月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

225.宮沢賢治の詩に見る北斗七星信仰(月刊「祭」2019.11.第9号)

2019-11-10 07:51:59 | 素人がアイヌ語から見たクラムボン2006
●管理人が書いた宮澤賢治の論文? 妄想?
 一応「論文」となっていますが、確固たる確証は持てない管理人が書いたクラムボンアイヌ語説*。とはいうものの、全く根拠はないというわけではありません。
 宮澤賢治は日蓮宗の熱心な信者であり、日蓮宗において大きな一角を占める妙見信仰、北斗七星信仰をベースにしていると思われる作品を多数作っています。その北斗七星信仰については、柳田國男ら民俗学者が誌上で取り上げ始めました。
 そのような北斗七星信仰や征服される民への賢治の眼差しを考えると、クラムボン アイヌ語説も確実だとはいかないまでも、あながち荒唐無稽でないようにも感じてしまいます。
 ここでは、管理人の説はさておき、宮澤賢治が、当時の民俗学の知見を取り入れて作品を書こうとしていたことを、主に一遍の詩の「下書き」を通して紹介します。
 今号は、下に記した管理人の論文(もどき)の一部を、簡潔に紹介する形で書いていきます。




 
●民俗学でとりあげられはじめた北斗七星信仰と征服された人たちの鎮魂
 宮澤賢治は、日蓮宗の信徒だったそうです。日蓮宗の寺院には多くの寺院で「妙見菩薩」が祀られています。妙見菩薩は「妙見神呪経」などとよばれる中世の書物なとでは、妙見菩薩は北辰や北斗七星の輔星と同体とされてきました。宮澤賢治の作品には「烏の北斗七星」など七星やそれにまつわる信仰をモチーフにしたと思われるものがよく見られます。
 例えば『烏の北斗七星』はタイトルがそうだし、「七ツ森」という言葉が『おきなぐさ』、『山男の四月』、『紫紺染について』という作品にも出てきます(もう内容はほとんど忘れました^_^)
 一方で当時は民俗学者柳田国男らの活躍で、国内の七星信仰を反映したと思われる塚などに注目が集まっていました。大正四年の『郷土研究3-7』では伊東東が豊後国に「七ツ森」があり、土蜘蛛の墓だという伝承があることを紹介しています。柳田国男は「七塚考」(『郷土研究3-5』所収)では、
①村や町の境において平将門など不遇の死を遂げた者を、七人、あるいは一人の体を七つにわけて葬ったという伝承があること
②七つ森、七つ石、七本杉なども同様の目的
といったようなことが書かれてい(たはずで)す。

 宮澤賢治の故郷である岩手だと「征服される者」はアイヌ民族だとも考えられる、アテルイや悪路王です。しかも、宮澤賢治の学友にはアイヌ研究の大家でもある金田一京助の弟がいました。「やまなし」を執筆するときか、そのすぐ前あたりに宮澤賢治は『アイヌ神謡集』の著者である千里幸恵が居候している金田一京介宅を訪れたそうです。
 ちなみに宮澤賢治の作品が『アイヌ神謡集』の影響をうけていることは、秋枝美保氏が「『アイヌ神謡集』と賢治の童話-鬼神・魔神・修羅の鎮魂-」(『国際言語文化研究所紀要16-3』2005所収)で指摘されています。どこぞの祭ブログ管理人の論文もどきと違い名著です^_^
 そして、その秋枝氏も引用した詩の下書きに見られます。秋枝氏は下書きから清書の違いを比較して、宮澤賢治の心の中で鎮魂が行われたということを書いています。
 管理人は、当時民俗学者達が指摘していた七星信仰や征服される人たちへの眼差しと宮澤賢治の作品を指摘した「つもり」です。


●宮澤賢治の詩に出てくるアイヌの鎮魂の七塚
 宮澤賢治が信仰していた日蓮宗においては三国四師の一人として伝教大師最澄が挙げられています。最澄は比叡山延暦寺の開祖でもあり、その麓には北斗七星信仰の神社ともいえる日吉大社を鎮守の社として擁しています。そんな「比叡」の詩もつくっており、そこには、6人の僧とともに立つ自分を描いています。つまり、宮澤賢治をあわせると7人になります。これも、北斗七星をあらわしているかも??しれません。

 「日はトパーズのかけらをそそぎ」の書き出しではじまる詩の下書きには、
 「その樹神のあつまりを考えるなら 花巻一方里なのあひだに七箇所を数え得る」
とあり、七塚を連想させます。さらにその詩に追加しようとした言葉には、「たゝりをもったアイヌの沼」という言葉もありました。
 これらの表現は、七塚が征服された者を祀るための塚であると民俗学会で指摘していたことをモチーフにしてできたものと考えるのが自然でしょう。

•無駄に長ーい題名の論文(もどき)
「〔やまなし〕の研究 宮沢賢治の北斗七星を通したアイヌの御霊信仰及びアイヌ語によるイサドの考察と、アイヌ語からみたクラムボン、かぷかぷ、「私の青い幻燈」の考察」
•韓国檀国大学校の朴京娫先生が、論文「宮沢賢治と北海道との関連性 -『ペンネンネンネンネンㆍネネ厶の伝記』を中心に-」に管理人の論文(もどき)を引用してくださいました。なぜか引用文の後の参照が萱野茂『アイヌ語辞典』(三省堂)1996になっていました。
 朴先生に問い合わせたところ、クラムボン ・アイヌ語説は私が先だと認めてくださいました。ちょっとした間違いだと思われますが、ご丁寧に「ご迷惑かけて申し訳ありません」の言葉をいただきました。管理人も、当時のウェブページには掲載した雑誌名の記載はしていましたが、当時の職業上、管理人の名前は伏せていました。朴先生にとっても、わかりにくかったと思われます(とはいえ、論題と雑誌名は明記していましたので容易に分かるはずでしたが^_^;。)。クラムボン アイヌ語説の話をするさいには、私のウェブページなども紹介して下さるそうです。
 また、朴先生はこの論文に関する講義はしていません。つまり、クラムボン アイヌ語説を、自分のものとして講義をしたことはありません。

 



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