昨夜、義母が入所している特養施設の担当者から、入居時に“身元引受人”となった夫に連絡があった。
入院先の主治医との話で、「(義母は)今後快復が望めない」ことが確認されたという。また、義母が元気な頃にしたためていた「延命治療は望まない」という押印済みの書面が見つかったそうだ。
そのため、義母の意思を尊重すれば延命のための胃ろう、気管切開や心肺蘇生等は行えないということになる。経口栄養摂取が難しいということなので、原則として口からの食事を提供する施設に戻ることは出来なくなった。
見舞いに行くたび、意識も斑になっていたし、私はもとより夫のことも判らなくなっていたので、施設に戻れないというのは致し方ないことなのか、と思っていた。何より施設では体調のトラブルがある度に、仕事中であろうが夜中であろうが構わず義妹のところに電話が入り、義妹が仕事どころではない、と音を上げていたことも問題だった。だから入院出来て義妹は心底ほっとした、と聞いていた。
ところが、何か行き違いがあったのか現状認識の違いがあったのか、先週末「もう一度、食事訓練から始めて面倒を見させてください。」という話が施設の担当者から出た。
このことで、一旦は回復は難しいからこのまま病院で最期を迎えるしかないという気持ちが固まりつつあった義妹が、また悩ましい状態になっており、案じていた。
病院で点滴の管に繋がれ、ただ最期を待つだけという判断をすること-自分が母の命の選択をすること-は辛すぎる、どうしたらいいのだろう、と判断の重みに耐えかねている義妹の悲鳴を聞いた。
けれど、今回、主治医から、胃ろう又は経管栄養しかないとの説明が特養の担当者に行われ、特養としては、「もう一度、食事訓練から・・」とは言ったものの、それではやはり施設で受け入れることは困難、となった。
結局、点滴を施すだけの病棟への移動を受け容れるしか術がないことになる。義妹としては、自分が敢えてそういう選択をしたというのではないということで、むしろ救われるのではないか、と夫と話した。
義妹は、義母の今の状態がこんなに(闘病生活が)長くなるとはゆめゆめ思わなかったそうだ。一昨年暮れに脳出血で倒れた時に、そのまま(病気が)悪くなって亡くなることしか想定していなかったという。だから、急性期には義母の意向を忖度して“延命治療はしない”という判断をしたものの、この1年半で、本当にそれでよいのか、とその気持ちが揺らいでいるというのは十分考えられる、と夫は言う。
義母が倒れ、認知症の症状が進んで自分の意思を伝えることが出来なくなってからは、当然のことだけれど、義妹や夫の意向により今の義母があるわけだ。
義弟や私にとっては実の親ではないから(決して冷たく突き放しているわけではない。)、義妹や夫が納得出来る母親の見送り方をすることが何より大切なことで、今の状況でのベスト(ベター)な選択をしてもらうしかない。
けれど、冷静に考えてみれば、この状況が例えばあと10年後でなくて良かったとも思う。これ迄1年半近く、義妹夫婦も私たち夫婦も肉体的、経済的に今出来る最大限のことをしてきた。私たちの体調や資力が10年後に同じであるとは限らない(第一私が10年後まで元気でいられるというなら、そもそもこんな闘病記ブログを書いているわけがない。)。
さらに、受け容れ先を探しながら病院を移動することもなく、今の病院で入院が継続出来る、ということも幸運だったのではないか、と思う。今の義母は肺炎も治り、特に悪い所があるわけではないため、今いる治療が必要な人たちの病棟には最大3カ月しかいられないそうだ。その間に、2階下の点滴病棟(でどなたかが亡くなって空きが出て)に移動することになるのだろう。
こんなことがあって、自分自身のことを振り返れば、今までなるべく三猿状態(見ない聞かない言わない)、アンタッチャブルにしてきた両親と、きちんと機会を設けて話をしておかなければならない、と思うようになっている。
今年の誕生日が来れば85歳と80歳になる“後期高齢者”の両親だ。いつ何時、何が起こるかわからない。義母と両親の最期が重なることだって考えられる。そんな状況になったら、悩んで迷っている時間などないだろう。
面と向かって、最期にどうしたいか、と訊くのはなかなか辛いことではあるが、避けられないこと。
延命治療についても葬儀についてもお墓(これに関しては、両親は早々と都営霊園の合祀の手続きを済ませている。一人娘の私が自分たちより長生き出来るかわからず、全くあてにならないし、1人きりの孫に墓守をさせるのもどうか、と考えてのことらしい。)のことについても、書面にしてその意向確認をし、預かっておくなりしておきたいと思う。
お互い後悔をしない最期を迎えるために。
今日は朝から冷たい雨。夜に向けて予報通り土砂降りになった。
昼前からは新入生向けの資料配りで、屋外で立ち仕事、力仕事。手がかじかむような寒さの中、ダウンコートとブーツで臨んだ。
さすがにこの雨は花散らしの雨になるだろう。10日近く楽しむことが出来た桜も終わり、この雨が上がったら、芽吹き始めた木々の緑がいきなり輝いてくることだろう。
入院先の主治医との話で、「(義母は)今後快復が望めない」ことが確認されたという。また、義母が元気な頃にしたためていた「延命治療は望まない」という押印済みの書面が見つかったそうだ。
そのため、義母の意思を尊重すれば延命のための胃ろう、気管切開や心肺蘇生等は行えないということになる。経口栄養摂取が難しいということなので、原則として口からの食事を提供する施設に戻ることは出来なくなった。
見舞いに行くたび、意識も斑になっていたし、私はもとより夫のことも判らなくなっていたので、施設に戻れないというのは致し方ないことなのか、と思っていた。何より施設では体調のトラブルがある度に、仕事中であろうが夜中であろうが構わず義妹のところに電話が入り、義妹が仕事どころではない、と音を上げていたことも問題だった。だから入院出来て義妹は心底ほっとした、と聞いていた。
ところが、何か行き違いがあったのか現状認識の違いがあったのか、先週末「もう一度、食事訓練から始めて面倒を見させてください。」という話が施設の担当者から出た。
このことで、一旦は回復は難しいからこのまま病院で最期を迎えるしかないという気持ちが固まりつつあった義妹が、また悩ましい状態になっており、案じていた。
病院で点滴の管に繋がれ、ただ最期を待つだけという判断をすること-自分が母の命の選択をすること-は辛すぎる、どうしたらいいのだろう、と判断の重みに耐えかねている義妹の悲鳴を聞いた。
けれど、今回、主治医から、胃ろう又は経管栄養しかないとの説明が特養の担当者に行われ、特養としては、「もう一度、食事訓練から・・」とは言ったものの、それではやはり施設で受け入れることは困難、となった。
結局、点滴を施すだけの病棟への移動を受け容れるしか術がないことになる。義妹としては、自分が敢えてそういう選択をしたというのではないということで、むしろ救われるのではないか、と夫と話した。
義妹は、義母の今の状態がこんなに(闘病生活が)長くなるとはゆめゆめ思わなかったそうだ。一昨年暮れに脳出血で倒れた時に、そのまま(病気が)悪くなって亡くなることしか想定していなかったという。だから、急性期には義母の意向を忖度して“延命治療はしない”という判断をしたものの、この1年半で、本当にそれでよいのか、とその気持ちが揺らいでいるというのは十分考えられる、と夫は言う。
義母が倒れ、認知症の症状が進んで自分の意思を伝えることが出来なくなってからは、当然のことだけれど、義妹や夫の意向により今の義母があるわけだ。
義弟や私にとっては実の親ではないから(決して冷たく突き放しているわけではない。)、義妹や夫が納得出来る母親の見送り方をすることが何より大切なことで、今の状況でのベスト(ベター)な選択をしてもらうしかない。
けれど、冷静に考えてみれば、この状況が例えばあと10年後でなくて良かったとも思う。これ迄1年半近く、義妹夫婦も私たち夫婦も肉体的、経済的に今出来る最大限のことをしてきた。私たちの体調や資力が10年後に同じであるとは限らない(第一私が10年後まで元気でいられるというなら、そもそもこんな闘病記ブログを書いているわけがない。)。
さらに、受け容れ先を探しながら病院を移動することもなく、今の病院で入院が継続出来る、ということも幸運だったのではないか、と思う。今の義母は肺炎も治り、特に悪い所があるわけではないため、今いる治療が必要な人たちの病棟には最大3カ月しかいられないそうだ。その間に、2階下の点滴病棟(でどなたかが亡くなって空きが出て)に移動することになるのだろう。
こんなことがあって、自分自身のことを振り返れば、今までなるべく三猿状態(見ない聞かない言わない)、アンタッチャブルにしてきた両親と、きちんと機会を設けて話をしておかなければならない、と思うようになっている。
今年の誕生日が来れば85歳と80歳になる“後期高齢者”の両親だ。いつ何時、何が起こるかわからない。義母と両親の最期が重なることだって考えられる。そんな状況になったら、悩んで迷っている時間などないだろう。
面と向かって、最期にどうしたいか、と訊くのはなかなか辛いことではあるが、避けられないこと。
延命治療についても葬儀についてもお墓(これに関しては、両親は早々と都営霊園の合祀の手続きを済ませている。一人娘の私が自分たちより長生き出来るかわからず、全くあてにならないし、1人きりの孫に墓守をさせるのもどうか、と考えてのことらしい。)のことについても、書面にしてその意向確認をし、預かっておくなりしておきたいと思う。
お互い後悔をしない最期を迎えるために。
今日は朝から冷たい雨。夜に向けて予報通り土砂降りになった。
昼前からは新入生向けの資料配りで、屋外で立ち仕事、力仕事。手がかじかむような寒さの中、ダウンコートとブーツで臨んだ。
さすがにこの雨は花散らしの雨になるだろう。10日近く楽しむことが出来た桜も終わり、この雨が上がったら、芽吹き始めた木々の緑がいきなり輝いてくることだろう。