ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2009.12.1 ハーセプチン70回目、ゾメタ28回目

2009-12-01 20:11:02 | 治療日記
 今日から12月。月初めの採血。40人以上待ちで40分程待ち、その後内科へ。結果が出るまで小一時間待ち、中待合へ。「寒くなってきて痺れませんか」と聞いて頂いたけれど、去年の末から今年の前半まで出ていたタキソテールの副作用での手足の痺れは殆どなくなっており、こわばりほど気にならないとお返事。採血結果は白血球があいかわらず低めの3400。ここのところ2000台から3000台で落ち着いている。腫瘍マーカーとホルモン状況の結果は次回。今日は予定通りハーセプチンとゾメタのフルコース。薬が届いて点滴が始まったのがお昼過ぎ。看護師さんに一昨日無事インフルエンザ注射を済ませたことをお話する。院内の看護師さんたちは順番で、まだの方もいるとのこと。「こんな大きい病院より小さなクリニックの方が早いのは不思議ですね」とお話した。
 
 たっぷり時間があったので、今日も2冊読めた。1冊目は本田和子さんの「それでも子どもは減っていく」(ちくま新書)。ちょうど今から15年前になるが、職場の研修で半年間スウェーデン、イギリス、フランスに滞在する機会があった。テーマは少子化問題。夫を日本に残して自分で住居から何から手配して、の強行だった。当時は合計特殊出生率が1.57になったという、いわゆる1.57ショック後の施策を模索していた頃で、子ども施策に関する世論調査を担当していた。帰国後まもなく、結婚して6年目に遅ればせながら息子を授かった(当時から寄り道が得意だった息子である。)。それを機に、職住近接だがそれまでとは全く異分野の職場に異動させて頂いた事もあり、研修成果を何らかの形でお返しすることができず、かつての職場には足を向けて眠れない私である。思えば、大学時代も卒論のテーマは高齢化で、どうもこの手の問題にはずっと気になっていることもあり、また、少子化というテーマに惹かれ手に取った。
先日も山田昌弘さんの『少子社会日本』を読んだのだが、働く女性への出産奨励施策から出生率低下を必然とした施策へ、当然ながら状況は変わってきているのだ、と思う。「費用対効果という経済的視点で見たときに子育てほど非効率的で割に合わないものはない、《教育者とはその実りを自身の手で刈り取ることができないもののことである》という言葉は子どもの親となる人にも該当する言葉だろう。」というくだりには納得し、「わが子」を計る基準にも経済性が入り込んでいるのではないか、という指摘には下を向かざるを得なかった。
 2冊目は大崎善生さんの「優しい子よ」(ポプラ文庫)。「十歳の少年が教えてくれた本当の『優しさ』ってのは、凄いんだ。」という帯だったが、息子より1つ上の学年の茂樹君の手紙に途中何度も涙をぬぐい、病気になったのが息子でなく自分で、本当によかった、と思った。筆者の奥様は女流棋士の高橋和さん。あのチャーミングな笑顔の彼女が4歳のときにトラックにはねられた事故で何度も大手術を繰り返していらした、とは全く知らなかった。そして私と同じ6月17日生まれ、ということにも驚いた。

 さて、去年の11月末からの入院話の続きである。
大部屋のベッドがひとつだけ空いていたので、何とか即入院できた。ナースステーションの向かいの6人部屋の一番手前のベッドで、ヨロヨロしながらパジャマに着替えて培養検査等もろもろの検査。点滴が24時間延々と続き、熱で朦朧として殆ど眠れない。
このとき生まれて初めてリアルに自分の葬儀の夢を見た。夢、というより本当にカラーで夫や息子が泣いている様子もありありとわかり、参列してくれる方たちの顔もわかって驚いた。それもとろとろと眠るたびに続きを見た。毎晩ろくに眠れず夜中まで起きているし、熱も高いため頭痛がひどく、頭痛薬もなかなか効かず、何日目かに催眠剤をもらった。ようやく眠れ、その後少しずつ気分も上向きになってきた。

好中球減少下での感染症による発熱だから生ものは当然禁止だったが、もちろん食欲は全くなく、ろくに動けず、廊下の向い側にあるトイレに点滴台を引きずって行くだけの数日間だった。点滴だけが栄養源。それでも口からものが食べられないと、本当に力が出ない、ということを実感した。
同室の方たちの生活騒音やお見舞いの方たちとの声にもとてもナーバスになり、辛かった。何もできなかったので、歌を詠んでいた。歌といってもただ五七五七七に語呂合わせするだけ。それでも今までのこと、口には出せない気持ち等を天井を見て詠むだけで少し気分転換になった。

後半の3日間だけようやく個室が空いて、大部屋から移動できた。嬉しかった。その頃には既にもう脱毛が始まっており、枕には髪の毛がどんどん張り付くようになった。夫にコロコロクリーナーを買ってきてもらった。帽子やバンダナを用意していたけれど、取り除いても取り除いてもこれでもか、というほど抜け続けて洗面所の床があっという間に黒くなった。発熱して以来ずっと入浴できなかったので、頭がかゆくてたまらず、看護師さんに「何とか熱が下がったらシャンプーを手伝ってほしい」とお願いして「時間が空いたときにね」と言ってもらい、ずっと楽しみにしていたが、やはりまた熱が上がったり、と不安定で、先生から退院してから、とストップがかかった。

退院の日、そもそも私は髪が多いので、これだけ抜けても地肌が見えているわけではなく、髪の毛はまだ普通の人並にあったけれど、びっくりしたのは帰宅後、鏡の前でちょっと前髪をあげようとしたら、芝生の植え込みのように、もうただ乗っかっているだけの髪がごっそりはがれ、額の先に地肌が見えて、絶句して髪の塊をもとに戻した。思わず自分で「ゾンビみたい・・・。」と言っていた。覚悟はしていたけれど、本当にむごい抜け方だった。

その後、何より先にしたのは入浴。10日ぶりに入浴して洗髪したら、髪の毛が抜けて抜けて、排水口にヘアピースが複数出来るほどになった。これではもう何もかぶらず外には出歩けない、という状態だった。入院前に予約していたかつらの受領日は、入院中だったためキャンセルせざるを得なかったので、再度予約をし直して、目深に帽子をかぶって、夫同伴でタクシーで出かけた。かつらあわせの前に「もうばっさり切ってもらっていいです。」とお願いしたけれど、くしで髪をすくたびにどんどん髪がなくなって、とうとうまばらなはげ頭の自分が鏡の前にいた。不思議と涙は出なかった。それでもとにかくかつらをかぶれば外に出られた。こんな思いをしてしまうと、やっぱり「髪が抜けたら帽子をかぶればいいじゃない。」とはとても言えない(し、・・・言ってほしくない)。

俳優さんや女優さんが役のために自分で髪を丸めるのと、病気の副作用で髪が抜けるのは全く違う。まず目の力が違うし、眉毛やまつげも抜けてうすくぼーっとなるので、顔全体がぼーっとなる。眉毛やまつげが抜けると本当に人相が変わるのだ。

6月に「あけぼの会」に入会してすぐに会のホームページにエッセイを書く機会が与えられ、それがきっかけで思いもよらずこうしてブログを開設してから早くも1ヶ月が過ぎた。
ふと、思う。今年度末で勤続25年間、と一口に言うけれど四半世紀。生まれたばかりの子どもが大学を卒業して新人として3年働く時間に相当する。これまでに人事異動は12回、平均しておよそ2年ごとに新しい仕事をしてきた。上に書いたように半年間研修に行かせて頂いたこともあった。育児休業はとらなかったまでも、もちろん産休の間は休んだし、育児時間も取得できるときは取得させてもらったけれど、それでも働くことは当たり前、結婚で辞めるとか出産で辞める、という選択肢は私にはなく、ずっと仕事を精一杯やってきたつもりだった。もちろん就職したときも雇用機会均等法の施行1年前だったから、民間企業で太く短く、ではなく細く長く定年まで働きたい、ということで公務員という仕事を選んだ。

それなのに結局のところ、病気になってからのほぼ5年間の方が自分にとって濃い時間だったのか、ということを認めるのはとても微妙な気持ちだ。これまでの5年間、それから今後のことについて、自分としても驚くばかりなのだが、書いても書いても書きたいことが湧いて出てくる。
もちろん仕事のことに関しては守秘義務がある。また、自分がこれまでしてきた仕事は、記名入りで人に伝えていく、という性格のものではないのだから、私がたとえググってみても自分の名前が仕事関係でヒットすることは、ない。比べる方が間違いなのだ、ということはよくわかっているけれど、片や技術屋の夫は仕事の上で名前がヒットする。私の名前がヒットするのはわずか2ヶ月の間掲載して頂いた「あけぼの会」のエッセイのみである。土俵が違うので張り合おうという気はさらさらないけれど、20代から40代の25年間の重み、仕事で自分は何が残せたのか、を考えると、やはり一抹の寂しさがある。

コメント
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