創作日記&作品集

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補厳寺(ふがんじ)参る 虎1

2013-07-28 15:59:45 | 創作日記
お待たせしました。新連載小説です。誰も、待っていない……。とにかく始まります。

補厳寺(ふがんじ)参る 
虎1


多数のコマーシャルメールに紛れるように、「補厳寺参る」という:件名のメールがあった。僕はメールをクリックした。本文は「補厳寺(ふがんじ)参る。八月五日、午後八時より」とある。
補厳寺は川沿いに細い道を辿り、団地から離れること二町ほどの荒れ果てた寺だ。朝のウォーキングで通ることがあるが、入ったことはない。寺は門と鐘楼しかない。中に、庫裏があるらしいが、人の気配はない。一度中に入ろうとして、隣家の犬に吠えられた。それっきり入ろうとも思わない。世阿弥のゆかりの寺だという説明の札があったが、自分は能は門外漢である。寺の前に子供公園がある。妙にリアルな虎とリスの乗り物が二つあって、ジャングルジムと鉄棒、滑り台がある。しかし、子供の姿を見かけたことはない。



七月の終わり、門前を掃く老婦人に声をかけた。彼女は、寺の隣に住む人で、寺の世話をしている。檀家だと言うだけで、特別の縁はなさそうである。話の内容は、寺には誰もいない。本堂もない。夏は草が茂って、大変だと歎いた。八月八日は世阿弥の命日で、昼から参る人がいるらしい。
「門は開くのですか」
 僕は聞いた。
「いいや、開かないよ」
「僕なんかが来てもいいですか」
「いいよ、誰が来ても」
老婦人は答えた。

二回目のメールが来た。「補厳寺参る。八月五日、午後八時より。虎を追い出します」。虎……。少し興味がわいた。何のことだろう。行かなければ永遠に分からない。それはいやだなあ。妻は詩吟の練習で九時まで帰らない。
「ひょっとしたら出かけるかもしれない」
と僕は妻に言った。
「そんな夜中にどこへ行くの」
と妻は聞いた。僕はメールのことを話した。
「団地から外は真っ暗だよ」
と妻は言った。
「たしかに」
と僕は言った。
妻は、押し入れの中から、懐中電灯を取り出した。
「これで、完璧。でも、川に落ちたらいやよ。あなたは泳げないから」。
「気をつける。でも、行かないかも」。
僕は言った。
「多分あなたは行くわ。強迫神経症だから。でも、虎が飛び出してきたら、逃げるのよ。噛まれないでね」
妻は笑いながら言った。
その夜は闇夜だった。団地から出ると、鼻をつままれても分からない闇になった。懐中電灯のスィッチをさぐっていると、身の前がぽっと明るくなった。前を行くのは提灯だった。懐中電灯もいらないほど明るい。GPSより頼りになる。浴衣の裾を端折った年配の男が、僕の足もとを照らすように歩いている。
「暑いこっです。補厳寺の寺男で、和助って言いやす」
男は言った。川の音以外何も聞こえない。男は僕の歩く速さに合わせてくれている。
「虎を追い出しますって?」
僕は聞いた。
「屏風の虎を追い出して、捕まえるのです」
男は答えた。何のことか分からないが、黙って歩くことにした。川面を渡ってくる風が以外に涼しい。もう少し歩くと、二つ目の橋がある。橋を渡りきったところにある地蔵に蝋燭が燃えていた。三つある橋のそばには決まって地蔵があった。地蔵に手を合わせて、庄屋道の石畳に歩を進めた。やがて、子供公園に至る。ほんの10分ほどしか歩いていないのに、ずいぶん遠くへやって来たような気になった。
庄屋道の石畳を行くと、子供公園がある。しじまに沈んでいる。虎とリスの人形の気配を感じる。提灯の明かりが人形に当たった時、二匹は僕たちの方を振り向いたように思った。

その奥が補厳寺だ。