●大津が世界に誇る曳山の祭の祭
大津祭は豪華絢爛な曳山が出る祭として知られています。祇園祭山鉾の流れをくみつつも、三輪の車輪、締め太鼓だけでなく鋲太鼓も加わり軽快で迫力あるお囃子、山の上で行われる各山のからくりなど、大津祭独特の特徴を相備えています。
しかし、大津祭もまた、はじめから豪華絢爛な曳山そろっていたわけではなく、祭の黎明期にはなんと「地車」「やたい」があったとのことです。今回は大津祭の「地車」「やたい」について考えていきます。
↑大津市曳山展示館の西王母山のレプリカ
↑九十年代後半か、2000年代初頭のパンフレット
●大津祭はじめの曳山は地車?もともとは担ぎ屋台?? -西行桜狸山の変遷-
た。
大津祭の曳山の中で先頭を行くのが、西行桜狸山です。この曳山が大津祭の曳山の中で一番古いと伝わっており、それを伝える最も古い文献が寛永十二年(1635)「牽山由来覚書」(大津市指定文化財、西行桜狸山保存会蔵)です。
おおよその内容を編集発行・大津市歴史博物館『企画展 町人文化の華-大津祭』1996に書かれた書き下し文をもとに斜体字であげ、その下に興味深い点を指摘していきます。
①四宮(大津祭が行われる天孫神社の古称)の祭礼でしほ売治兵衛が狸の面を被り踊ると、見物人が集まり出した。
はじめは祭に踊りを踊ったのがきっかけのようです。
②次の年も集まったのでさらに次の年は「竹からミの家躰(やたい)を拵(こしら)へ、氏子の町かき歩申」ことになった。
「屋躰に木綿の幕をはり、鐘太鼓にてはやし」、治兵衛は、十年「狸の面を着て采をふり踊り氏子中担歩行」った。
好評につき家躰(やたい)をつくり、踊り手をのせて担歩く、つまり曳き車でなくはじめは担ぐものだったようです。幕で飾ったりもしていますが、必ずしも太鼓台のようなものではなく、鐘もあったことがうかがえます。また鐘太鼓ではやしているけど、乗って演奏していたのかまでは分かりません。
③治兵衛は年を取り踊ることができなくなるも、代わりを務めることができるものがいなくて、元和八年(1622)より、狸をつくり糸で腹鼓を打つからくりをつくって「舁き」歩いた
高齢により踊れなくなったのでカラクリに変わりますが、依然舁いていました。
④「今年(寛永十二年・1635)ゟ(より)地車を付子供衆ニ引せ」るようになって祭を賑わせるようになった。
やがて、「地車」をつけたとありますが、「だんじり」と読むよりも地面を転がる車として理解し、「ちしゃ、ぢぐるま、ちくるま、ぢしゃ」などと読むといいでしょう。では、この地車はどのようなものだったのでしょうか。
●大津祭の地車は現在の原型?
さて、先ほどの「地車」が現在の大津祭の曳山の直の原型と言いたくなる基準でしたが、どうやらその可能性はひくそうです。江戸時代よりの記録が記された『四宮祭礼牽山永代伝記』にはこう書かれています(前掲書『企画展 町人文化の華-大津祭-』参照)。
寛永十二乙亥年(1635)ゟ(より)地車を付子供等に牽せ氏子町々を渡し来り候処、同(寛永)十五年戊寅年(1638) ゟ(より)三ツ車を付けて、丸太材木をかり、祇園会鉾形ちの山を建、梶取手木遣を雇ひ毎年神事に牽渡
これを見ると地車をつけて子供(地元の青年団のようなものか)らに曳かせていたものから、三ッ車をつけた祇園会鉾形のものを木遣や梶取手を雇って祭にさんかするようになったことがわかります。
大津祭の「やたい」は踊り手を運ぶ移動式舞台、「地車」は踊り手やからくり人形を運ぶ車輪曳行式舞台を意味していることが分かります。ここまでは、おそらけ地元で曳行までできていたと思われます。
その二年後、三ッ車をつけた「祇園会鉾形の山」を梶取手、木遣を雇った時に地元完結の祭から京都祇園会のような雇われ人も発生する曳山の祭が生まれたと言えそうです。