今日は伯父の三回忌の法要があった。とても暖かい春の日で、バスと電車とこれまたバスを乗り継いで到着した霊園の白梅紅梅がそれは綺麗なピンクのグラデーションを描いており、青空に映えてとても美しかった。
昨年の一周忌は、タキソテールの副作用で浮腫みが酷く、あまり長時間歩けなかったし、容貌が気になって気持ちの余裕もなく、私は欠席して夫に出席してもらった。息子は春のスキー教室に行っていたため、連れて行けなかった。
その伯父の連れ合いである伯母は母と同い年。去年1月から、パーキンソン病と認知症が進行して自宅での介護が難しくなり、今では墓地に近い有料老人ホームに入っているという。
今年こそ3人で出席できれば良かったのに、息子の学年末試験が終わったと同時に、一昨日夜から夫と息子は「上野~金沢最後の寝台特急 さよなら!ブルートレイン『北陸号』雪吊り兼六園と世界遺産・白川郷 加賀料理や旬の寒ブリも堪能!3日間」という旅行中だ。
伯父が急逝したのは一昨年の4月2日、ちょうど桜が咲き始めた頃だった。
伯父は母の兄で、私の父と同い年。半世紀以上杉並で歯科医院を開いていた。私も子どもの頃から就職して間もない頃まで面倒をみてもらっていた。「90歳までは生きたいな。あと5年は歯医者も続けていく。3日に通院するときにお花見ができる。」と亡くなる前日に、私の従姉(伯父の娘)に言っていた矢先のことだったようだ。
亡くなった日も私の母の姉(伯母)の治療をして、片付けのため自宅の階段を上ったところ、そこで倒れたそうだ。下宿している大学生の孫(従姉の息子)が気づいてすぐに病院に搬送したけれど、すでに心肺停止状態で、蘇生措置の効果なく急性心筋梗塞により死亡が確認されたという。
文字通り“生涯現役”の一生だった。
従姉弟たちはあまりにも突然の伯父の死による廃業届やなんやかんやで、それは大変だったと話を聞いた。
また、定年とともにすっかり社会との関係を断ち切ってしまったような同い年の父にとって、自分よりずっと元気に現役で働き続けていた伯父の急逝は相当ショックだったようで、母いわく“なんだか長いことしょぼくれていた”そうだ。
当時、私は再発治療が始まったばかりで、息子の卒業・入学やら、自分の職場の異動も重なって精神的にも肉体的にも余裕がなかった。母が気を利かして、伯父の急逝が私には伏せられており、「実は・・・」と聞かされたのは初七日も終わり、もろもろのことが一段落してからだった。
その後5月の連休に納骨式があり、夫と2人で出席した。この時息子は部活の新入生歓迎旅行で欠席だった。
あっという間に代替わりして、娘、息子の役割だけを演じていればよかった私たちの代が40代、50代を迎え、こうした冠婚葬祭を仕切ることになった。夏休みやお正月に従姉妹たちと遊んでいたのが実に遠い昔になってしまった。
伯父伯母とも息子が誕生してお祝いして頂いた後は、年賀状のやりとりだけで、殆どご無沙汰になっていた。
両親を含め親戚と再会したのも前回の納骨式以来、実に2年近く経っている。
父母とも末っ子なので、今や伯父伯母を見回しても夫婦そろって健在なのは我が家と父方の伯父伯母一組だけだ。こうして親の老いと思春期の息子の子育てを同時並行で経験していくにつけ、今、私ができる娘としての唯一の親孝行はやはり両親より1日も長く生きることだ、と心に刻んだ。
法事後の会食は、奇しくも30年も前に母方の祖母の喜寿の祝いをした場所だった。6,500坪もあるという敷地に点々と50近くの庵。水車を前に照れくさそうに微笑んでいた祖母の写真が、ずっと実家に飾ってあったのでなんとなく覚えていたのだが、やはり随分進化して、かつては野趣溢れる感じだったものがより洗練されていて、不思議な気分になった。
奥には水芭蕉庭園があり、まだ先日の雪が残る中、満開の水芭蕉を散策しつつ心豊かに帰宅した。
昨年の一周忌は、タキソテールの副作用で浮腫みが酷く、あまり長時間歩けなかったし、容貌が気になって気持ちの余裕もなく、私は欠席して夫に出席してもらった。息子は春のスキー教室に行っていたため、連れて行けなかった。
その伯父の連れ合いである伯母は母と同い年。去年1月から、パーキンソン病と認知症が進行して自宅での介護が難しくなり、今では墓地に近い有料老人ホームに入っているという。
今年こそ3人で出席できれば良かったのに、息子の学年末試験が終わったと同時に、一昨日夜から夫と息子は「上野~金沢最後の寝台特急 さよなら!ブルートレイン『北陸号』雪吊り兼六園と世界遺産・白川郷 加賀料理や旬の寒ブリも堪能!3日間」という旅行中だ。
伯父が急逝したのは一昨年の4月2日、ちょうど桜が咲き始めた頃だった。
伯父は母の兄で、私の父と同い年。半世紀以上杉並で歯科医院を開いていた。私も子どもの頃から就職して間もない頃まで面倒をみてもらっていた。「90歳までは生きたいな。あと5年は歯医者も続けていく。3日に通院するときにお花見ができる。」と亡くなる前日に、私の従姉(伯父の娘)に言っていた矢先のことだったようだ。
亡くなった日も私の母の姉(伯母)の治療をして、片付けのため自宅の階段を上ったところ、そこで倒れたそうだ。下宿している大学生の孫(従姉の息子)が気づいてすぐに病院に搬送したけれど、すでに心肺停止状態で、蘇生措置の効果なく急性心筋梗塞により死亡が確認されたという。
文字通り“生涯現役”の一生だった。
従姉弟たちはあまりにも突然の伯父の死による廃業届やなんやかんやで、それは大変だったと話を聞いた。
また、定年とともにすっかり社会との関係を断ち切ってしまったような同い年の父にとって、自分よりずっと元気に現役で働き続けていた伯父の急逝は相当ショックだったようで、母いわく“なんだか長いことしょぼくれていた”そうだ。
当時、私は再発治療が始まったばかりで、息子の卒業・入学やら、自分の職場の異動も重なって精神的にも肉体的にも余裕がなかった。母が気を利かして、伯父の急逝が私には伏せられており、「実は・・・」と聞かされたのは初七日も終わり、もろもろのことが一段落してからだった。
その後5月の連休に納骨式があり、夫と2人で出席した。この時息子は部活の新入生歓迎旅行で欠席だった。
あっという間に代替わりして、娘、息子の役割だけを演じていればよかった私たちの代が40代、50代を迎え、こうした冠婚葬祭を仕切ることになった。夏休みやお正月に従姉妹たちと遊んでいたのが実に遠い昔になってしまった。
伯父伯母とも息子が誕生してお祝いして頂いた後は、年賀状のやりとりだけで、殆どご無沙汰になっていた。
両親を含め親戚と再会したのも前回の納骨式以来、実に2年近く経っている。
父母とも末っ子なので、今や伯父伯母を見回しても夫婦そろって健在なのは我が家と父方の伯父伯母一組だけだ。こうして親の老いと思春期の息子の子育てを同時並行で経験していくにつけ、今、私ができる娘としての唯一の親孝行はやはり両親より1日も長く生きることだ、と心に刻んだ。
法事後の会食は、奇しくも30年も前に母方の祖母の喜寿の祝いをした場所だった。6,500坪もあるという敷地に点々と50近くの庵。水車を前に照れくさそうに微笑んでいた祖母の写真が、ずっと実家に飾ってあったのでなんとなく覚えていたのだが、やはり随分進化して、かつては野趣溢れる感じだったものがより洗練されていて、不思議な気分になった。
奥には水芭蕉庭園があり、まだ先日の雪が残る中、満開の水芭蕉を散策しつつ心豊かに帰宅した。