創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

NHKラジオ『古典講読』

2016-11-27 13:44:02 | エッセイ
NHKラジオ『古典講読』
「むかし語りへのいざない~宇治拾遺物語~」
を聴いています。
録音は前に紹介した「ラジオレコーダー YVR-R410L」

ネットラジオレコーダー4
の二本立てです。
ふと、作者と言われる宇治大納言が物語を書くに至った契機を小説風に書いてみようと思いました。
下書きを書き終えた頃、平成28年11月26日(土)の放送で、
芥川龍之介も「竜」という小説のイントロダクションで書いているのを知り驚きました。
大家も町の小説家も同じところに目をつけたのはちょっと嬉しい。
中身は全然違いますけれども。
気を取り直して、次回に発表!
To be continued 





母系制の島

2016-11-20 10:18:40 | エッセイ
先日母系制の島(キリウィナ諸島)について書きました。
昔その島では、男は妊娠とは無関係と考えられていたと読んだことがあります。
だから、もともと父系はなかった。
男は働くだけ。一夫多妻とも。
ふうん、それもいいかもしれない。

そっくり

2016-11-17 10:14:44 | エッセイ
そっくり
私の父母は二人とも亡くなっています。
歳をとるにつれ、父母のことを思い出す頻度が増えました。
話は変わりますが、母系制の島(キリウィナ諸島)があるそうです。
母方の血筋が最優先する社会制度だそうです。
確信のない父系よりその方が確かですよね。
落語にもこんなのがありました。うろ覚えですけれど。
七人の子共のうち、三番目の与太郎はどうも俺に似てへん。
頭は悪いし、いつも鼻を垂らしてやがる。日頃から疑っていたやさき、女房が交通事故に、
今際の際に、思い切って女房に聞きます。
「頼む教えてくれ! 与太郎は俺の子か」
「なにを言うてんのんあんた。あの子だけはあんたの子やで」
確かに、父親はDNA鑑定でもしない限り確証はないわけですね。
しかし、ある歳になると、父親は自分の体のいたるところに現れてきます。そうして、呟くことになります。
「そっくりやなあ」

言葉探し

2016-11-02 09:33:37 | エッセイ
「失われた言葉の断片」はかなり好意的に読まれた。
話の展開に引き込まれたという嬉しい感想も戴いた。
ただ、最後の「この男に抱かれてもいいとさえ思った。」の言葉に違和感を覚えた読者が多かった。
推敲では、「この男に抱かれてもいいとさえ思った。私は淋しかった。悲しかった」と言葉を追加した。それからまた言葉探しをしている。
昨晩「助ける」という言葉が浮かんだ。
何度も頭の中で繰り返した。
案の定眠れなかった。
「この男に抱かれてもいいとさえ思った。」→「私はこの男を助けたいと思った。」
とした。文章の場所も変えた。
有賀の腕から血がにじんでいた。彼は気にならないようだ。痛覚もないのか。私はこの男を助けたいと思った
確かに、作者の思うところはぐっと近くなった。
私の中でこの小説はなかなか終わらない。



母の俳句

2016-10-31 10:25:11 | エッセイ
俳句とは何だろうと、ここひと月ほど考えている。
俳句人口は500万人とも1000万人ともいわれているらしい。
毎日何十万という俳句が詠まれ、消えていく。
5,7,5というデジカメで写しまくれば、写生という俳句になる。プロが添削すれば一句完成する。
そして、驚くべき事に一句たりとも同じ俳句はできない。
そんなことをあれこれ考えているうちに母を思い出した。
「どうや?」
母は小首を傾げて眩しそうに僕を見ている。
小首を傾げるのも眩しそうに人の顔を見るのも母の癖だが、その時は決まって不安そうな表情がプラスされている。
母の差し出した日記には下手な字で俳句が書いてある。
「褒めなくては」、「間違っても貶してはいけない」。僕も少し緊張する。
「ええんちやう」
僕の一言で一瞬にして緊張がほどける。
それから堰を切ったように自句自解が始まる。
僕は時々頷きながら半ば義務のように聞いていた。
それは母が亡くなる2008年まで続いた。
今思えば、俳句が母と子をつないでいた幸せな時間だった。
俳句とは人と人をつなぐものではないかと思った。凡句であっても名句であっても関係がない。
一瞬に消える凡句であっても、後世に残る名句であっても俳句の『5,7,5』は人と人をつなぐ。
久しぶりに母の俳句を読んでみた。
山小屋も孫達の聲夏休み
母の声が聞こえる。川の音が聞こえる。そこに集う孫たちの声も。
寺山修司は「「短歌は音楽だけど俳句は呼吸だと思う」と言っていた。
まさしくこの俳句は母の呼吸である。


何故に自分は斯く在るのか?

2016-09-27 16:01:44 | エッセイ
「終わりし道の標に・安倍公房著」には、
1948年の真善美社版と、1965年に同作者によって推敲された冬樹社版の二種類がある。
二作品を読んでみた。
冬樹社版では「亡き友金山時夫に」が「亡き友に」になっている。
固有名詞が消えている。
テーマを固有名詞で括るのをよしとしなかったのだろうか。
それとも固有名詞を出すのに何らかの差し障りが在ったのかも知れない。
冬樹社版では観念的な表現を平易な文章に改稿している。 
安倍公房は中国の東北部「満州国」で生まれたという。
日本がつくりあげた傀儡国家である。日本の敗戦と共に消滅する。
彼は、15年間殆どこの地で過ごす。いわば故郷である。
八路軍(中国共産党)、関東軍(日本陸軍)、国民党(蔣介石)が入り乱れた故郷である。
「何故に人間は斯く在らねばならぬのか?」の本作品のテーマは、当時の情勢と通底しているように思う。
戦争を知らない、団塊世代下層を逃げ回り、のほほんと生きてきた僕には作者のような故郷はない。
「何故に自分は斯く在るのか?」という疑問だけを引きずっている。
何故に自分は斯く在らねばならぬのか?……。
中学校の校庭の隅に、4、5人の男子が集まっていた。
Aは米屋の息子で、背が高く勉強も出来たし腕っ節も強かった。
Bは「大鵬」というあだ名で巨体だった。いつもニコニコしていた。
その間に背の低い僕と博士と言われる物知りの分厚い眼鏡のCがいた。
「へその下やと思うねん」
Cが言った。
「そこから生まれるんか」
AがCの顔を覗き込むようにして言った。
「へぇ」
と言って、Bはニヤニヤ笑った。
僕には、見当がつかなかった。
ただ、その時は、
父ちゃんの○○○が絡んでいるとは全員知らなかった。
こうした因果で僕らは生まれた。そして、孫まで生まれた。
だが、今まで生きてきた70年のどこからが自分なのか。どこに自分がいるのか。
考えれば考えるほど分からない。
「何故に自分は斯く在るのか?」



9月13日

2016-09-14 13:56:54 | エッセイ
今年の9月13日も何事もなく過ぎた。
半世紀以上も前の9月13日、私は交通事故に遭った。
自転車で道路を横切り、単車と衝突した瞬間、自分が考えた事を今もはっきり覚えている。
「行け!」と頭の中の僕が言った。
「大丈夫だよ。衝突なんかしないよ。突き抜けたらいつもの生活があるよ。行け!」。
次の瞬間全てが弾けた。
ふらふらと立ち上がり、小型 三輪トラックの荷台に上った。
ベッドによじ登ると、「この子焦ってるわ」と看護婦が笑った。
「助かりまっしゃろか」。闇の中で父の声がした。「そんなことわからへん」医者が怒鳴った。
「命は?」。兄の声がした。
「それはこのぼんしだいやな」医者が言った。
意識が戻ると、知らないおばさんがいた。
商売が忙しかったから、付き添いを雇ったのだった。
小便の後に、ちり紙で性器を拭いてくれた。奇妙な感触だった。
音痴な僕には、嫌で嫌で仕方がなかった音楽の独唱のテストが迫っていた。
それを逃れられたのが。まず、嬉しかった。
9月13日になると、決まってこのことを思い出す。
「命日」だと人にも言う。
あれは一種の自殺ではなかったかと思うこともある。

大野寺の磨崖仏

2016-09-13 16:37:12 | エッセイ
50年以上の前、父の鮎釣につき合った時の思い出です。
家は大阪の駄菓子問屋で、番頭さんや丁稚どんなどの住み込みの店員が四、五人いました。
三男坊の私は大勢の同居人に紛れて目立たない子供でした。店主である父ともほとんど話をしたことがありません。
だから突然、「弘務、鮎釣にいかへんか」と言われた時はびっくりしました。
次の日、まだ暗い夏の朝、二人はでかけました。何も喋らず黙々と目的地に向かいました。
鶴橋で近鉄線に乗り換えて、着いた駅は室口大野。
父からつかず離れずついていきました。
川に着くと、早速父は友釣りを始め、わたしは河原で遊んでいました。
父から少し離れて、河原を飛び歩くと、巨大な岩に彫られた仏像に出会いました。
「えらいもん見つけた! ほかにもあるんちゃうか。探検や」
 と探しましたが、あるわけがなく、父のそばに帰って、
「えらいもんあったで」
 と言いましたが、聞こえていないのか、釣りに夢中で振り返りもしませんでした。
もう一度、磨崖仏を仰ぎ見ました。
「仏さんや。すごいなあ。誰が彫ったんやろ」
川から上がって帰り道に小さな食堂に入りました。
私はラムネを飲んだかなあ。
「何が釣れたん」
 店の人が聞きました。
「鮎でんねん」
 父が答えました。
「鮎がおるんけ。何処で釣ったん」
「下の川」
「へえ、鮎やて」
 何人か寄ってきて、びくの中を見てびっくりしてました。
 みんな口々になんやかやと言っている。不思議にこの光景は鮮明に覚えています。
父は地元の人も知らない魚を釣ったらしい。
家に帰って、磨崖仏のことをみんなに喋りましたが、誰も興味を示さず、
「三男のぼんがなんか言うてる」と無視。
最後には、磨崖仏は通閣の高さになっていました。
それからもう一度父とつき合いましたが、三度目は断りました。
父は一人では行かなかったと思います。
父と二人だけの思い出は、ほんの二つ三つ。
その一つに地元の人も知らなかった鮎釣と巨大な磨崖仏があります。


老人になると毎日が戦いである。

2016-09-01 13:50:08 | エッセイ
老人になると毎日が戦いである。
便秘が続けば大腸癌を疑い。
胸がちくちくすれば心筋梗塞、
ふらつけば脳卒中、
胃が痛ければ胃がん、
血圧、血糖値も気になる。
何もなければ、目をつむり体のどこかに異常がないか神経を研ぎ澄ます。
ふと気づく。指がしびれている。目が少し変だ。
やっと一日終わり、
糖質0のチューハイレモンと糖質0のビールを飲む。
計200円以下の晩酌。
寝床を作り、横になる。
睡眠導入剤を飲む。
一日生きられた。
明日目覚めるだろうか?
こんなので生きていると言えるだろうか?
ともかく、明日があれば、明日も戦え。