ひょんなことからブログを始めることになったけれど、年に1度の年賀状だけのやりとりで病気のことを伝えている友人知人に対する私の生存確認のため、ということと、今はまだ読めないかもしれないけれど、手書きのメモよりもこういう形で読みやすく残しておけば、私がいなくなった後に、成長した息子が母はあの時どうしていたのか、何を考えて生きていたのか、ということを知りたいと思った時のために、何か残しておいてやりたい、という想いがあった。
もともとあけぼの会の治療日記がスタートなので、治療のことが中心になっている。とりあえず治療に行った日の忘備録であるのだが、治療オンリーの記載になってしまうとどうしても内容が重くなってしまうし、自分としても息苦しくなってしまう。そして当然ながら毎日24時間ずっと患者としてだけ生活しているわけではないから、その時々の読書や、季節を感じるちょっとした小さな幸せも大切に入れこんで、程よく風通しを良くしたいと思っていた。ただ、よくありがちな「私生活の垂れ流し」にはならないように、と心してはいる。当然私の職業は物書きでもないし、ただの、ごく普通の、40代の女性なので、内容が稚拙なことは否めないけれど。
もちろん読んでくださっている方にはいろいろな方がいらっしゃるのだから、その方にとって必要でない、面白くない、と思われる部分は読み飛ばして頂いて、全くかまわない。言うまでもなくブログとは、そういう性質のものだと思っている。私も何人かの方のブログを「お気に入り」に登録しているが、当然のことながらそういう読み方をしている。ただ自分にとってこのブログは記録であるので、自分が書きたいことを書きたいように書いていく自由は当然ある、と考えている。適当に書きちらす、といういい加減な気持ちは、ない。そして開始以降ずっと「コメントは受付ない」設定をしているのも、それを受け付ければ当然嬉しくない書き込みも多々あるだろうし、それを気にすれば、自分が本当に書きたいことが書けなくなるだろうし、それでは本末転倒だ、と考えるからだ。
メールだと相手に対して読むことを強要するが、ブログはそうではない、と思う。電話と手紙、の関係にも少し似ているかもしれない。もちろんメールは受取拒否設定をすることも出来るし、読まずに捨て置くことも出来るから、相手の都合を考えずに鳴る電話ほどは暴力的ではないけれど、それでも手紙とも違って、書いて、折りたたんで、封筒に入れて、相手を思いながら宛先を書いて封をして、切手を準備して、ポストに投函する、という一連の手続きがない。
メールの、ろくに読み返しもせずにただ送信ボタンを押しさえすれば、すぐにリアルタイムで相手に送れてしまう、という手軽さ。もちろんこれが便利なのだが、同時に、怖い。何かメールを受け付けるとすぐに返事をしなければならないような脅迫観念に襲われるのは私だけだろうか。常にPCに張り付いていてメールが来たらそれにすぐさま返事を書く、しかもきちんと読み直しもしないで、思ったことを書き散らして勢いで送信・・・、というのはとても怖いことだ、と思う。
ブログは読みたい方が読みたいときに読みたい部分だけ読めるから、強要するものではない。数多くの友人知人個人個人に対してメールで病気の治療のような超プライベートなことを、いちいち細かい話まで延々とするのは忙しい相手の立場を考えれば、どう考えても迷惑だろうと思う。ただ、最初に書いたように私のことを心配してくれている友人知人に対して、今、私がどうしているか、ある程度知っておいてほしい、今後、不義理を重ねることになったおりにも状況をわかって頂いていれば、少しはお詫びになるだろうと考えていることもあり、ブログのアドレスだけは何人かにはお知らせしている。
たまたま会のホームページからのリンクでブログを見つけて頂いた方で、その後も追ってくださっている方がどのくらいいらっしゃるかわからないけれど、アクセス数を見るとそれなりの数がカウントされている。こうした乳がんを含むがんの闘病記のブログは本当に数多い。毎日のようにブログ数が増えているので、やはりみな自分のことを書いておきたいのだな、と思う。