保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

桜舞い散る姿に・・・舞いもどる記憶。

2009-04-15 23:12:01 | 船頭の目・・・雑感・雑記
桜の花びらが舞い散る季節。
潔さと儚さを観る人の心に映し、散っていく花びら。

散る桜の姿は、いつも幼い日の追憶へと私を誘い、
記憶の奥に仕舞い込んだ感情を甦らせてくれる。

今から33年前、私には3歳違いの妹がいた。
享年7歳、本当に短い生涯だった彼女。

子供離れしたすっきりした顔立ち、利発で早熟なところもあったが、
それでいていつも愛嬌を欠かさない女の子。
年の近い私とはいつも一緒に遊んでいた相棒だった。

そんな妹に悲劇は突然やってきた。
6歳へ後数ヶ月というある日。急激に体調が悪くなり、食欲もなくなっていく
彼女を心配した両親は、知り合いの医師の紹介で京都大学病院の診察を受けた。

その結果は・・・「脳腫瘍」

医師の口から出た言葉は「余命は半年…」との衝撃的な宣告だった。

私はその日のことを今でも鮮明に覚えている。

病院の検査を終え、家の布団で疲れて眠る妹の姿。隣の部屋で涙を流す母の姿。
親の泣き顔を見るのははじめてだった。
私はスヤスヤと眠る彼女の寝顔を見ながら「この子が死ぬ???」
にわかには信じられず現実の話とは思えなかった。
昨日までいつもと変わらず話をし、いつもの様に遊んでいたのだ。
今日「あと半年で死ぬ…」なんて言われても幼い私には簡単に受け入れられる
ことではない。
おそらく両親もそうだっと思うが「死」などという現実が、当時の私の世界に
存在することすら想像したことがなかったのだ。

ただ、母親の泣いている姿にその現実が紛れもない事実であることを
幼いながらも理解していった。

その夜、いつもの様に私は妹の隣で寝た。
なかなか寝付けなかった。「半年で彼女は死んで私の前からいなくなる・・・」
「明日からどんな顔をして彼女と接すればいいのか?」など、いろんな事が
頭をよぎり眠れなかった。
ふと目をやると隣で寝ている彼女の寝顔はいつもと変わらないのに・・・
そして無性に寂しさが込み上げて悲しくなった。涙が溢れてきてとまらなかった。

こんな歳で死ななければならない妹が可哀想過ぎた。

それから程なくして彼女は京都大学病院に入院し治療に専念することになった。
入院前に私に言った彼女の一言が忘れられない。「私、死ぬの?」
誰もが気付かれない様に細心の注意を払っていたが、本人はうっすらと自分の
運命を感じとっていたのかも知れない?

「何言っての、大丈夫、すぐに帰ってこれるって」子供だった私が言える
精一杯の励ましだった。

入院後、家族には厳しい決断が待っていた。
「手術をしないと3ヶ月、手術の成功率は20%と低い難しい手術。
幸い成功したとしても今までの娘さんではありません。」
担当医の言葉が両親の心を鋭く突き刺した。
当時、脳腫瘍の手術は頭蓋骨を切り取り、脳細胞に直接メスを入れるため、
神経が傷つき各機能に障害が残った。体の機能はもちろん思考能力についても
同様だ。
幼い女の子の人生にとってあまりにも厳しく辛い決断をしなくてはならなかった。
このまま何もせず天命に任すか?それとも少しの確率に賭け手術をするか?

『どのような姿になっても‘生きてさえ’いてくれればそれいい・・・』
両親は僅かな可能性に賭け手術をする決断をした。

「生きてさえいれば…」私が同じ立場でもそう決断するだろう。

手術当日。家族全員で祈る長い一日。幼い妹はよく頑張った。

そして手術は成功だった!
メスを入れるのに難しい箇所にあった腫瘍をきれいに摘出できた。
幼い私が生まれてはじめて味わう‘本当の喜び’だった。

手術室から帰ってきた彼女はそれまでの彼女ではなったが、そんなことは
どうでもよかった。
私のところに生きて戻ってきてくれただけで満足だった。

それから一年半、彼女と家族の壮絶な闘病生活が続く。
その中で『今日、お茶が飲めたよ』『立ち上がって歩けたよ』
『うどう玉を一つも食べられたよ』そんな当たり前のことが出来る事に
うれしくて、感激することがいっぱいある毎日だった。
心身は不自由だったが「生きてればこそ!」できることがうれしかった。
「今、生きている…」それだけでよかった。幸せだと感じられた。

そして小学校に入学する春を迎えた。

腫瘍の転移が見つかり入退院を繰り返す彼女には‘式’に出ることは
かなわなかった。
「春が来て桜が咲いたら1年生。赤のランドセル背負って学校へ行きたいな~」
よく彼女は私に話してくれた。私も学校のことをいろいろ話した。
「病気を治して早く行きたい!」そう言った彼女の瞳はキラキラと輝いていたのを覚えている。

結局、その願いは叶うことはなかった・・・

その春の穏やかなある日。家の縁側に座り、暖かい日差しを受けながら
日向ぼっこをする彼女を見つけた。彼女は何も言わず、ず~っと外の風景を
眺めていた。
私も隣に座り何も言わず同じ風景を眺めていた。

穏やかで静かな、ゆっくりとした時間がやさしく流れていた。

それから間もなく、彼女は再入院し二度と家に帰って来ることは無かった。


桜の花びらが散るように‘彼女’は逝った。
享年7歳。本当に短い生涯だった。

家族が見守る中、閉じたままの目をさらに「ぎゅっ」と強く瞑り返した時、
一滴の涙が彼女の頬をつたった、その瞬間、私の妹は静かに息をひき取った。

あの春の日は私たち兄妹にとって生涯忘れることのできないものとなり、
永遠の日となった。

今でも思うことがある。
あの暖かい春の日差しに包まれながら、彼女の小さな瞳には
何が映っていたのだろう?
その映る景色の中に何を感じ、何を思っていたのだろう・・・

あの日、あの時の穏やかでやさしい時間と彼女の‘面影’・・・私は忘れない。

満開の桜が咲く木の下で撮った古い写真、無邪気に笑う幼い兄妹の姿。

目をつぶれば、あの時の君が たしかにいる。




♪ 花びら舞い散る 記憶舞い戻る・・・ ♪
(ケツメイシ さくら)から。


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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いのちの大河を感じて (はっちん)
2009-04-17 02:21:57
Kさんへ。

自分の身近な人を亡くす、その寂しさ悲しさは本当は言葉では表現しきれる様なものではない分かっていますが、今の能力で、できる限り書き残しておきたいと思いました。

Kさんもご兄弟を亡くされるという同じ様な体験をなさったことは依然お聞きしました。
親がわが子を思うように、子供たちにも兄妹を思う気持ちがります。親も知らない、兄妹だけの想い出。兄妹だけの世界がありました。

自然をいつも眺めて暮らしていると「いのちが生まれ変わる」ということは当たり前の様に感じることがあります。
一年という短縮されたサイクルで「生と死」を繰り返す自然。
枯れるまでに必ず‘種’を残し、次の生へとつなげる。
そのには滔々として流れる‘いのちの大河’が広がってます。

生の終わりに死がやってくるのではなく、いのちは「古い着物」を脱ぎ捨てて「新しい着物」に着替えるが如く、生まれ変わり出変わりしながら無限に生き抜いていくものだと感じます。
そしていのちは時間の長短や空間の大小などという相対的な
事実をいうのではなく、‘今ここに生きている’という絶対的な真実のみ感じることができます。
この体験を肌で感じることができる・・・だから今も船頭をしていると思うことがあります。

「今、生きている」という事実は、こんなにも素晴らしく、充実した明るい希望に溢れた一瞬であることを、理論ではなく、自然の中で体験としてしっかり意識して生き抜いていきたと思います。
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自然から教わったこと。 (はっちん)
2009-04-17 01:41:03
安寿香さんへ。

暖かいコメントをいただきありがとうございました。

今回は私も書こうか書くまいか・・悩みました。
でも、保津川沿いに今年咲いた桜があまりにも美しく‘いのち’の躍動感に溢れていたので「書いて残しておきたい」という
思いが沸き、強い動機となりました。

「妹という幼くして逝った女の子のことを思い浮かべて下さる」というコメントを読ませて頂き感激し、また目頭を押さえました。
今は「書いてよかった」と思っております。
ありがとうございました。

桜は本当に不思議な花だと思います。
一夜で一気に咲き、可憐な花びらは鮮やかで豪華、あたりの風景はもちろん空気まで桜ひと色に染められていきます。
その可憐で清楚な花びらが舞い散っていく様にまで、儚い美しさで観る人の心に様々な感情を映していく。これほど包容力のある花はほかにはないですね。

このように感じれるのも、やはり幼い日の思い出が強く私の心に刻まれているからだと今にして思います。
「10年間、毎日一緒にいた人が永遠にいなくなる・・・」この幼い日の体験は私の人生にとって大きな影響があったと感じますが、自然を眺めていますと‘死は終局をではなく、いのちは永遠に生まれ変わり出変わりするものだと’ということを教えて貰った気がして、心が癒されます。

だからこそ私は「自然とともに生きる仕事」躊躇することなく
を選んだのかも知れません。

これからも自然を身体と心で感じながら、弛まなく滔々と流れる「‘いのち’の大河」に人生という名の舟を浮かべ生きてゆけたら幸せだと感じています。



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必ず逢えるⅡ ()
2009-04-17 01:22:45
投稿が長い為、後文がカットされましたので簡単に追伸します。

自分自身、文がまとまらず本当に申し訳ありません!いろいろと意見があると思いますが自分は信じたいです。
必ず逢える!
師範、感謝しております。ありがとう!
妹さんありがとうございます!
再度お詫び申し上げます、誤字に文が長く後半が失くなり文がまとまらず本当に申し訳ありません!お許し下さい!
返信する
必ず逢える! ()
2009-04-17 01:07:46
師範・押忍!
今年は本当に恥ずかしいながらよく泣きます!
師範はさすが新聞記者!本当に恐れ入ります!
自分は上手く表現出来ないが、お許し下さい!

師範に以前に妹さんの話しは聞きました。その日の夜は寝る時に泣きました。昨日寝る前にblogを読み又また泣きました!自分は生まれ前に兄が四歳で池に落ち亡くなったそうです、子供ながら遺影を見ていると自分かなあと思ってました。不思議に思ってました、師範に会うまでは、必ず生あるものは必ず死ぬ~しかしながら遅かれ早かれ必ず天国で逢えると思ってました。だから自分自身を慰め、言い聞かせていました、慌てては天国に行けないが必ず逢えるからそれまでは天国から見守って下さいと!しかし子供の時に兄の遺影を見て、ひょっとして自分自身と?わからなかったですが師範と熱く語った時、必ず又世の中に生まれ変わってくると!次はもっと元気な身体で!兄が自分自身で弟〔胃がんで38歳で亡くなる〕は最近、姪に生まれた男の子供でわと!あまりにもそっくりで父母もびっくりしました!
最近自分と一番縁のある人が亡くなってたという事を聞きました。最大のショツクで落ち込みました!結局49年間 会わずに夢は消えました、先程の必ず生まれ変わるから安心と~その
返信する
親子の愛、そして絆 (はっちん)
2009-04-17 00:46:07
ささやんさんへ。

親として子供に先立たれる悲しさ、つらさは想像するにあまりあります。幼いながらも両親の姿を見てそう思いました。
ささやんさんのご両親様もきっと、お子様と過ごされた日々の
思い出を忘れず大切になさっていることと思います。

妹が入院していた病院の小児病棟では、同じように‘病’と
闘っている子供達が入院しておられましたが‘今日、生きている’という喜びに溢れていたのを覚えています。
その姿に親御さんたちはどれほど救われたことでしょう。
「死に行く者が、生きていく者へ‘希望’という‘愛情’を掛けて死んでいく・・・」それが重症の枕もとで展開する世界です。

私もまだ小さかった子供でしたが、親と子の強い‘絆’を
教えてもらいました。
その両親を思いを、今、親になった自分がしっかりわが子に注ぎ、愛情溢れる強い‘絆’を作っていかねばと思っています。

天国というところがあるなら、妹はきっと赤いランドセルを背負って、天使達の学校へ通っていると思います。

「お兄ちゃん、何書いているの~」と無邪気につっこみを入れていたりして・・・
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悩みましたが、思い切ってコメントを書きました。 (安寿香)
2009-04-16 22:37:42
同じく娘を持つ身としては、涙なくしては読めませんでした。
はっちんさんのブログを拝見していると、生き生きとした躍動感溢れる文章を書かれる反面、憂いを含んだ独特の死生観を持った文章を書かれるので、今までとても興味深く感じていました。まさか、こんな大変な経験をされてるとは知らずに…。10歳で現実を受け入れるのは、過酷過ぎたのでは…とお察しします。ご両親の悲しみは、言葉では表せないでしょう。
今までは、ただ単純に桜の美しさを楽しでいましたが、これからは、桜の時期が来たら、一人の可愛らしい女の子がいらっしゃった事を、思い浮かべたいなぁ~と思います。
妹さんのご冥福をお祈り申し上げます。
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こんばんわ (ささやん)
2009-04-16 21:51:56
妹さん、お気の毒でしたね~
きっと天国から妹さんがこのブログを読まれてますよ~

実は私も似たようなことでして私の場合は3歳ほど違う兄が居たのですが病気で僅か3歳で亡くなりました、多分兄が亡くなった時の両親ははっちんさんが書かれてるような気持ちだったと思われます
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