月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

平和な都 架け橋は水道橋

2019-01-14 10:05:43 | 祭と民俗の旅復刻版 町のつくり



 前一世紀から五賢帝とよばれる王達の統治時代は、ローマ帝国が平和のうちに治められたパックス・ロマーナと呼ばれる時代です。

 この頃、都市の需要により、公衆浴場、競技場、そして水道橋などの建築技術が発達しました。特に水道は、現在でも当時の物を使っているところがあるそうです。

 さて、そこから遠く離れた京の都にも水道橋が存在します。
 それは、隣の滋賀県の琵琶湖から京都に水を引くための琵琶湖疎水です。琵琶湖から水が流れ出る唯一の瀬田川は京都を通らず宇治川に流れつきます。

  なので琵琶湖からの水をひくことは、京都の人にとっては長年の夢でした。 
 特に、明治維新に伴う遷都により活気を失っていた京都にとって、長年の夢をかなえることは、その後の京都の行く先を大きく変えるものだったのでしょう。この疎水は日本初の水力発電などに利用されました。

 この疎水は、古の都・京を通るためにその景観にも配慮されました。
 そのために建てられたのが、南禅寺境内を通る水路閣です。この水路閣は古代ローマの水道橋を参考につくられたそうです。

 794年より明治維新まで続いた平安京(天皇は現在も江戸に行幸していることになっているらしいので、本拠地は京都ということになっている。)。その名前は、平安の京(みやこ)たることを祈るためのものです。

 その都の歴史に幕を閉じたとき、まるでここが都だったことをしめすかのように築かれたのは、はるか西の「平和の都」=「パックス・ロマーナ」の水道橋。思い返せば、平安たることを祈った都は、疫病が流行り、貴族は怨霊の祟りに恐れ、応仁の乱で都は焼け野原になるという、平安の都とはほど遠いものでした。

 一方、ローマの都も、平和が保たれたとはいうものの、闘技場では剣奴たちの殺し合いが日常茶飯事だったようです。

 それでも、平安と活気ある京の復活を祈りつつ、パックスの象徴を築いた当時の人々の願いはどのようなものだったのでしょうか?

 ただ分かることは一つだけあります。たんなる幸運か、それとも何らかの理由があるのか、京が都でなくなってから、パックス・ロマーナの水道橋ができてからは、京都は他の都市と比べて、大規模な破壊の憂き目に会っていないということです。

2006年頃ジオシティーズウェブページ「町のつくり」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsu等)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。

 

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