別棟にあった風呂場や便所に行くにも・・・ろうそくを持って行った。風呂場の高い場所にろうそくを横にしてろうをタラして、その垂れたろうの上にろうそくを立てた。だから、風呂場や便所には・・・垂らしたろうのあとがいくつもあった。

 

 風呂は五右衛門風呂で、すぐ横を流れている川の水をバケツで運んで注水して、まきを燃やしてお風呂をわかした。風呂も便所も・・・電気も水道もなかったから・・・停電になっても使うことは使えた。

 ところが・・・台風や大雨の日には・・そのろうそくが風で消えてしまう・・・。嵐の中で・・・泣きそうになりながら・・・はだかで服をかかえたままで母屋に駆け込んだりもした・・・。

 

 計画停電が行われて、不自由な時間を過ごしておられる方は、慣れない暗がりでや忘れていた段差で 転んだりしないよう‥‥ ろうそくの火でヤケドしたりしないよう‥‥注意すること・・・。

 今も田舎では一歩、家から出たら真っ暗・・・。手探りで歩かなければならないから、暗さや不便さは慣れっこだけれど・・。

 電話も携帯もあるけれど、電話をする相手もいないし、かかってくる人もいないから、ないに等しい・・。テレビもあるけれど・・・あまり・・テレビを見る習慣もないから、なかっても困らない・・・。

 

 でも・・唯一・・・このパソコンがないと不自由かなぁとは思う・・。なければないで生活はできるのだろうけれど・・・・。このあたりでは・・・パソコンなしで生きている人たちが大勢なんだけれど・・・・。

 

じゃぁ、また、夕方に・・・。


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