クラブフィールドに出入りするようになって数年。もう十年以上前の話である。
僕はパートナー(といっても女の子ではない)のJCと、昨日はあっち今日はこっちというようにパウダーを追い求め毎日のようにクラブフィールドで滑っていた。
僕たちはクラブフィールドにぞっこん(死語)、いかれてしまっていたのだが、当時はクラブフィールドの存在自体知られておらず、ましてや日本人をここで見ることが珍しかった。
日本人スキーヤーやスノーボーダーたちはたくさんいたが、ほとんどの人はマウントハットやクィーンズタウンの辺りのスキー場から外に出ない中、クラブフィールドに通う僕たちは変わり者だった。
ニュージーランドに居る日本人で、と狭い枠で囲ってしまうのもなんだが、そんな日本人の中では僕たちはクラブフィールドのパイオニア的存在と言ってもいいだろう。
当時はまだファットスキーが出始めたばかりで、山スキーはあったがそれはパウダーという快楽を追求するより、冬山の移動の手段とか冬山登山の一部のようなところが強かった。
バックカントリースキーという言葉も定着していなく、当然雪崩の知識も少ない、今では当たり前になっている雪崩ビーコンも出始めたばかりの時だ。
自分達が年を取っていく中で、次の世代が出てこない寂しさのようなものがあった。
「俺達はこうやってクラブフィールドに出入りしてるけど、後の世代が来ないなあ」
「んだどもやあ。でも、どういうやつが出てくるのか楽しみだな」
「んだんだ」
「今、クラブのメンバーになれば日本人初のスキークラブメンバーになれるぞ」
「そりゃ面白そうだな」
そんな話をしながら毎日あちこちのクラブフィールドへ通っていたのだ。
なんてことは無い、数年後には冗談で言った話が実現してしまうのだが、当時僕はまだNZと日本を行ったり来たりしていて、日本人という枠からも抜け出ていなかった。
そしてパウダーを追い求めるバックカントリースキーも今では市民権を得ているが、当時はまだ一部の人の間でしか知られておらず、日本でパトロールをやっていても時代より一歩先を歩いてしまった感じは常にあった。
年は過ぎ僕がブロークンリバーをホームと呼ぶようになった頃、トモ子が現れブロークンリバーの中で居場所を確立していった。
トモ子の話も充分面白いのだが、今回書きたいのは彼女の話ではない。
若きアウトドアマン、タイの話である。
僕がスキーのガイド会社を始めた頃、タイから電話がありクラブフィールドで仕事をしたいというような話を聞いた。
その時の僕は自分の事で精一杯で、とても人の面倒を見てあげられるような状態ではなかった。
僕は日本にいるJCの連絡先、僕もパトロールをしたことがあるシャルマンというスキー場のことをしゃべりそっけなく電話を切った。
まあていよくJCに押し付けたのだ。
その後ヤツは日本で経験を積み、NZに戻ってきてブロークンリバーでパトロールもするようになった。
そしてどういう縁か、西海岸のフランツジョセフで氷河ガイドの仕事を探してきた。
その話を聞いた時に僕は言った。
「それはいい、どんどんやりなさい」
何も分からずにクラブフィールドに入り浸り始めた20代の自分と、全く日本人が居ないような西海岸の街で日本人初の氷河ガイドになるタイの姿が重なった。
JCと話していた、次の世代に出てくる面白そうなヤツとはタイのことだったのだ。
それ以来、僕がヤツに言う言葉は「どんどんやりなさい」それだけである。
その後も自分は年を重ねていき、自分より若いアウトドアマン達に出会うことも多くなった。
ブロークンリバーで2シーズンを過ごし、スノーボードのプロの卵から、卵が孵ってプロとなったコージ。
ルートバーンのガイドからスイスのトレッキングガイドも始めるようになったサダオ。
チャリンコで世界一周中のリオ。
西海岸のDOCで働き、最近はマッサージ師にもなろうとしているキミ。
そして最近では自分より二回り下の世代、二十歳ぐらいの人たちとも出会うようになった。
つい最近では、これから専門学校に行くというガイド志望のシンと出会った。
僕のところに来る人は、人に依存することなく自分で色々なことを決め、それを報告しに来ることが多い。
ぼくはいつも「それはいい、どんどんやりなさい」と言う。
無責任な、と言われるかもしれないが、その通り僕には責任は無い。
責任はその選択をした個人が取るべきだ。
僕の考えでは、その人が決断して取った行動が常に正しい。
世の中には色々な選択がある。
何を選ぶのも自由だし、何を選ばないのも自由である。
ただし自由というものの裏には常に責任がつきまとう。
本人が選択して失敗するとしよう。それは表面上は失敗かもしれないが次の成功に繋がる大切なものなのだ。
僕も今までに数々の失敗をした。だが後悔したことは1回もない。
その上に今の僕がある。
最近の傾向なのか、色々と聞く人が多い。
これは失敗することを恐れる気持ち。そして自分で決断することを避ける気持ちからそうなる。
幸い僕のところに来る人でそういう人はいない。
先ず僕は他人に、「ああしなさい」とか「こうしなさい」とか「これをやった方がいいよ」などとは言わない。
「家の手伝いをしろ」と娘に言うが、それは別のレベルの話である。
やるなら僕が言わなくてもやるだろうし、やらないなら僕が言ってもやらない。
いくらいい方法があったとしても、本人がその気にならなければ何も始まらないからだ。
「どうすればいいでしょうか?」
と問われれば僕はこう言うだろう。
「そんなの自分で決めろ」
自分で答を出すことを恐れ、人に判断を委ねようとする人は僕の所には近寄れない。
「あの人がああ言ったから自分はやった」という人は失敗すればその人のせいにするだろう。
それよりも失敗するリスクを知りつつ、なおかつ自分の心の中の光に向かって自分で道を切り開く人が集まってくる。
こういう人は皆明るく光り輝いている。
失敗してもそれを失敗と考えないか、もしくはその失敗を元により大きな栄光を得ることだろう。
「最近の若い者は・・・」とはおっさん達がよく言う言葉だが、若い者の中でもやるヤツはやるのだ。
今やおっさんとなった自分の楽しみは、そういうやるヤツと一緒に酒を飲むことである。
若い時に迷いは付き物である。
僕もさんざん迷いはあった。
迷うことは悪い事ではない。ただ迷いの中にいると苦しいのも事実だ。
そこから逃れるために人は聞く「どうすればいいのでしょう?」だが誰に聞いても何も始まらない。
先ず情報を仕入れること。嵐が来るという情報があってもそれに耳を傾けず、小船で大海に漕ぎ出すのは自殺行為だ。
だが情報の渦に飲まれ本質が分からなくなってしまうことも今の世の中には多々ある。
自分の感覚を研ぎ澄まし、何が大切で何が偽りか見極める努力を怠ってはならない。
そして次のステップ、自分で決める。これが一番大切。
さんざん迷った末に、自分で出した答。これが常に正しい。
どんな結果が来ようと自分の責任として受け入れ、全てを肯定的にとらえる覚悟がある。
そこには失敗というものはなく、全てが経験という財産なのだ。
そういう意味を含めての「どんどんやりなさい」なのである。
今やタイは、山の技術や経験でも僕よりはるか上に行ってしまい、アウトドアのことでは僕が教えることは何もない。
ヤツは僕の言いつけを忠実に守り、どんどん面白そうなことをやっている。
ヤツのブログを見れば羨ましいことばかりである。
僕はめったに他人のことを羨ましがらないが、ヤツの生活は素直に羨ましい。
僕の夢である「リムの森に住む」ということを実現しているからだ。
だが僕がやっていることだって、他人から見れば羨ましいということもある。
世の中はそういうふうにできているらしい。
僕が若い時に出会った大人は理解のある人も多少いたが、大半は自分の狭い考えを押し付けるような人だった。
大きな力で背中を押してくれるような人には出会わなかった。
ならば自分がそうなろう。
タイに限らず、自分の道を自分で切り開いて行こうという若き世代が、僕の言葉が心の支えになるというならば喜んでその役を引き受けよう。
マオリの父方の神、イーヨ・マトゥアが「お前は何も間違っていない、そのまま前へ進め」と僕の背中を押してくれるように、僕は幸せの波動で彼らの背中を押す。
そしてこれからも言うだろう。
「どんどんやりなさい」
僕はパートナー(といっても女の子ではない)のJCと、昨日はあっち今日はこっちというようにパウダーを追い求め毎日のようにクラブフィールドで滑っていた。
僕たちはクラブフィールドにぞっこん(死語)、いかれてしまっていたのだが、当時はクラブフィールドの存在自体知られておらず、ましてや日本人をここで見ることが珍しかった。
日本人スキーヤーやスノーボーダーたちはたくさんいたが、ほとんどの人はマウントハットやクィーンズタウンの辺りのスキー場から外に出ない中、クラブフィールドに通う僕たちは変わり者だった。
ニュージーランドに居る日本人で、と狭い枠で囲ってしまうのもなんだが、そんな日本人の中では僕たちはクラブフィールドのパイオニア的存在と言ってもいいだろう。
当時はまだファットスキーが出始めたばかりで、山スキーはあったがそれはパウダーという快楽を追求するより、冬山の移動の手段とか冬山登山の一部のようなところが強かった。
バックカントリースキーという言葉も定着していなく、当然雪崩の知識も少ない、今では当たり前になっている雪崩ビーコンも出始めたばかりの時だ。
自分達が年を取っていく中で、次の世代が出てこない寂しさのようなものがあった。
「俺達はこうやってクラブフィールドに出入りしてるけど、後の世代が来ないなあ」
「んだどもやあ。でも、どういうやつが出てくるのか楽しみだな」
「んだんだ」
「今、クラブのメンバーになれば日本人初のスキークラブメンバーになれるぞ」
「そりゃ面白そうだな」
そんな話をしながら毎日あちこちのクラブフィールドへ通っていたのだ。
なんてことは無い、数年後には冗談で言った話が実現してしまうのだが、当時僕はまだNZと日本を行ったり来たりしていて、日本人という枠からも抜け出ていなかった。
そしてパウダーを追い求めるバックカントリースキーも今では市民権を得ているが、当時はまだ一部の人の間でしか知られておらず、日本でパトロールをやっていても時代より一歩先を歩いてしまった感じは常にあった。
年は過ぎ僕がブロークンリバーをホームと呼ぶようになった頃、トモ子が現れブロークンリバーの中で居場所を確立していった。
トモ子の話も充分面白いのだが、今回書きたいのは彼女の話ではない。
若きアウトドアマン、タイの話である。
僕がスキーのガイド会社を始めた頃、タイから電話がありクラブフィールドで仕事をしたいというような話を聞いた。
その時の僕は自分の事で精一杯で、とても人の面倒を見てあげられるような状態ではなかった。
僕は日本にいるJCの連絡先、僕もパトロールをしたことがあるシャルマンというスキー場のことをしゃべりそっけなく電話を切った。
まあていよくJCに押し付けたのだ。
その後ヤツは日本で経験を積み、NZに戻ってきてブロークンリバーでパトロールもするようになった。
そしてどういう縁か、西海岸のフランツジョセフで氷河ガイドの仕事を探してきた。
その話を聞いた時に僕は言った。
「それはいい、どんどんやりなさい」
何も分からずにクラブフィールドに入り浸り始めた20代の自分と、全く日本人が居ないような西海岸の街で日本人初の氷河ガイドになるタイの姿が重なった。
JCと話していた、次の世代に出てくる面白そうなヤツとはタイのことだったのだ。
それ以来、僕がヤツに言う言葉は「どんどんやりなさい」それだけである。
その後も自分は年を重ねていき、自分より若いアウトドアマン達に出会うことも多くなった。
ブロークンリバーで2シーズンを過ごし、スノーボードのプロの卵から、卵が孵ってプロとなったコージ。
ルートバーンのガイドからスイスのトレッキングガイドも始めるようになったサダオ。
チャリンコで世界一周中のリオ。
西海岸のDOCで働き、最近はマッサージ師にもなろうとしているキミ。
そして最近では自分より二回り下の世代、二十歳ぐらいの人たちとも出会うようになった。
つい最近では、これから専門学校に行くというガイド志望のシンと出会った。
僕のところに来る人は、人に依存することなく自分で色々なことを決め、それを報告しに来ることが多い。
ぼくはいつも「それはいい、どんどんやりなさい」と言う。
無責任な、と言われるかもしれないが、その通り僕には責任は無い。
責任はその選択をした個人が取るべきだ。
僕の考えでは、その人が決断して取った行動が常に正しい。
世の中には色々な選択がある。
何を選ぶのも自由だし、何を選ばないのも自由である。
ただし自由というものの裏には常に責任がつきまとう。
本人が選択して失敗するとしよう。それは表面上は失敗かもしれないが次の成功に繋がる大切なものなのだ。
僕も今までに数々の失敗をした。だが後悔したことは1回もない。
その上に今の僕がある。
最近の傾向なのか、色々と聞く人が多い。
これは失敗することを恐れる気持ち。そして自分で決断することを避ける気持ちからそうなる。
幸い僕のところに来る人でそういう人はいない。
先ず僕は他人に、「ああしなさい」とか「こうしなさい」とか「これをやった方がいいよ」などとは言わない。
「家の手伝いをしろ」と娘に言うが、それは別のレベルの話である。
やるなら僕が言わなくてもやるだろうし、やらないなら僕が言ってもやらない。
いくらいい方法があったとしても、本人がその気にならなければ何も始まらないからだ。
「どうすればいいでしょうか?」
と問われれば僕はこう言うだろう。
「そんなの自分で決めろ」
自分で答を出すことを恐れ、人に判断を委ねようとする人は僕の所には近寄れない。
「あの人がああ言ったから自分はやった」という人は失敗すればその人のせいにするだろう。
それよりも失敗するリスクを知りつつ、なおかつ自分の心の中の光に向かって自分で道を切り開く人が集まってくる。
こういう人は皆明るく光り輝いている。
失敗してもそれを失敗と考えないか、もしくはその失敗を元により大きな栄光を得ることだろう。
「最近の若い者は・・・」とはおっさん達がよく言う言葉だが、若い者の中でもやるヤツはやるのだ。
今やおっさんとなった自分の楽しみは、そういうやるヤツと一緒に酒を飲むことである。
若い時に迷いは付き物である。
僕もさんざん迷いはあった。
迷うことは悪い事ではない。ただ迷いの中にいると苦しいのも事実だ。
そこから逃れるために人は聞く「どうすればいいのでしょう?」だが誰に聞いても何も始まらない。
先ず情報を仕入れること。嵐が来るという情報があってもそれに耳を傾けず、小船で大海に漕ぎ出すのは自殺行為だ。
だが情報の渦に飲まれ本質が分からなくなってしまうことも今の世の中には多々ある。
自分の感覚を研ぎ澄まし、何が大切で何が偽りか見極める努力を怠ってはならない。
そして次のステップ、自分で決める。これが一番大切。
さんざん迷った末に、自分で出した答。これが常に正しい。
どんな結果が来ようと自分の責任として受け入れ、全てを肯定的にとらえる覚悟がある。
そこには失敗というものはなく、全てが経験という財産なのだ。
そういう意味を含めての「どんどんやりなさい」なのである。
今やタイは、山の技術や経験でも僕よりはるか上に行ってしまい、アウトドアのことでは僕が教えることは何もない。
ヤツは僕の言いつけを忠実に守り、どんどん面白そうなことをやっている。
ヤツのブログを見れば羨ましいことばかりである。
僕はめったに他人のことを羨ましがらないが、ヤツの生活は素直に羨ましい。
僕の夢である「リムの森に住む」ということを実現しているからだ。
だが僕がやっていることだって、他人から見れば羨ましいということもある。
世の中はそういうふうにできているらしい。
僕が若い時に出会った大人は理解のある人も多少いたが、大半は自分の狭い考えを押し付けるような人だった。
大きな力で背中を押してくれるような人には出会わなかった。
ならば自分がそうなろう。
タイに限らず、自分の道を自分で切り開いて行こうという若き世代が、僕の言葉が心の支えになるというならば喜んでその役を引き受けよう。
マオリの父方の神、イーヨ・マトゥアが「お前は何も間違っていない、そのまま前へ進め」と僕の背中を押してくれるように、僕は幸せの波動で彼らの背中を押す。
そしてこれからも言うだろう。
「どんどんやりなさい」