彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

会津若松と平泉訪問記 その4~戸ノ口原古戦場~

2012年09月12日 | 史跡
日新館は会津若松の北部にあるのですが、ここからひたすら猪苗代に向かって山道を登ると、戸ノ口原古戦場に到着します。

会津戦争の大きな要となる戦いは、猪苗代湖の東側に当る母成峠の戦いでした。これは会津藩も少し出向いて峠を守る形になる戦いになったのですが圧倒的な火力の差によって新政府軍が勝利したのです。

こうして猪苗代湖を周り、西岸から会津に向かう入口が戸ノ口原だったのです。
戸ノ口原よりも猪苗代側に架かる十六橋を破壊することで、新政府軍の進攻を贈らせようとした会津藩だったのですが、橋の破壊に集中していた為に薩摩藩兵を率いていた川村純義の部隊の接近に気が付かず、至近距離で一斉射撃を受けてしまい兵を引きます。
川村隊は重要拠点である十六橋を抑えて、そのまま西進して戸ノ口原に迫ったのでした。

戸ノ口原から滝沢道で山を越えたところにある滝沢本陣に、母成峠での敗戦の報を受けて、すでに藩主の座を退いていた松平容保が鶴ヶ城から出陣して本陣を置いていました。
ここに十六橋の報も入り、容保が率いた藩兵も戸ノ口原に向かいます。その中に日向内記が指揮をしていた白虎隊第二中隊が含まれていたのです。
実戦を知らないまま戦場に出ることになった白虎隊は、戸ノ口原という戦国武将でもなかなか経験しないような激戦地に投げ込まれます。
それはまさしく殺し合いの現場でした、しかも完全な負け戦です。白虎隊士たちはどんどんと倒れ、やがて日向内記ともはぐれてしまうのです。

この後の白虎隊の悲劇の話は次に回しますが、このようにして戸ノ口原の戦いにも会津藩は敗れ、新政府軍の城下進攻を許すことになります。

そんな戦場ですから、この周囲には会津藩士たちの墓が点在しているようです。



さて、ここから一気に滝沢旧道を下って飯盛山に出る予定だったのですが、道に迷いました。
最初は十六橋を目指したのですが、場所がよくわからず断念、早々と飯盛山に行こうと思い下って行くと、なぜか湖が見え始めて、猪苗代湖(反対側)に下ったことが発覚!(往復で約11キロ)
もう一度戻って戸ノ口原から別の道に行ったら、今度は会津市街地と猪苗代湖の間の道を下っていました。6.5キロほど進んだところにある湊小学校の校舎を見て、地図で確認して間違えていることを確認。もう一度6.5キロを戻って(登り坂)、やっと滝沢旧道を発見してカーブの多い山道を駆け下りました。

もう自転車で進む標高も距離もオーバー気味ですが、まだ天気に恵まれていました。
しかし、長い旅路の末に飯盛山に到着した時、非情の雨に見舞われることになるのです。
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150年前:留学生派遣(9月11日)

2012年09月11日 | 何の日?
文久2年(1862)9月11日、江戸幕府は開国後初の公式な留学生をオランダに派遣しました。


幕末威信史において、動乱の時期に名前を訊かずに急にひょこっと重要人物として登場する人がいます。
榎本武揚などはその代表的な人物かもしれません。
幕末の大きなもめごとの時にまったく名前を見ないのに、気が付けば江戸幕府の海軍を掌握していて、気が付けば幕府の残党を纏めて蝦夷で独立国家を建設しようとしたのです。
また大政奉還の直前に徳川慶喜の顧問tとなっていた西周も同じことが言えます。

彼らは幕末の重要な時期に何をしていて、どうして急に幕末史の登場したのでしょうか?


その答えが、幕府が派遣した留学生です。
幕府は西洋の知識を学ぶt事を目的とした留学生をオランダに派遣することを計画し、文久2年9月11日に長崎を出航したのです。
そのメンバーに榎本武揚も西周も含まれていました。翌年4月6日にロッテルダムへ到着した留学生たちは慶応3年(1867)の帰国までに多くの知識を吸収したのです。

慶応3年は大政奉還の年ですので、留学生一行が帰国したのはまさに幕府の灯が消えようとした瞬間でした。
この為に才能を認められて要職に就くようになった留学生に活躍の場は無いままに幕府が滅びてしまい、その後に明治政府の役人として迎えられた者もいれば在野に下って活躍する人物もでてくるのです。
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会津若松と平泉訪問記 その3~會津藩校日新館~

2012年09月10日 | 史跡
さて、いよいよ會津藩校日新館に向かいます。
もう『八重の桜』の準備も進んでいます。


日新館は、鶴ヶ城のすぐ近くにあり、現在は天文方があった場所に天文台が再現されていますが、それ以外の施設を会津若松市内に作るだけの土地がありませんでしたので、郊外に原寸大で再現したそうです。
おかげで、当時の藩校の様子を見ることができるのですが、観光に行くには少し遠いのも事実でした。
景色はきれいなのですが、その分だけ山を登ったということです。

入口には、有名な『什の掟』七ヶ条が紹介されていて、最後に「ならぬことはならぬものです」と書かれています。

7つしかないのに、なぜ什の掟?との疑問がよくあるそうですが、人偏に十という字は、10人ほどが集まったグループ(サークル)という意味があるそうです。就学前の子どもたちのグループの中で教えあったことなので、サークルの決まりみたいな意味で什の掟と呼ばれているそうです。


大きな狛犬に守られ、その狛犬の足には意味ありげなポーズもあり…

會津藩校日新館の入口です。

中は広大な敷地です。講堂も大きいです。

その建物で史料と共に、当時の様子が人形になっています。

○基礎学問


○天文学

そういえば、時代的には日新館ができた方があとですが『天地明察』に登場する渋川春海も会津藩の客人という立場でしたね。藩校独自に天文方を置いているところは少なかったらしいので、もしかしたら…と思うとワクワクしますね。

○武士としての礼儀作法

刀の渡し方の作法だそうです。

○軍学

などです。

そして外では水練

藩校でプールを持っていたのはここだけでしたが、幕末前夜に吉田松陰が訪れて会津藩の教育と、この施設に感心して萩の明倫館で真似をさせようとしました。会津と長州はこの時には友好的な関係を築いていたのです。

○天文台

この上からは日新館が見渡せます。


天文台の麓には砲術方があります。

幕末、山本八重は京都に出張に行った兄である山本覚馬の代わりにここで西洋銃の指導をしていました、その生徒の中には白虎隊士もいたそうです。
八重は銃を構えて、銃尻を胸に置いて発砲したそうです。大柄だった若い女性が豊かな胸に衝撃を吸収しながら銃を撃つ様子は、兵器を扱いながらもどことなくのんびりしたイメージがあります。

しかし、ここで学んだ生徒が出陣し、その若い命を多く散らしたのです。

と言う訳で、この次はまた山登りを9キロほど続けて、白虎隊が戦った戸ノ口原古戦場に向かいます。
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会津若松と平泉訪問記 その2~会津若松駅から皆鶴姫の碑~

2012年09月08日 | 史跡
9月1日午前8時頃、会津若松駅に到着。

駅の改札口近くにゆるキャラっぽい何かが…?

「お城ボくん」まさに赤い瓦の鶴ヶ城をイメージしたキャラです。そしてこのキャラはこの後会津若松市内で何度も見かけることになります(といってもこの日記には登場しませんが…)。

そして会津若松駅と言えばやはり白虎隊の像ですね。

朝はこの写真の空でわかるように青空が広がっていました。


ここで、レンタルサイクルを借りて、一日自転車で行動することになるのですが、この中途半端に自由が利く機動力が僕に大きな試練をもたらすことになります。
と言いますか、借りて地図を開いた時点から試練に自らはまって行ったのです。
今回行かなければならない場所は、八重の生誕地・鶴ヶ城・飯盛山です。でもそれだけなら時間が余るので行ける場所には行ってみようと地図を開くと、駅から4キロ先辺りに“皆鶴姫の碑”と“藤倉二階堂”という文字がありました、そこから山登りしながらまた5キロほど行けば日新館があるみたいなのです。
とりあえず9キロ(山登り付き)、普通はバスなどの手段を選ぶのでしょうが、「行こう」と即決し、自転車をこぎ始めました。

お約束の道を間違えて引き返したりして3キロオーバーの計7キロほど走って県道69線沿いに藤倉二階堂発見。

なんと、室町時代に作られた様式を今に伝えている貴重な建物なのだそうです。


ここから在所のようなところに入るのですが、その道の奥には藤倉城祉がありました。敷地自体は個人のお宅ですので失礼があってはいけませんが、中世の土塁や堀がしっかり残っています。

家の方に声をかけてもっとじっくり観たい気分にもなりましたが、そこはあまり時間を使うと後で困るのでぐっと我慢して周入り口だけ拝見しました。こういう残り方は代々の人がこの土地を守り慈しんだからです。本当に温かい気持ちになる場所でした。

もっと在所の奥に入ると、暦応の碑という不思議な看板がありました。

暦応5年(1342)10月2日と刻まれた石があるそうです。これも室町時代ですね、二階堂もお城も石も室町時代辺りからずっと残されてきたのでしょうか?

それより古い伝承が皆鶴姫です。
源義経がまだ奥州に降る前、義経は兵学を学ぶ為に鬼一法眼に学ぼうとしましたが、法眼が秘伝の兵法書を見せず、困った義経は法眼の娘を口説いて、寝物語で兵法書を見たいことを娘に語りました。娘は自分を抱いてる途中でも義経が気にしてやまない兵法書を、父の所から盗み出して義経に見せたのです。
義経は喜んでこれを書き写したのでした。そして用が済んだら娘に冷たくなり、そのまま黙って旅立ったのです。皆鶴姫はこの娘のことです。
義経に騙されたと知りながらも奥州に向かった義経を追いかけるのですが、藤倉で病を患い、難波池という場所で池に映し出されたやつれた自分の姿にショックを受けてそのまま池に身を投げたのです
そんな皆鶴姫を哀れに思って墓が作られ、その墓石が集められたのが皆鶴姫の碑でした。

鬼一法眼の娘を義経が弄んだ話は有名ですが、その義経を娘が追いかけてそしてこんな結末を迎えていたなんて、恥ずかしながらここに来るまで知りませんでした。
勉強になりました。

そしてここから山を登る日新館への5キロ近いサイクリングが始まるのです。
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会津若松と平泉訪問記 その1~出発(雑談)~

2012年09月07日 | 史跡
9月1日に会津若松、2日に平泉に行ってきましたので、その報告です。

元々は9月2日に安土のかふぇらんまるの予定でしたので、他の予定を入れてなかったのですがこれが流れました。その後でこの日に行われる小谷城跡での歴コン参加の予定を入れたのですが、予約の電話を入れてもらった時点で完了と思っていて、その後に実はここにネットで申し込みしないといけないという連絡があったことを忘れちゃいました。
これによって9月2日がフリーとなったのです。

そこで考えました予定…
『どんつき瓦版』の次号が『八重の桜』や戊辰戦争の話にきまっていたので、それならば会津若松に行こうと思ったのです。それと同時に平泉にも行きたいと思いました。


実は会津若松に関しては2011年3月12日に瓦を赤くしたお城の記念式典が予定されていました。管理人はこの式典に間に合わなくてもこの日に赤い瓦が観たいと思い、行き当たりばったりで行く筈でした。

その前日2011年3月11日、東日本大震災。
もし3.11が一日遅かったら、管理人は被災してなかなか帰宅できなかったかもしれません…
東北は行ける状態ではなくなったのです。その後のは個人的な理由から母の介護が始まり、母の死、そして忌明けなどなど…
気が付けばもう1年半以上になりました…
あり得ないほどに予定が消えて行ったのは、「行って来い」という声なき声だったのかもしれません。
ですから、会津での目的は八重の生家から見えるお城を確認することと、赤い瓦の鶴ヶ城を見ることでした。

そして平泉。
東北と言うだけで、会津若松からならば福島県の半分と宮城県を越えて岩手県にまで入らなければならず、3時間くらい電車に乗らなければならない場所です。
2011年、平泉が世界遺産に選ばれた時、『THE世界遺産』という番組がいち早く平泉を紹介しました。淡々と平泉を紹介するその番組を見て僕は泣きました。何が涙を誘ったのか分りませんが涙が出て、「絶対に行きたい!」と思ったのです。

ですから、今回の旅行は無理な行程と理解しながら会津若松と平泉を目的地にしました。



8月31日の金曜日、仕事が終わると帰宅して出発準備を行いました。
管理人の旅には本が付き物ですが、今回の旅のお供は『冬姫』と『レオン氏郷』

まったく違う作家が同じ時期に出版した夫婦をそれぞれから見た物語です。
とくに戦国の女性の中で冬姫に興味がありますので、惹かれる作品でした。感想は別の機会にしますが、蒲生氏郷といえば会津に入って鶴ヶ城を改築した人物でもあるので、会津へ気持ちが飛びます。

新幹線は東京で止まり、山手線で赤羽まで移動します。
時間で言えば日が変わる直前くらい、それなのに電車はいっぱいです。本も読めやしない…
管理人の周囲は女性が多く、目の前の30代半ばくらいの女性は(たぶん中国語)でずっと大声で電話中。それでも周りのお客さんは何とも思わないとは、「東京って国際色豊かだ」
左後ろには制服を着た女子高生二人、今から秋葉に遊びに行こうと言って秋葉で降りて行きました。こんな時間までそんな恰好で(でもおぼこい感じの子だった)遊びに行くなんて「東京の女子は夜が無いのか」
左前には年齢不詳(若くも年にも見える)の女性が二人見つめ合っていて急にイチャイチャ始めました、えっ女性同士がこんな公衆の面前で…「東京の女性カップルは公認されてるんだ」

と、山手線で3つの女性に関する驚き、東京都会じゃん!


赤羽で乗り換えて、終点の宇都宮まで移動します。
宇都宮で駅の外に出されて1時40分頃から5時過ぎまで時間をつぶさねばなりません。
駅の構内では、ゆずの歌を歌い続けるにーちゃんがいたのですが、聴くに堪えないくらいに下手…でも駅獣に響いていて雑音にしかなりません。
おにーちゃん、聴いてほしいのはわかるけど、もう少し練習しようぜ。と心の中で思いながら、まずは餃子像を探しておのぼりさん気分。でも今回は餃子が食べれないのが悲しいです。

この餃子像の上のベンチではオジサンたちが荷物を枕にして寝ていました、これが野宿ってやつですね。

駅前には、5時まで開いている居酒屋さんがあり、混んでなければ居座ることを決めて入店。
案外空いていてビックリ。
個室のようになっていたのですが隣りのBOXの男性が結構注文して、トイレ行ったりあれこれ動いたり賑やかです。
管理人が静かに本を読みながら軽く食事していると、急にジャラジャラ小銭の音。それを数える男性の声…
そして呼び鈴、男性がお会計を告げると、お店の女の子が伝票を持って行った感じでした、次の瞬間、我が耳を疑いました。

男性の「足りない…」という小さな呟き

思わず噴き出しました。
そこから騒然とする店内、女の子の店長を呼ぶ声、説明も全て聞こえちゃってます、みんな動揺中?
管理人も思わず自分のポケットに手を入れて財布チェック、ある。安心…
店長(若い男性だった)が対応に入るけど、その後ろから女んの子の声「店長、お客さん身分証明持ってないと思うよ、お金小銭で財布にも入って無かったもん」


……
………
あかん、隣りでは管理人に笑ってくれと言わんばかりのドラマが展開されている、ここは関西かと思うくらいの流れでした。
結局、店長が冷静に対応し、連絡先などを訊いていて翌日に払いに来ることになったようですが、さすがにその顛末がどうなったのかはわかりませんが、なかなかない事件に出遭ったものです。


こうして宇都宮の夜は明け、5時過ぎに移動再開。茄子塩原から新幹線に乗って郡山まで移
関西では目にしない新幹線の車両にワクワク…

そこから会津若松まで駅数は少ないのに駅の感覚が長いという睡眠を煽られる様なのんびりした電車t旅の末に9月1日午前8時頃に会津若松駅に降り立ったのです。
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