ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2012.5.9 心配するからこそ引き寄せるもの

2012-05-09 06:01:24 | 日記
 先日、ある方とお話していた時のこと。
 出家はせずに、在家のまま3年計画で御仏様の勉強を始めることにしたのだという。私と同い年だが、ご両親が健在だ。葬儀の時に自分が読経出来るように長生きしてね、と言ったのだ、と笑っておっしゃっていた。

 そういう彼女の今年のお題は「信じる」ことだそうだ。
 物事を心配するから、かえってその心配ごとを引き寄せるのではないか、と。もちろん心配事は尽きないけれど、自分の息子だからきっと大丈夫、自分の娘だから大丈夫、信じて大丈夫、と。

 「何々してはいけない」という否定的な言葉よりも「何々をした方がいい」の方がまだ良いという。否定的な言葉がますます否定的なことと結びつき、さらには悪いことを呼び込むのだ、と。

 だからこそ、自分のこれまでの来し方、生き方を振り返るのだという。
 これまで半世紀生きてきて、これからは良く死んでいくために他人様(ひとさま)のためになることをして生きていきたいという。他人のために良いことをして徳を積めば、きっと神様(御仏様)はむごい死に方をさせないでくださるのではないか、と。

 むごい死に方・・・、例えば昨年の大震災等で誰しもが根底から覆されたといえる命の儚さ、見直さざるを得なくなった命のこと。突然の災害等で一瞬のうちに断ち切られた命を思い、その思いを新たにした方は多いだろう。

 一方、私たちの年代では親の介護等、超高齢化社会の厳しい現実と直面している。災害などなくても、死は身近な問題として私たちの周りに存在する。延命処置を施され、自らの意思とは関係なく生き長らえる。そして、病院で迎える死、果たしてそれが本当にむごくない死だと言い切れるだろうか。娘や息子として、親がどんな形であろうと生きていさえすればよいと思うか否か、またはどんな形であれ、親自身が生きていたいと思うかどうかは、もちろん、人それぞれであろう。

 彼女が言う、親のあるいは自分の、彼女にとってのむごい死に方―自分の意思を伝えることが出来なくなるような患い方をした上での死や突然の事故死等-にならないために、これから勉強していきたいのだ、という言葉に、なるほど・・・と思った。 もちろん、誰しも自らの死に方は選べないのだから、それはあくまでも勉強していくための端緒であるのだろうけれど。

 振り返れば私は、朝から晩まで息子に対して否定的な言葉である「何々するな」と言っているのではないか、と思わず下を向いた。ちゃんと信じよう。その都度その都度一生懸命、精一杯命のリレーとして育んできたのだから。
 それに、私もこうして病を得てから、少しでもよいからどなたかのお役に立ちたい、と思うようになっている。せっかく父母に連なる命からその命を与えられた身だ。良く死んでいくために、良く生きなければならないのだ、と改めて思う。

 今日は通院日。明朝は早朝都心会議。治療翌日ということもあり、大事を取って近くのホテルに前泊する。

 そんなわけで、本日更新予定の治療日記(2012.5.9 ナベルビン30クール2回目、ゾメタ70回目)は明日帰宅後の更新とさせて頂きます。どうぞよろしくお願いいたします。


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