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「ポジティブ思考とは何か」短期連載その1

2013-10-19 | ポジティブ心理学
児童心理 平成25年10月号掲載 
「ポジティブ思考とは何か」

●ポジティブ心理学余話
 余話から始めるのをお許しいただきたい。
 心理学は、対象領域も、研究手法も、さらに心を研究する観点も実に多岐にわたっている。それは心がとらえどころのないほど多岐にわたっているのであるから、当然ではあるが、それにしてもの感はある。心理学者は、ごみ箱あさりばかりしているとのお叱りもある。
 21世紀になりその多岐さにさらに一つ加わったのが、ポジティブ心理学である。1998年のアメリカ心理学会での会長・M.セリグマンの演説がその端緒を開いたのは、よく知られている。その演説ではないが、YouTube でセリングマンの自身の名演説を無料でしかも字幕付きでみることができる。(http://www.youtube.com/watch?v=PDIPdI_OEEk)。そして、たちどころに、「ポジティブ心理学とは、ポジティブに考え(思考)、気持ちを元気にして(感情)、明るく振舞う(行動)にはどうすればよいか」を研究開発する領域であることがわかる。
 どうあれこれひっくりかえしてみても、ただこれだけである。なーんだ、というのが、流行好きですぐに飛びつく悪い癖のある(いや「好奇心旺盛な」と言い換えるのが大事、とポジティブ心理学は教えてくれるのだが(笑い))自分の6年前のポジティブ心理学との遭遇時のいつわらざる感想であった。
 しかし、その頃、「健康・スポーツ心理学科」の立ち上げをする役割を担うこところだった。その授業科目に「ポジティブ心理学」を入れて演習を担当することになり、にわか勉強をすることになった。これがおもしろかった。授業のほうの受けは今一つだったが、おもしろついでに、「ポジティブマインド;スポーツと健康、積極的な生き方の心理学」(新曜社)なる本の監修までしてしまった。さらに、ポジティブマインド作りに役立つキーワードを幅広く80個くらい収集してそれについて解説する連載もあちこちの雑誌、動画での講義や自分のブログでやり始めてしまった(ブログでの連載は現在でも続いている。http://blog.goo.ne.jp/hkaiho)。ただ恥ずかしいので言いたくないのだが、これらの中には、いわゆる研究論文は含まれていないことは白状しておく。
 いずれにしても、このポジティブ心理学のおもしろさがどこからくるのかを振りかえってみた。
 一つは、話のわかりやすさである。
 研究で取り上げられる構成概念のほとんどが日常用語であるし、研究の仕方ももっぱら調査法でーー後述するように、もっともその規模は驚くほど大規模で長期にわたるものが多いがーー、自分が長年フィールドとして研究してきた認知心理学、認知科学の複雑怪奇なコンセプトワークや精緻な実験の話と比べれば、とてもわかりやすくて、したがって、理解しやすい。3日で専門家になれた感じである。(笑い)
 もう一つは、勉強を続け、原稿を書いたりすることが、自らの心のポジティブな変容につながったことである。
たとえば、演習や高校生対象の出前授業にポジティブ心理学の話をする定番の一つに「“ほンわかあ”40回運動」がある。“「ほ」める。「わ」らう、「か」んしゃする、「あ」いさつする”を一日40回しようというもの。
それぞれ多彩なポジティブ心理学の知見があるので、それらをまじえ実演しながらの授業になる。好評だった(と思う)が、1件だけ、生意気な高校生から「こんなことわかりきってるじゃん」とあったのにはぎゃふんだった。
いずれにしても、「ほンわかあ」40回運動を話しているうちに、自然とみずからがそれを実践することになった。そして、心がポジティブになっていく自分が気づかされた。
これまでほぼ半世紀にわたり心理学の勉強、さらに研究をしてきて、こんな経験は実ははじめてであった。ポジティブ心理学万歳という気分である。(笑い)
余話はこれくらいにして本題に入る。


ポジティブ心理学(positive psychology)

2013-10-19 | 心理学辞典
● ポジティブ心理学(positive psychology)
臨床心理学隆盛の20世紀後半の心理学の潮流が、21世紀になりかわりつつある。きっかけは、皮肉なことに、無力感は学習の産物であるとする発見をしたセリングマン(M、E. P. Seligman)が、1998年に米国心理学会の機関紙への会長あいさつであった。彼は、今度は、楽観主義も学習の産物であるとする自著をベースに、21世紀の心理学は、人間のポジティブ面、優れた面に目を向けたものであるべきだとして、ポジティブ心理学を提唱したのである。
ねらいは、生活、趣味、仕事、対人関係において、人生の幸せをいかに作り出していく技術を開発していくことにある。

加害」安全・安心の心理学

2013-10-19 | 安全、安心、
 
加害




           ―――「誰もが加害者に」の社会
●誰もが加害者に
安全、安心の問題は、圧倒的に、自らが被害者になることを前提にしている。いかに自然災害や犯罪から身を守るか、いかに事故にあわないようにするか、をもっぱら考える。本書でもだいたいそういうスタンスで書かれている。
しかし、車社会の到来が事態を劇的に変えた。被害だけを考えていては安全、安心の問題は十分ではなく、もう一方の加害のほうにも目を向けなければならなくなってきたのである。
交通事故の領域では、そのことの認識はすでに確立しており、交通安全というと、たとえば、歩行者、つまり被害者と、運転者、つまり加害可能性者とに、同時にほぼ等分に対策を立てるようになっている。
 ●加害の心理
  人や物や社会に害を与えるには、まず、大きく3つのケースに分かれる、
一つは、加害の意図がまったくなかったのに、しかし、結果として害を与えてしまった、というケースである。無意図的な加害である。交通事故に限らず、あらゆる領域で、このケースは非常に多い。業務上過失として罪を問われる。
2つは、知らなかったために害を与えてしまった、というケース。無意図的加害と似ているが、知識が関与している点で分けておく。知っていれば防げた加害である。たとえば、お客に有毒のキノコを食べさせてしまったようなケース。意図も知識もなかったための加害である。これも、場合によっては、業務上過失の罪を問われる。
3つは、そうしようと思って害を与えたケース。ほとんどの犯罪がこれである。だから、警察は実にしつこく犯罪の動機を捜査の対象にする。見つからないと動機なき殺人なるカテゴリーに入れる。これについては、膨大な話になるので、ここでは取り上げない。

●そうするつもりがなかったのに
加害で一番やりきれないのが、無意図的な加害である。
車社会の到来以前は、このカテゴリーに入る加害はそれほど多くはなかった。車がステータス・シンボルだった時代には、加害者と被害者とははっきりと分離されていた。
しかし、誰もが車を持てる時代になると、誰もが加害者に、の時代になってしまった。被害者の数に匹敵するくらいの加害者が出てしまうようになったのである。しかも、その多くは、そうなるとは思ってもいなかったにもかかわらずである。
結果として、罪を問われ、ひどい場合は、社会的にも経済的にも計り知れないほどの不利益を被ることになる。交通事故の場合には、とりわけ世間の目は、最近ではやや厳しすぎるくらいになっている。「魔の一瞬」は誰にでも起こる。無意図的な加害には、もう少し寛容になれる社会になってほしいものだと思う。
 もっとも、こうした事情を想定すれば、もっと安全に留意した行動ができるはずなのにと思うことが少なくない現状であることも事実である。
 
●知らなかった
法律違反や手順違反による加害のケースでの言い訳によく出てくるのが、「知らなかった」である。知らなかったならしかたがないとの共感を期待する言い訳である。
このケースでも悪質なのは、仕事をする上では当然、そのことについての知識は持っていなければならないのに、持っていなかったというケースである。これは、組織にも責任がある。研修カリキュラムの欠陥である。
関連してやっかいなのは、きちんと教えられたのだが、たまたまその時に思い出せなかったための加害というようなケースである。人の記憶の脆弱さ起因するものだけに、加害者に同情したいところもある。
追い越し禁止ラインを「知らずに」とか、臨界条件を「知らずに」とかいうようなケースである。いずれも、どこかでは一度や2度は教えられたはずである。
知らなかった、正確には、思い出せなかったでも、それによって事故が起こってしまえば、加害者本人の責任が問われることになる。したがって、対策は本人自身、知識の再点検、リフレッシュを怠らないことであるが、組織としても、人の記憶の脆弱さに思いをはせた研修体制や仕事のやり方を考える必要がある。

●加害者にならないために
今や「一億総加害者」の時代といってもよい。そんな時代の生き方について最後に一言。
まずは、加害が想定される場には、できるだけ自分をおかないこと。歩いていけるところは歩く。車のスピードは出さない。リスクの高い支援はしない。これが極端になると、消極的な生き方になるが、加害が想定される場では、これくらいで良い。
次は、加害感受性を身につけることである。我が身にふりかかる危険の予知は、体験を通してそれなりの感受性を自然に身につけられる。しかし、自分が人や物や社会に対して害を及ぼすことについてはどうであろうか。想像をたくましくして加害予知訓練のようなことを頭の中でやってみることを勧めたい。
最後は、どうしても加害者になってしまった時のために、少なくとも金銭的な補償だけはできるように損害保険を掛けておくこと。
(K)


2013-10-19 | 認知心理学
「時」は不思議です。「心」と同じで、目に見えないのに、その存在感は圧倒的です。
 今現在は一瞬ですが、過去も未来も永遠
です。一瞬と永遠とが固い絆で結ばれています。そこから逃れたいとの思いにかられることはしばしばありますが、絶対に逃れることはできません。だからこその存在感です。

 4年間の八千代キャンパスでの学びも ライフスパンで考えればほんの一瞬。それでも、そのあとの長い長い人生にはかりしれないくらいの影響を持ちます。いや、もつようなキャンパスライフを過ごしてほしいと切に願います。

 祭りは、「時」を止めます。一瞬の輝きを演出する仕掛けです。それぞれの思いで参加し一瞬を堪能してください。そこには普段のキャンパスライフでは経験することのできない世界があるはずです。